■ 第2日 / 10月30日 ■

前日は早めに寝た事もあり、目覚めた時には体調も幾分持ち直していました。

駅 名
時 刻
列 車
線区名
新庄
09:15発
9722レ
(小牛田から9533レ)
レトロ義経号
陸羽東線
小牛田
12:01着
12:21発
東北本線
平泉
13:09着
13:31発
1538M
一ノ関
13:40着
13:44発
536M
石越
14:05着
14:12発
 
くりはら田園鉄道
くりはら田園鉄道線
細倉マインパーク前
14:56着
16:07発
 
石越
16:51着
17:07発
542M
東北本線
仙台
18:28着
18:51発
1844S
仙石線
あおば通
18:53着
あおば通ー仙台間徒歩移動
仙台
21:24発
3030B
はやて30号
東北新幹線
東京
23:08着

今回の旅行のメインである「レトロ義経号」の後にくりはら田園鉄道に乗りましたが、その先で予想もしなかった異次元空間に引き込まれる事になりました。

ポストホテルでは朝食が付きます。正直な所、大して期待はしていませんでしたが、ふんわりとしたトーストが美味しいなかなかの物でした。

9722レ「レトロ義経号」の発車は9時15分。イベント列車なので少し早めの9時5分前に駅に行くと、既に改札の向こうに旧型客車がいるのが見えました。

発車セレモニーは既に始まっているようで、DE10の横で太鼓の演奏をやっています。

演奏が終り、出演者も観ていた人達も三々五々に散って行きます。DE10は長い方のボンネットを前にして停まっていて、ヘッドマークも付いています。

旧型客車列車が現役だった頃の雰囲気を少しでも出せないかと近付いてみましたが、車体が綺麗過ぎるのかあまりそれらしくなりませんでした。

DE10の客車側には前日に走った9727レ「レトロ弁慶号」のヘッドマークが付いています。

編成は先頭寄りの1号車から順にスハフ42 2173、オハ47 2261、スハフ32 2357となっていて、7月に乗った「SL会津只見号」と基本的に同じでありながら、中間のオハ47だけが2266から2261に代わっています。

僕の席は3号車のスハフ32にあります。車内は宮脇氏言う所の「半狂乱の人」でかなり混んでいました。

9時15分、太鼓の演奏に見送られて列車は滑り出しました。

太鼓と花火と車掌さん(1.5MB / 6秒間)

3駅通過して最初の停車駅である瀬見温泉に停車します。着いたのは9時35分頃で、発車は55分なので結構な長時間停車です。ホームでは新庄とはまた別の太鼓の演奏があり、花火も上がっています。やたらと大人数が乗り込んでいる車掌さんも仕事をしながら楽しんでいるようで、カメラを持った人も結構いました。

ホームでは汁物も振る舞われていました。名前は忘れてしまいましたが、醤油でも味噌でもない味付けが物凄く美味しかったです。車掌さん達も乗客と一緒になって食べていました。

時間があるので列車の周りを歩きます。真新しい駅である新庄で見るよりも現役当時の雰囲気を感じます。

何人もいる車掌さんの中で、この人だけが国鉄時代の制服を着ています。国鉄時代に自分で着ていた物を出して来たと車内アナウンスで言っていたと思います。

10時39分、鳴子温泉着。ここでも11分間停車します。ホームではおばさんコーラス隊がキーボードを中心に半円状に並んで歌を聴かせてくれました。

鳴子温泉の駅舎には足湯があります。横には役所の観光課か観光協会の人がいて、ベンチに座って湯に足を浸している人達にアンケート記入を頼んでいます。

途中、岩出山という駅で運転停車し、鳴子温泉行き1729Dと交換します。駅舎には鉄道資料館という看板があり、後で調べてみると岩出山の駅舎は小さいのが別にあり、旧駅舎を観光物産センターとポッポランドという名の鉄道資料館として使っていて、駅前には小さいディーゼル機関車も保存されているようです。

西古川駅前にいたC58 19。列車の中から見た限りでは結構綺麗にしているようでした。

古川でも9分間停車。東京から今朝出発だとここでやっとこの列車に乗れるので、残り少ない空席も埋まるのかと思ったら大して乗って来ませんでした。

機関車を付け替えると思われる小牛田に着く寸前、側線にヘッドマークを付けたED75がいるのが見えます。やはり読みは当たっていました。

12時1分、小牛田着。ここで20分間停車して機関車を付け替えます。着いてすぐにDE10は切り離されて引き揚げて行きます。

そして真打のED75 758が今までと逆側に連結されます。車体はピカピカに磨かれています。

ED75は交流電気機関車の標準型として'63年から302両が製造された形式で、0/300/500/700/1000番台の5種類があり、東北地方を中心に北海道から九州まで配備されました(北海道は1両、九州は11両のみ)。

その中でこの700番台は奥羽本線/羽越本線用に耐雪耐塩害仕様として造られ、板谷峠以外の両線区で客貨どちらにも使われていました。客車普通列車が絶滅し、「あけぼの」がEF81のスルー運転になった現在ではごく稀にしか客車を牽きませんが、以前は「あけぼの」をはじめとする奥羽本線系統の優等列車も牽いていて、僕自身も散々世話になった機関車です。

他の番台が通常型のパンタグラフを積んでいるのに対し、700番台は下枠交差型を積んでいて屋根の上がすっきりしているのが特徴です。1000番台より番号が若いですが、製造開始は1000番台が'68年、700番台が'71年と700番台の方が後で、700番台は交流電気機関車の完成形と言われています。

91両造られた700番台の内、34両が青函トンネル用のED79に改造され、残りも廃車が相次ぎ、現在JR東日本に残っているのはたったの7両。あまり機関車を必要としないJR東日本が最終型の700番台を受け継ぎ、機関車なしでは商売が出来ないJR貨物が古い0番台と1000番台を受け継いだのは不思議ですが、現状で現役の700番台はこの7両しかいません。

別のホームにあるトイレに行くと、JR貨物のEH500が牽くコンテナ列車が走り抜けて行きます。

JR貨物は今でもED75を使っていますが、このEH500配備によって廃車が進んでいます。EH500は交流で動かした時の出力が4,000kWとED75の1,900kWの2倍程度で、新しいわりにはあまりパッとしないスペックですが、あまり強力過ぎても変電所の容量が追い付かないのと、JR貨物の列車が他の会社の線路を走る際に支払う線路使用料は機関車1両が1Km走っていくらという形になっていて、EH500単機だとED75重連の半額で済むというのも理由なのだそうです。

同じ事は中央本線を中心とする甲信越地方でも起こっていて、出力2,550kWのEF64を重連で走らせる代わりに4,520kWのEH200での置き換えを始めています。

ED75に牽かれた列車は現役時代を彷彿とさせるスピードで東北本線を疾走します。この辺りの普通客車列車は10両以上繋いでいたのも多かったようで、ED75にとってはたった3両のこの列車など物足りないかも知れません。

13時9分、あっと言う間に平泉着。ヘッドマークを切る為、テレ端で撮った写真を更にトリミングしてみました。ブルートレインにはヘッドマークがないと不満を言う癖に、この列車ではヘッドマークを邪魔に感じるのは勝手と言う他ありません。

乗客を降ろした列車はほんの2-3分程度で出て行ってしまいます。平泉には側線や待避線といった他の列車を避ける為の設備がなく、すぐ後に13時4分一ノ関始発の盛岡行き1539M(平泉発13時12分)が迫っているので道を空ける必要があります。貨物列車の時刻表を持っていないので実際に可能かは判りませんが、1539Mの後は1時間列車がないのでもう少し遅く着いてゆっくり見ていられる時間が欲しかったとも思います。

平泉からは来た道を戻りますが、次の列車までは少し時間があります。朝食べたっきりで空腹なので駅前を見回しましたが、それらしき店はすぐには見付からず、探している時間もないので駅舎に戻ります。

駅舎の中には小さな食堂があり、そこで山菜うどんを食べました。

次の列車は13時31分発の一ノ関行き1538M。最もつまらないタイプの電車が来ました。正に天国から地獄です。

一ノ関着13時40分。4分間の乗り継ぎで小牛田行き536Mに乗り換えます。また最もつまらないタイプの電車です。

今日は「レトロ義経号」以外にもう1つ目的があるので、14時5分着の石越で下車。お目当てのくりはら田園鉄道の石越駅は東北本線の石越駅と駅前広場を挟んだ向かい側にありました。

くりはら田園鉄道、通称くりでんは石越から細倉マインパーク前までの25.7Kmを結ぶ第3セクター鉄道で、利用者減により'07年3月いっぱいでの営業終了が決定しています。

石越の駅舎は不思議な造りの可愛らしい建物で、入口に出札窓口がありますが、無人駅でした。

自動券売機で切符を買ってホームに出ると、レールバスが乗客を待っていました。貫通路のドアには「くりでん義経号」とあり、ここでも義経が名前を出しています。

くりはら田園鉄道は1921年に栗原軌道という名の軌間762mmの軽便鉄道として部分開通したのが事の始まりで、その後社名を栗原鉄道、栗原電鉄、宮城中央交通、再び栗原電鉄と変え、'93年に親会社の三菱マテリアルが経営から撤退した時に沿線5町による第3セクターへと移行しました。

全線電化は'50年、軌間を国鉄と同じ1,067mmに改軌したのは'55年の事で、当時は国鉄からの直通列車も走っていたそうです。

石越発は14時5分。2駅目の若柳には車両区が併設されていて、レールバスや電車が留まっているのが見えます。

写真の車両はパンタグラフ付きに見えますが、このパンタグラフは向こう側にいる電車の物でこの車両自体はレールバスです。何故電化されているはずのこの路線にレールバスがいるかと言うと、'95年に維持費の掛かる電化設備を取り払って全線非電化としたのが理由で、その際に社名も栗原電鉄からくりはら田園鉄道に変更しました。社名に田園を入れたのは通称であるくりでんを変えない為ではないかと思います。

路線端に架線のない架線柱が立ったままになっているのを見ながら列車は進み、14時56分に細倉マインパーク前着。駅前にはED202と書かれた電気機関車と2軸の小さな貨車がいました。手前に見える看板には「乗って残そう栗原電鉄」とありますが、社名が古いままなので10年以上前の物だと思われます。

今日は時間があるので来た列車ですぐに引き返さず、この先にある細倉鉱山跡を利用した細倉マインパークへと行きます。ここからは見えませんが、地図ソフトによると道なりで750m程度。大した距離ではありません。

くりはら田園鉄道も元々は細倉鉱山からの鉱石を運んでいました。しかし'87年に細倉鉱山が閉山すると同時に貨物取扱も終了。翌年には細倉ー細倉鉱山間0.7Kmも廃線となりました。'90年には0.2km延伸して細倉マインパークを開設、それまでの終着駅だった細倉を廃駅にしました。

大きなカーブを描く県道180号線を10分少々登ると細倉マインパークに着きました。着く少し前から無駄に大きいウーファーを積んだガラの悪い車が眼に付き出して妙な雰囲気だと思っていましたが、駐車場にはその手の車がびっしり留まっていて、ほとんど無人なのだろうと勝手に想像していた敷地内には一種共通の雰囲気を持った人達がやたらといます。

何かが、変です。

次に眼に入ったのは夥しい数のデコトラでした。何か僕が全く知らない世界のイベントが行われているようです。

見回すと辺り一面にデコトラが敷き詰められています。SF小説で何かのはずみで異次元空間に入ってしまうというのはよくありますが、それを実際に体験しているような気分です。

隅の方でバーベキューをやっている人達もいます。この辺りに並んでいるデコトラは比較的おとなしめに見えますが、それはきっと僕の眼が慣れ始めているせいで、街中で見掛けたら相当いかついはずです。

屋台も結構出ていて盛り上がっているようです。あまり正視はしていませんが、この辺りに最もいかついデコトラが集まっているようでした。

敷地内にはステージがあり、そこに出されたA3用紙を貼り合わせたプログラムによるとこのイベントは「アートトラック IN 細倉マインパーク」というタイトルらしく、8時のトラック入場から始まってビデオ放映、開会式、アトラクション、歌謡ショー、ゲーム/ビンゴ、田島会長のひとりごと、ビデオ放映、花火大会、ナイトショーと続いて17時半に閉会するというアジェンダになっていました。時間帯的には本来なら2回目のビデオ放映をやっているはずですが、何もやっていなかった所を見るとスケジュールは押しているようです。

あまりの事に少し意識が薄れかけましたが、細倉マインパーク本体を見に行く事にします。入場料を払い、ゲートをくぐると今までの喧騒が嘘のように誰もいませんでした。

細倉鉱山の歴史は恐ろしく古く、鉱脈の発見は806〜876年と実に1,000年を軽く超す歴史を誇ります。主な産出鉱物は鉛と亜鉛で、金や銀も出たそうです。入口から入ってしばらくはその道具やトロッコを牽引していたバッテリー機関車等が展示されています。

それにしても、誰もいません。中に入った直後に出口に向かっているらしき子供の声と足音を聞いただけで、見る限り坑道には僕1人です。

遠くに明るくなっている所があり、人影が見えたのでやっと誰かいると思って近付くと展示のマネキンでした。対人センサーを仕込んであるらしく、近寄ったら勤務交代時と思われる音声が流れました。

総延長1,000Kmを超える足尾銅山程ではありませんが、ここ細倉鉱山も600Km以上の坑道延長を誇ります。

観光坑道は入口からずっと真っ直ぐ進み、行き止まりで螺旋階段を降りて1つ下の階層へと入って行きます。

階段を降りた先には、また別の異次元空間がぱっくりと口を開けて待っていました。

またも対人センサーがあるらしく、ほぼ真っ暗な下の階に着くと大袈裟なSEと共に円板状のオブジェの各部が光り始めます。その中央部には大きな球体があり、その中に胎児が浮かび上がります。ここまで誰にも合わずに来て少々心細くなっているのもありますが、非常に不気味です。

細倉マインパークは「鉱山の歴史ゾーン」と「タイムトラベルゾーン」の2つで構成されていて、ここが「タイムトラベルゾーン」の始まりのようです。

不気味な胎児のオブジェの前から早々に退散して先を急ぐと、普通の蛍光灯に照らされた細長い部屋に出ます。一気に現実に引き戻されたような気分になってここは何だろうと思ったら、砂金採り体験コーナーでした。写真奥の薄緑色の帽子を被っているのがここの係のおじさんですが、ここまで来てようやく人に会えました。

この後も恐竜の骨の模型があったりエジプト文明の壁画があったりと、何故ここにあるのか解らない物だらけで、他の客に会わないまま着いた出口の寸前は何故か森になっていました。後の調べによるとこれらの妙な展示は外部コンサルタントの提案による物らしく、そういう事であれば非常に納得のいく話でした。僕は「タイムトラベルゾーン」自体に価値を見出せませんが、この手の物を造る際の反面教師としては非常に有意義な展示だと思います。

やたらとコーナーが多かった「タイムトラベルゾーン」とは対照的に鉱山関係の展示は喰い足りなく、もっと展示の量を増やして良いのではと感じます。何故2ヶ所に別れているのか不思議ですが、この近くにはまた別の鉱山資料館があり、その展示もここに取り込めたら更に興味深い物になると思います。

妙な疲労感と共に地上に出ると、ステージでは「田島会長のひとりごと」らしきトークショーをやっていました。田島会長らしき人物はステージ前縁に座り込んでしまっていて、完全にぐだぐだになっています。この写真を撮ったのは15時50分ですが、本来ならこのコーナーは15時には終っているはずで、スケジュール的にもぐだぐだです。

2つの異次元空間が交錯する細倉マインパークを後にし、16時7分発の列車で石越へと戻ります。

写真は16時23分発の栗駒にて。くりはら田園鉄道では一部でタブレット閉塞が残っているので、駅員さんがタブレットを持って来ます。

車両区がある若柳にて。既に架線はありませんが、電車は留まったままです。

16時51分、石越着。辺りはかなり暗くなっています。

東北本線側の石越で17時7分発の542M仙台行きを待ちます。雲の切れ目から見える空が見事に赤と青に分かれていました。

またも最もつまらないタイプの電車の542Mは小牛田で6分間停車し、気仙沼から来た3922D快速「南三陸4号」仙台行きに抜かれます。「南三陸4号」はキハ40系で、あちらの方が早く着くし車両も良いのですが、542Mから結構な人数が乗り換えて混雑していたのでそのまま仙台まで行く事にしました。

ガラガラになった542Mはほとんど明かりのない中を各駅に停まりながら走ります。やたらと着飾った女の子が周囲に人の気配を感じられない駅から乗って来たりするのは不思議な感じです。

仙台着は18時51分。あとは新幹線で帰るだけですが、その前に食事、更にその前にもう1本列車に乗ります。

コインロッカーに荷物を入れ、長いエスカレーターを下って地下にある仙石線のホームへと向かいます。

仙石線は仙台と石巻を結ぶ路線ですが、'00年に仙台からあおば通までの1駅だけ逆方向に延伸されました。その駅間はたったの500m。16両編成の新幹線車両と大差ない長さです。しかしこんな短距離でも後々問題になるかも知れないので、乗れる時に乗り潰しておきます。

ホームで待っていると既に山手線からはいなくなった205系がやって来ました。1944年に国が宮城電気鉄道を買収した経緯から、電化区間は交流のみの東北地方にあって唯一仙石線だけが直流電化されていますが、そのせいか昔から中古の通勤型電車が走る路線となっています。石巻は石ノ森章太郎の出身地である事から、この205系にはサイボーグ007や仮面ライダー等のキャラクターがラッピングされていました。

18時51分に仙台を出た1844Sは地下線を走り、本当にあっと言う間にあおば通に着きました。ここも地下駅で、逆側のホームには次の列車を待つ人達が並んでいます。

食事は牛タン屋の利休。以前来た店より少し仙台駅寄りの店です。仙台の街には詳しくありませんが、特に迷う事もなく行けました。

仙台ではゆっくりするつもりだったので、指定券は最終の「はやて」を取ってあります。牛タン定食と一緒にビールを呑みましたが、呑み足りないのもあって駅ビル内のまぐろ茶屋という寿司屋にハシゴしました。この季節にこの辺りなら生ガキしかありません。ビールはもう呑んでいたので最初から日本酒です。綿屋という純米酒を試してみましたが、かなりの辛口でとても美味しかったです。前夜の弥平治も含め、今回は日本酒運が良かったです。

いい気分になって店を出てから気付きましたが、寿司屋のカウンターで握りを頼まずにつまみと日本酒だけ、というのは僕の年齢でやるには分不相応で滑稽だったかも知れません。でも同時に少し大人に近付いたような気にもなりました。

仙台からは3030B「はやて30号」で一直線。東京着は23時8分でした。

ED75と旧型客車の取り合わせは本当に良かったのですが、もうこの手のはいいかな、というのが正直な所です。列車自体には何の不満もないし、詳しく書く気もありませんが「半狂乱の人達」の車内での行状はその良さを消して余りある物で、今後は人が集まり過ぎる列車は避けようと考えています。

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