■ 第1日 / 7月1日 ■

この日のハイライトは何と言っても「SL会津只見号」。蒸気機関車牽引なのも魅力ですが、旧型客車に乗るのは記憶にある限りでは初めてなのでとても楽しみにしていました。

駅 名
時 刻
列 車
線区名
中野
06:24発
671T
中央本線
三鷹
06:38着
06:39発
617H
中央特快
八王子
07:03着
07:20発
777E
八高線
高麗川
08:15着
08:18発
321D
倉賀野
09:38着
09:39発
高崎線
高崎
09:44着
09:55発
311C
Maxとき311号
上越新幹線
越後湯沢
10:21着
10:40発
1731M
上越線
小出
11:24着
12:04発
9428D
只見線
只見
13:24着
13:40発
9430レ
SL会津只見号
会津若松
16:54着
17:33発
1229M
磐越西線
喜多方
17:48着

泊地は喜多方。会津若松とどちらにしようか迷いましたが、喜多方ラーメンに釣られてこちらにしました。

今回の切符。最初は東京駅の丸の内口に行ったものの経由線区が多過ぎて端末に入り切らず、八重洲口に回されてしまいました。そちらでもすぐの発行は無理で、翌日取りに行くと手書きの切符が待っていました。経由線区はやはり書き切れないので別紙がホチキス止めされています。

今回の出発駅は中野。地下鉄で来たので一度パスネットで改札を出てから件の切符で入り直します。見せるだけかと思っていましたが、判子を捺されました。

最初に乗ったのは中野発6時24分の671Tですが、実はこの列車にのるつもりはなく、車内放送を聞いていて本来の列車と違うと気付きました。

本来乗るべきだった617H中央特快に三鷹で乗り換え、7時3分に八王子着。

八王子は駅から色々な貨物列車が見える楽しい駅で、この時はすぐ横にJR貨物の最新鋭機、EH200がいました。

次の列車は7時3分発の777E。その昔、バンド仲間が東武東上線の志木に住んでいて、その家に泊まりに行く時に東飯能から数回乗った事がある路線ですが、その当時の八高線はカラスミ色のディーゼルカーがごくたまに来るだけのローカル線でした。それが高麗川以南はいつの間にか電化され、ステンレス製の電車が走る通勤路線に様変わりしていて、改めて20年間という月日の長さを感じます。

平日朝の通勤路線なので当然乗客が多く、どうせ座れないならという事で一番前のかぶり付きの所に立つ事にしました。

電化されたと言っても単線なのは相変わらずで、時折駅で行き違いの列車を待ちます。沿線は随分と宅地化が進んでいますが、東飯能の手前辺りでは完全に山の中に入って行き、あまり変わっていない部分もあるようでした。

高麗川には8時15分に着き、3分間の接続で321D高崎行きに乗り換えます。高麗川まで乗った777Eはそのまま川越線に入って川越に向かいますが、電化されていない関係もあって八高線は乗り換える必要があり、どちらが同じ路線なのか判らなくなります。

写真は8時49分着の竹沢にて。発車が8時53分で少し時間があるのでホームに降りたら紫陽花が満開になっていました。

寄居では秩父鉄道の元国鉄101系と東武線の電車が見えました。その昔の東武線はクリーム色単色だった記憶がありますが、これも知らぬ間に変わっています。

この321Dの車両はキハ110系という最近のディーゼルカーで、車内はセミクロスシートになっています。僕の隣のボックスに座った背広姿のおじさんは前の座席に足を投げ出してすっかりくつろいでいて、随分と優雅な通勤風景だと思います。僕自身はフリーランスなので通勤そのものに縁がありませんが、それでも羨ましく感じます。

倉賀野から高崎線に入り、ムーミンのあだ名を持つEF55他、色々な形式の車両を見つつ9時44分に高崎着。停まったホームからは旧型客車が4両見えます。JR東日本が走らせている旧型客車は全部で7両で、これから乗る「SL会津只見号」は3両編成なので、ここにいるのが残りの全てです。

高崎から越後湯沢までは9時55分発の311C「Maxとき311号」で行きます。中野の改札で入って以来、例の切符は誰にも見せていませんでしたが、ここの新幹線改札で初めて見せました。どういう反応をするのかな、と若い女性駅員の様子を窺っていましたが、経由の紙も見ずに通してくれました。

「Maxとき311号」は2階建てのE1系で来たので、2階部分に座ります。JR東日本はとにかく席数を増やす方針なようで、恐ろしい事に自由席の2階部分は6列席です。席の間の肘掛けもなく、背当ては倒れないばかりか3席が一体になっています。通勤客が増えてしまった上に東京ー大宮間は東北、上越、長野の各路線の列車が走り、しかもその区間は沿線住民の反対で速度を上げられないので増発もままならないという二重苦三重苦の状況で苦し紛れに考えたのがこの6列席なのだそうですが、ここまでやるのならロングシートでもあまり変わらないような気もします。

10時21分、越後湯沢に到着。次の上越線の普通列車まで少し時間があるので、構内でうどんを食べます。隣の駅弁屋には長蛇の列が出来ていましたが、こちらは空いていました。

すぐ近くには随分と懐かしい切符のサンプルが貼られた看板がありました。左下の切符は子供の頃によく手にしたタイプですが、このサンプルと違って当時は漢字や平仮名が使えず、駅名や列車名は全て半角片仮名で印字されていました。みどりの窓口の端末も今のタッチスクリーンやキーボードなど影も形もなく、駅名が書かれた金属製の板をパタパタとめくって該当する場所の穴にピンを挿していくという物でした。ドットインパクトプリンタから吐き出された大きな緑色の切符からは特別な雰囲気が滲み出ていて、乗る日まで毎日何度もその切符を眺めていたのをよく覚えています。

次に乗るのは10時40分発の1731M長岡行き。水上始発の列車ですが、越後湯沢には10時26分から停まっていて、ここ始発のような雰囲気でした。

越後湯沢の隣の石打ではスキー場のゲレンデが見えます。石打に限らず、この辺りにはかなりの数のスキー場がありますが、その中でも石打は特別だったのか、以前はスキーシーズンに「新雪」という名の季節臨時特急が上野から走っていました。僕は斑尾と苗場と志賀に行く事が多かったのですが、石打にも1度だけ来ていて、ゲレンデの頂から上越線の列車が走っているのを眺めた記憶があり、その時に立っていたのは奥に見えるゲレンデの可能性もあります。その時に何に乗って来たかはいまいち覚えていませんが、上越線で急行に乗ったような気がするので、もしかしたら「佐渡」に乗って来たのかも知れません。

11時24分、小出着。40分間時間があるので駅から出ます。改札で駅員さんに切符を見せたら経由の紙を確認し、ちょっと待って下さいねと言って奥から途中下車印を持って来て捺してくれました。

何かの選挙があるらしく、駅前の酒屋の軒先で候補者らしきおじさんが挨拶回りをしています。

改札から出た道をT字路になっている所まで行き、左右を見て何もなさそうなのを確認して駅の目の前のそば屋へ。頼んだそばがなかなか出て来なくてやきもきしましたが、来たらあっと言う間に食べ終りました。

改札を通る時にさっきと違う駅員さんに切符を見せると、まじまじと経路を見てから御苦労様です、まだ始まったばかりですねと言われます。

只見線のホームは駅舎や上越線のホームから離れていて跨線橋を渡った先にありました。ホームの屋根が何故か階段から離れた所にあり、そば屋を出た頃から降り始めた雨に濡れてしまいます。

「SL会津只見号」は会津若松から只見までを往復する列車なので、運転日には小出側の接続用に臨時列車9428Dが出ます。この列車は只見から「SL会津只見号」に乗る人を運ぶだけでなく、只見で降りて小出に向かう人の為に折り返して9423Dとして戻って来ます。

車両はお馴染みのキハ40系。先程乗った115系等も旅行気分にさせてくれる形式ですが、そういう意味ではやはりキハ40系が一番です。ただ、3両編成の内の後2両はロングシートに改造されていて、先頭車だけがセミクロスシートになっていました。他の乗客も考えている事は同じようで、僕を含めた乗客8人は全員先頭車に乗りました。

12時4分に小出を出た9428Dはぐずつく天気の中を進みます。このところの只見線は呪いでも掛かったかのように災難続きで、新潟県中越地震以外にも大雨や雪崩等の天災だけでなく6月9日には橋桁落下という人災までも起きてしまいました。

鉄道関係は復旧しましたが中越地震の傷跡は未だ深く、線路脇に崖崩れのようになっていてパワーショベルが作業をしている場所があり、何だろうなと見ていたらその先に刃物で切り落とされたように途切れた道路がありました。

臨時列車なので地元の人が時刻を把握していないのか誰も乗り降りしないまま列車は進み、それでも律義に各駅に停まります。

この列車の終着、只見から2駅手前の大白川までは只見線で開通が一番遅かった区間で、20.8Kmの営業キロの内の6,359mが六十里越トンネル、3,712mが田子倉トンネルと半分近くの距離が2本の長大トンネルで占められています。この辺りは言わずと知れた国内有数の豪雪地帯で、只見線と並走する国道252号線は冬季通行止になりますが、只見線はこれらのトンネルのお陰もあって通年運行されています。

小出寄りの六十里越トンネルを抜けてから只見寄りの田子倉トンネルに入るまでの短い区間に田子倉という駅があります。ここは国道252号線が通っている以外に全く何もない場所で、人家もなく列車交換施設がある訳でもないここに何故駅があるのか不思議ですが、それが逆に好事家の人気を呼んで秘境駅として有名になっています。以前は普通に駅として扱われていましたが、あまりの何もなさが原因か、最近冬の間は列車が通過するようになって時刻表でも臨時停車場を表す(臨)の記号が駅名の頭に付いています。

ここまでは天気が悪くて先行きが心配でしたが、六十里越トンネルを出た途端に晴れました。

結局乗客の面子が変わらないままで13時24分、只見着。「SL会津只見号」と同じホームに入りました。

会津若松からの下り「SL会津只見号」は12時37分に只見に着いていて、僕が着いた時には既に機回しや方向転換といった準備は終って後は発車するだけ、という状態でした。只見には手押し式の転車台があり、それを使っての機関車の方向転換や石炭の補給は一般から公募した人も一緒になって行うそうです。

この列車の牽引機はC11 325。元国鉄真岡線で現在は第3セクターの真岡鐵道所属で、基本的には真岡鐵道線内で「SLもおか」の50系客車を牽いていますが、時々こうやってアルバイトでJRの列車を牽いています。

真岡鐵道には他にもC12がいて、こちらはドラマの撮影で遠く北海道の留萠本線まで遠征した事もあります。

客車は3両編成で、先頭寄りの1号車から順にスハフ42 2173、オハ47 2266、スハフ32 2357となっています。どれも旧型客車と呼ばれる形式ですが、特に3号車のスハフ32は貴重な存在で、ちょっと見ただけでも妻面に向かって丸まった屋根や木製の内装等、他と違う事が判ります。

窓割にも特徴があり、他の2両が1つのボックスに対して窓1枚なのに対し、スハフ32は窓が2枚あって小さな窓がずらりと並んでいます。

製造はスハフ32が1938年、オハ47が1952年、スハフ42が1953年とスハフ32だけが戦前産まれです。

スハフ32の中に入って思わず息を飲みました。内装が木製なのは聞いていましたが、やはり実際に入ってみるとその雰囲気と言うか、凄みに近い物に圧倒されます。

この列車の指定席を取るに該って事前に判っていたのは1号車が前だという事だけで、どの車両が何号車になるかは判りませんでした。僕は後の車両に乗って列車の前の方を見るのが好きなので最後尾の3号車を取りましたが、これが当たりでスハフ32に席がありました。しかもこの日は団体が乗っているらしく1-2号車は混んでいましたが3号車はガラガラ。指定券がしばらくの間販売停止になっていたので空いているだろうとは思っていましたが、なかなか運が良いです。

発車まであと10分というタイミングで今日の1日駅長がやって来ました。多分地元の子達だと思いますが、男の子2人と女の子1人で、いまいち状況が飲み込めていない様子の本人達よりもカメラを持った親達の方が喜んでいるようでした。

席に座って見回します。車内は禁煙ですが、現役時代のまま保存する方針のようで灰皿も付いたままになっています。本当に網が架かっている網棚やコート掛けと一体化したそのステー、真鍮製の窓のロック等々、興味は尽きません。その中でも一際凄かったのがこの鎧戸。これは元のままのようですが、場所によっては修理済らしく色が変わっている所もありました。

僕の席は3番のA席で、前から2番目のボックスの進行方向逆向き窓側です。窓側がA席かD席というのは判っていたもののどちらが前向きかは判らないので根拠もなくA席にしましたが、逆向きでした。それでも他に乗客はいなかったので前向きに座れたので問題ありませんでした。

みさこい節に送られて発車(14.7MB / 58秒間)

いよいよ発車。隣のホームではおばさん達がみさこい節を踊っています。そこからムービーを撮り始め、そろそろ発車かなと前にカメラを振ったらこれ以上ないタイミングで汽笛が鳴り、列車が走り出しました。あまりに完璧だったので笑いを堪えるのに必死でした。

サイトに載せる写真は全てPhotoshopでリサイズや色調補正を掛けているので、写真に関しては今まで使っていたDimage Xiと今回から使い始めたDMC-FX8の間に違いはほとんどありません。が、ムービーは全く別物になります。まず解像度が320Pixel*240Pixelから640Pixel*480Pixelと面積比で4倍になり、フレームレートも15FPSから30FPSと倍になったのでほぼNTSCと変わらないクオリティになりました。更に35秒間で制限されていた録画時間がSDメモリーカードの容量が許す限り無制限となりました。

高品質になったという事は当然容量も増えます。このムービーの元ファイルは63.8MBもあり、さすがにそのままでは公開不能なのでQuickTime 7 ProでCodecをMPEG-4形式に変換し、ビットレートを2048Kbpsに制限して容量を削っています。H.264の方が格段に綺麗なので本当はそちらにしたいのですが、QuickTime 7以上が必須になるのでもう少し時間を置いてからにしようと思います。

定刻の13時40分に只見を出た9430レ「SL会津只見号」はゆったりとしたスピードで進みます。窓から入る風も心地良く、天気も心配なさそうです。

しばらくしてから手に何かざらざらした物を感じたので見てみると、石炭の燃えカスらしい黒い粒でした。

車内の雰囲気は至って落ち着いていて、昔ながらの汽車旅を堪能出来ます。観光列車には珍しく3時間以上も走るので垂直になった背当てが心配でしたが、現時点では問題ありません。

トンネルの手前に差し掛かると窓を閉めて下さいとの案内放送があり、それに従うと車内の温度がじわりじわりと上がって来るのが判ります。

今まで乗った蒸気機関車牽引の列車はJR北海道の「SL函館大沼号」と秩父鉄道の「パレオエクスプレス」がありますが、考えてみると「SL函館大沼号」の客車は窓が開かない14系、「パレオエクスプレス」は窓が開く12系ではありましたがトンネルがなく、こうやって窓を開け閉めするのは初めてです。

トンネルはこの先にも何ヶ所もあり、その度に放送が入って窓を開けたり閉めたりと楽しいような面倒なような事を繰り返していましたが、これを列車に乗る度にやらなければいけなかった昔の人にとっては蒸気機関車というのは決して良い物ではなかったのだろうと感じました。

只見を発ってから最初の停車駅、会津川口には転車台がありました。時刻表ではこの駅に着くのは14時23分となっていましたが、どうも少し早く着いたようでホームに出られるだけの時間があり、この写真のタイムスタンプは14時21分になっていました。

会津川口のホームから会津若松側を見ると、6月9日に撤去作業を請け負っていたJFEエンジニアリングの工事ミスで橋桁が落下して下を通っていた列車と接触、3週間もの間只見線を不通にさせた上井草跨線道路橋が見えます。橋桁は完全に折れ曲がっていて、よくこの状態で踏み止まったものだと思います。

調べてみると、この事故でJFEエンジニアリングと一次下請けのJFE工建、二次下請けの大和建設工業が5ヶ月間の入札指名停止処分になったそうです。ただ、JFEエンジニアリング公式サイトのプレスリリースには談合で指名停止になったり社員が逮捕されたりといった事(調べれば調べるほど建設関係の談合の話は出て来るので、業界そのもののコンプライアンスが相変わらず低いようです)は載っているのですが、この上井草跨線道路橋事故に関するリリースは一切なく、本当に反省しているのかしらと疑問に思います。

14時25分の定時より少し遅れて会津川口を発車。只見を出て少しの所で隣の車両からこちらに移って来た人達も上井草跨線道路橋を見上げています。

次の会津宮下では8分間停車し、石炭と水の補給をしていました。石炭は機関車の横に組んだイントレ(鉄製の仮設足場)から、水は消火栓から入れていました。

乗客はホームに降りて機関車の補給を見たり仮設の売店で買物をしたりとそれぞれ好きに動いています。

発車間際に編成後端の貫通路から外を撮りました。アルミ製の柵が付いているのは無粋ですが、子供でも転落して死んだら二度と走れなくなるので仕方ありません。各車のドアも手動なので、駅に停まる度に各デッキに乗った車掌さんが開け閉めをしていて、この列車1本を動かす為にはかなりの人手が必要なのが解ります。

15時ちょうどに会津宮下を出た列車は15時24分に会津柳津に到着。この辺りは登り坂が多く、スピードががくんと落ちたと思ったら前の方からガッシュガッシュといかにも蒸気機関車らしい音が聞こえます。それが原因なのか、さっき入れたばかりなのにまた水を補給します(昔ならきっと機関車を付け替えていたでしょう)。ストップの号令を掛けてからもなかなか水が止まらず、横からどんどん溢れていました。

会津柳津の駅前にはC11 244が保存されていて、C11同士で向き合う形になりました。C11 244には大きめの屋根が掛けられていて、保存状態は悪くないようでした。

扇風機カバーのロゴがJR東日本になっているのが惜しい2号車のオハ47の車内を見ると、僕の近くのボックスに移動して来た人達も含めて団体客が降りて閑散としています。団体客は駅前に停まったバスに何処かへと移動して行きましたが、何気なくそのバスの正面を見たらJFEエンジニアリング様御一行と書いてあって驚きました。

発車間際に機関車のそばへ行くと、何かの調整をしているのか物凄い勢いで水蒸気を出していて、機関車の向こうが何も見えなくなってしまいました。

この列車にはおじいさんと若い女の子の車内販売が乗っていたのでおこわを買いました。右にあるのは記念乗車証明書で、表面に機関車の説明があるだけでなく裏面には全部の停車駅の着時間と発時間が書いてあるので、乗車中だけでなくこうやって文章に起こす際にも非常に役立っています。

最初座った時には心配だった垂直の背当てですが、特別な列車に乗っているせいか全く問題がありません。何故だかは判りませんが、最近の新車よりずっと座り心地が良くて疲れません。

座席の壁側に走っているのは蒸気暖房用のパイプ。蒸気機関車なら動力用の、電気機関車なら蒸気発生器からの蒸気を送り込んで暖房に使う為の物ですが、これを使うと傷みが進むのでJRでは滅多に使われる事はなく、現在日常的に蒸気暖房を使うのは大井川鐵道と真岡鐵道のみだそうです。

会津柳津を出ると後は下り坂で、会津坂下辺りからは平野部に入って水田が車窓に広がります。平野部に入るという事は見通しも良くなるので、農作業の手を休めて結構遠くから列車を見送る人も見掛けるようになります。建物も段々と増えて、駅まで見物に来ている人達もいました。

空いているので折角だからと隣のオハ47にも座ってみます。こちらも天井が高かったりで良いのですが、基本的には普通のクロスシートなのでスハフ32に慣れてしまった眼には刺激が足りなく感じてしまいます。

終着の会津若松の1駅手前の七日町にて。蒸気機関車が牽く旧型客車の列車が停まるホームに携帯をいじったり地べたに座り込んだりしている今風の高校生がいるのはなんともミスマッチです。

16時54分、会津若松着。次の列車までの間、少し見て回ります。

隣には改造型485系が停まっています。「福島県あいづデスティネーションキャンペーン」期間中は新宿ー喜多方間を「あいづ」、郡山ー会津若松間を「アクセスあいづ」として走る車両で、今日はキャンペーン初日なので会津若松ー喜多方間で「あいづオープニング」という名で走りました。キャンペーン終了後は少し間が空いて、'06年春からは新宿ー東武日光 / 鬼怒川温泉間を東北本線の栗橋で東武線に乗り入れて走る特急に使われる予定で、逆に東武鉄道のスペーシアという特急型車両も新宿に入って来るそうです。

期間中はこの他にも「SL会津あかべぇ」「SLばんえつ物語号」「SL郡山会津路号」「風っ子会津只見」「風っ子喜多方ラーメン」「白虎」と時刻表から列車名を拾うだけで大変な数の臨時列車が会津若松に集まり、キャンペーンへの力の入りようが判ります。

会津若松は磐越西線の途中駅ですが、何故か磐越西線はスイッチバックになっていて写真右奥の所で行き止まりになっています。この行き止まり部分にはNTT東日本福島支店が設置した音声付きのライブカメラがあり、ごく一部で密かに人気があるそうで、僕も試しに見てみましたが、時刻表と照らし合わせながら駅の様子を眺めるのはなかなか止め所が見付からずに見続けてしまう不思議な魅力があります。

「SL会津只見号」の回送は後にDE10でも付いて引っ張って行くのかと思っていましたが、そのままC11が推進運転でバックして行きました。

バックで出て行った編成はまた方向転換をして戻って来て、ホームから離れた線に入りました。ここでC11は切り離されて前方へと進んで行きます。

一連の作業を見届けた頃、次の列車がやって来ました。17時33分発の1229M喜多方行きは急行型の455系3両編成でした。正面貫通路に付いている日本テレビのなんだろうに似た感じのマークは今回のキャンペーンのマスコットで、名をあかべぇと言うそうです。

発車してすぐに左側に転車台と扇型機関庫が見えます。C11はそこで点検を受けていました。

会津若松から喜多方までの間には5つの駅がありますが、真中の塩川以外の駅には朝夕各2往復づつしか列車が停まりません。この1229Mも塩川にしか停まらずに17時48分、喜多方着。ホームにはバナーや飾りが色々とありますが、やはり一押しはラーメンのようです。

この日の宿の喜多方シティホテルにチェックインして荷物を置き、すぐに外出します。最初の目標は普段よく食べに行く坂内食堂。その本店を目指します。

大店法や不況の影響もあって、地方中小都市の商店街は閉まったシャッターがずらーっと並んでいる事が多いのですが、意外にも喜多方の商店街は開いている店の方がかなり多く、元気があります。

いくつか見た地図はどれもイラストマップだったのでスケール感が掴めず、思っていたよりもずっと喜多方の町は広いのに気付くまでに結構掛かってしまい、そして気付いた時には既に迷っていました。

この時点では何が原因か判っていませんでしたが、喜多方は独特の雰囲気を持ち、所々にこの写真のようなトワイライトゾーンがぽっかりと口を開けた町で、店を探すのと平行してその雰囲気の原因は何だろうと考え続けます。

迫る閉店時間を気にしながら歩き回りますが、どうにも判らないので冷蔵ガラスケースに納豆やチクワ等が並べられた昔ながらの個人商店に入り、ジュースを買いながら坂内食堂はどこですかと訊きます。店のおやじさんはここからだと遠いよと言いつつ道を教えてくれ、礼を言って足をそちらに向けようとするとどこから来たのと訊かれました。

もうとっくに店は閉まっているはずですが、それでもおやじさんに教えられた方向に進みます。するとまたトワイライトゾーンに入りました。

子供時代、福音館書店の絵本を母親が毎月買って来てくれるのを楽しみに読んでいたのですが、その中の1冊に夕暮れ時の曲がりくねった道を何か怖い物(何だったかは忘れました)が走ってくるという場面があり、子供心にかなり強い恐怖として刻み込まれていました。父親の高校時代の友人が辻堂に住んでいて、その家から海へと向かう道にその絵本と似た雰囲気の場所があり、そこを通る時は怖いのをぐっと堪えていました。ずっと忘れていた事でしたが、この道がその辻堂の道に似ていて一気に思い出しましてしまい、やはり怖いのを堪えながら通りました。

結局1時間以上迷いに迷って坂内食堂に辿り着きましたが、当然のように閉まっていました。次回は素直にタクシーで来ようと思います。

おやじさんに教えてもらった別の店にも行きましたが、目の前でシャッターを降ろされてしまい仕方なく駅へと向かいます。そしてここに来て喜多方の独特の雰囲気が何から出来ているか解りました。うろうろとあちこち歩き回った範囲内でコンビニやファミリーレストランといったチェーン店が1軒もなく、まるで'70年代の町を歩いているような感じなのが原因でした。

蔵の町として有名な場所なのでもしかしたら町の景観を大事にする為に何かしらの条例でもあるのかと思いましたが、よくよく地図で調べると駅から離れた場所には何軒かチェーン店があるようでした。

時間はもう20時近く。ほとんどの店が閉まっていてあまり選択肢がないので、駅前のラーメン屋でチャーシューメンと餃子を食べました。

その後ホテルの前の地元客が沢山入った和美という居酒屋へ。あまり地元の物という感じのメニューはありませんでしたが、昔母親がよく作ってくれた納豆の袋焼きを頼み、'70年代の雰囲気の町で'70年代によく食べた物を楽しむ事にしました。

ホテルに戻って風呂に入ると身体に付いていた煤煙で浴槽が真っ黒になって笑ってしまいました。

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