■ 第3日 / 12月17日 ■

この日は諌早から島原鉄道で島原半島の東側をぐるっと回って船で天草に渡り、熊本へと至ります。前日よりは余裕がありますが、折角天草諸島に行ったのに素通りになってしまいました。その内ゆっくり回ってみたい場所ではあります。

駅 名
時 刻
列 車
線区名
博多
07:56発
2005M
かもめ5号
鹿児島本線
鳥栖
08:22着
08:26発
長崎本線
諌早
09:42着
09:44発
115
島原鉄道
加津佐
12:24着
12:36発
124
口之津
12:42着
口之津港
13:15発
 
島原鉄道フェリー
鬼池港
13:45着
13:50発
 
九州産業交通バス
本渡BC
14:17着
14:30発
あまくさ号
三角西港前
15:48着
三角西港前ー三角間徒歩移動
三角
17:00発
542D
三角線
宇土
17:37着
17:38発
鹿児島本線
熊本
17:51着

この日の旅程では今までに無い失敗をしてしまいました。詳しくは本文中で。

前夜は師匠宅で鍋をたらふく御馳走になった上に駅まで車で送ってもらったりと至れり尽くせりのもてなしを受け、地下鉄から乗り継いだ最初の列車はこの2005M「かもめ5号」です。門司港始発のこの列車は完全に通勤列車として使われているようで、満席に近かった乗客がほとんど博多で入れ替わり、またほぼ満席の状態で長崎へと向かいます。この辺の通勤圏は佐賀辺りまでのようで、佐賀で大量に乗客を降ろした後の車内は空いたままでした。

博多から雨が降ったり止んだりしていましたが、9時42分に小雨模様の諌早着。この間は長崎から長崎本線の旧線経由でここに来て、大村線に乗り換えて佐世保へ行きましたが、今回はここから島原鉄道に乗り継ぎます。2分間の接続ですが、同じホームに着いたので乗り換えは楽です。島原鉄道ではキハ20系が今でも現役で走っているのですが、調べた所早朝と夕方のラッシュ時のみの運行のようで、この列車もレールバスでした。

諌早を出ると、暫くは意外に広い市街地を走ります。その後右窓には雲仙岳、左窓には有明海が見え始め、なかなか変化に富んだ車窓を見せてくれます。ぼーっと外を見ていると博多で出入りしている仕事先から電話があり、1月に博多に呼ばれる可能性が出て来ました。4月にも1回か2回仕事で行くので、こんなに頻繁に九州に来てどうするのだろうと思いつつ、その行き帰りにどこに行けるかな、とも考え始めます。

約1時間半程走って着いた南島原には車両区がありました。出発を待つ列車の向こうに国鉄時代に首都圏色と呼ばれていたカラスミ色のキハ20が見えます。

右を見ると黄色をベースにした現島原鉄道色、山型のラインの旧島原鉄道色、そしてちょっとだけ頭を出している3本ヒゲ付きの国鉄急行色のキハ20が見えます。以前はこの国鉄急行色の車両が諌早から国鉄の急行に併結されて長崎、佐世保、博多、小倉へと乗り入れていました。これらの国鉄色塗装は最近復活したそうです。

安徳ー瀬野深江の間に、こののんびりした路線に似付かわしくない真新しい高架区間があります。これは'90年11月に始まった雲仙普賢岳噴火災害によって路線が消失したために架けられた新線で、火砕流、土石流といった一連の災害による被害から島原鉄道が完全復旧したのは'97年4月の事だったそうです。

右窓では普賢岳が今でも生々しく岩肌を剥き出しにしています。ここまでの道中のかなりの割合で雲仙岳は見えているのですが、この辺りからの眺めが最も荒々しい表情になっています。手前の人里も火砕流を通らせる為の人工河川があったりで、噴火を境に景観が全く変わってしまった事を伺わせます。

12時24分、諌早から2時間40分掛かって終点の加津佐に到着。天草諸島へのフェリーは2つ手前の口之津から出ているのでここまで来なくても良かったのですが、全線完乗してもフェリーの時間に間に合うので乗り潰す事にしました。加津佐の駅は海沿いにあり、この視点からちょっと右を見ると墓地や駐車場の向こうに海が広がっています。

列車に乗っている間、降ったり止んだりしていた雨は上がり、時折陽射しも射し込むようになりました。

折り返しの列車に乗って12時42分、口之津着。写真の手前の建物はフェリーの待合所で、駅からは道を隔てた目の前にありました。駅前に大きな異人さんの人形があったので眺めていたら、一緒に列車を降りたおばさんが「口之津は初めて? それならそのボタンを押してみて、喋るから」と言うので押してみましたが、故障中なのか無反応でした。

考えてみたら師匠宅で朝御飯を頂いてから何も食べていなかったので道沿いの喫茶店へ。何が早く出来ますかと訊いたらすかさず何分のフェリーですかと訊き返され、素朴かつ昔ながらで結構美味しいカレーライスを食べてからフェリーに乗り込みます。

この口之津と鬼池を結ぶフェリーは45分〜1時間に1便出ていて、30分で天草諸島へと運んでくれます。

13時15分、口之津港を出港。しばらく後部デッキで景色を見ていたのですが、冷たく強い風に敗けて船室へ。ゴミ箱の蓋が物凄い勢いで回転していました。

船室には僕の他に天草から通学しているらしい高校生や若いカップル、Windowsノートを広げているスーツ姿の男性等5〜6人がいました。一番前の中央に設えられたTVが「徹子の部屋」を流していて、今年亡くなった人特集をやっていました。ジャズドラマーのジョージ川口あたりは訃報を聞いていたので驚きませんでしたが、100歳で銀座の現役ママをやっていた有馬秀子さんが9月に101歳で亡くなっていたのには驚きました。

今も健在な僕の母方の祖母は日劇ダンシングチームのダンサーを引退して3人の子を設け、その後銀座でクラブをやっていた人ですが、確か60歳になるかならないかの頃にはもう店を畳んでいたはずです(その後表参道で約10年間喫茶店をやっていましたが)。それを考えると凄い人もいるものだと思っていましたが、やはり産まれた以上はいつか死ななくてはならないのは誰にとっても平等なようです。

口之津から30分、13時45分に鬼池着。いよいよ天草諸島に上陸します。

鬼池港は口之津港に比べてかなり小規模な印象で、この写真の左側にある待合所も質素な小さい物でした。フェリーの乗客はみんな歩きや迎えの自動車で散って行き、路線バスに乗ったのは僕だけでした。このバスで本渡バスセンターまで行くのですが、事前に調べた時刻表では14時10分発までないはずだったのが、何故かフェリーの到着を待っていて、僕を乗せてすぐに発車しました。

しばらくの間バスの乗客は僕だけでしたが、途中で1人2人と拾いながら走ります。鬼池港を出て間もなく、普通の道路から乗用車ですら擦れ違えないような細い道に入ったり(写真ではその区間を過ぎています)で不思議な所を走るバスでした。

14時17分、本渡バスセンター着。本来なら14時37分着で14時半のバスには間に合わず、15時10分まで待たなければならなかったところが、鬼池での乗り継ぎが良かったお陰で14時半のバスに乗れたのですが、実はこの時点ではそれに気付いていませんでした。

この辺りではこの本渡が一番栄えているらしく、結構広い市街地になっています。天草諸島の主要なバス路線は大抵ここを通り、近くには天草空港や本渡港もあって陸海空の交通の要衝となっています。

14時半に発車した快速バス「あまくさ号」は本渡を出てすぐにループ橋になっている天草瀬戸大橋を渡って市街地を抜け、その後は内陸部や海沿い、そして橋と目まぐるしく変わる景色の中を走ります。

15時48分に三角西港前着。バスは熊本まで行きますが、僕はここから三角駅へ行き、三角線で熊本まで行きます。ですが、何かがおかしいのです。

周囲を見ると観光施設らしい西洋館が何棟か建っているのですが、どこにも駅や線路らしい物が見当たらず、案内看板にも駅が載っていません。妙な事になったようです。

少し考えた後、快速バスの「あまくさ号」用とは別に立っている路線バス用のバス停を調べて三角駅が隣接しているはずの三角港の方向、要するに今来た道を戻る方向に歩きます。ちょっと歩くと海産物屋があったので、店先でスルメを焼いていたおばさんに三角駅はこっちですかと訊くと、そうですが駅まで歩くのですかと驚かれてしまいました。

大荷物を抱えてふうふう言いながら歩いていると、小学生の女の子3人組と往き合います。僕の顔を見ているのでこれは来るかも、と気構えをしていると、やはりこんにちわと声を掛けられたので即座にこんにちわと返します。3月の出雲大社では不意を突かれて口の中でもごもごと返しただけでしたが、今回はその経験があったお陰で落ち着いて対処出来ました。そのすぐ後に通った自転車に乗った中学生の男の子2人組とも無難に挨拶を交わし、またとぼとぼ歩き続けます。

そして出たのがこの場所です。ストロボが暴発したので反射の良い案内看板だけが浮いていますが、本渡から来たバスは奥に見える信号をこちら側に曲がりました。が、三角駅や三角港は信号の向こう側にあり、本当はこの信号の所にある五橋入口のバス停で降りなくてはならなかったという事です。こういう乗り継ぎをする時はいつも地図サイトで下調べをしていて、今回も調べてはいたのですが、三角西港のバス停の位置が判らず、それほど遠くないだろうという見込みで降りるバス停を決めたのが敗因でした。次回はっきりと判らない乗り継ぎをする時には、地元の人にも訊こうと思います。

問題の信号を過ぎ、下りながら左に180度曲がった道を進むとようやく三角駅が見えて来ました。この右側は三角港です。

三角駅に着いた時には三角西港のバス停に降りてから40分以上経っていて、猛烈に小腹が空いた(変な表現ですが、正にそういう状態でした)ので駅の売店でお菓子を買い込みました。プリッツの豚骨ラーメン味はかなりリアルに味を再現していました。

三角からは17時きっかりに発車する542Dで熊本へ行きます。三角線にはキハ31というステンレス製のあまり面白くない車両が普段は走っているのだそうですが、運良くキハ40系でした。これは元々乗ろうと思っていた列車なのですが、三角で時間を見るまで鬼池以来1本早いバスで移動しているのに気付いていなくて、予定より1本遅い列車に乗るものだと思い込んでいました。

三角を出た時には空いていた列車は途中で私服姿の高校生(に見えました。大学生かも知れません)を大量に積み込み、結構な乗車率で17時51分、熊本に到着しました。熊本も路面電車がある街です。

今回、初めて同じ街に2泊するのですが、その宿は熊本ステーションホテルという駅を出て川を渡ったすぐの所にしました。新しい建物ではありませんが、駅に近くて部屋が広く、インターネット回線も一部の部屋に入っていて、宿泊料も安いというのが決め手になりました。

そしてこのホテルの最大の売りが1階のレストランで出される夕食です。おかずが4品も付いて¥1,000と格安で、この日のメニューは鯖甘辛煮、寄せ鍋、鷄マヨネーズ、法連草(こういう表記でした)ゴマあえの4品。これに御飯、味噌汁、香の物が付きます。普通なら鯖か鍋か鷄のどれか1品で¥1,000取られてもおかしくはないと思いますが、ここでは全部出て来てたったの¥1,000です(枝豆はビールに付いて来ました)。しかも一つ一つに手抜きがなく、しっかりと作ってあって美味しいのです。あまりにおかず過多なので御飯をおかわりしつつ(おかわりも自由でした)全部食べ切りましたが、女の人や食が細い人では相当持て余すと思います。

会計の時、マスターにこれで儲かるんですかと訊きましたが、やはり夕食単体では赤字だとの事で、それでもこれを目当てにまた泊まりに来てくれるなら、とサービスでやっていると言っていました。その心意気や良し、です。

腹ごなしに散歩に出ます。熊本の街は熊本城の辺りが中心になっていて、熊本駅の周りにはあまり店はありませんでした。路面電車で出掛けても良かったのですが、それは明日の晩にするとしてふらふらと歩き回ります。そうしている内に撮った1枚がこれ。橋の内側のライトがかなり拾われていて、肉眼で見るのと随分印象が違います。

腹はくちくなっていますが、酒は呑み足りないので駅近くのこの店に入りました。1階の工場でビールを造っていて、ピルスナー、ダークラガー、ヴァイツェン、ペールエールの4種類を出しています。広い店内には先客が1組しかいなく、僕がいる間にも1組しか入って来ませんでしたが、なかなかそれらしい味を出していて(ロンドンのパブのようにペールエールは常温で出して欲しくはありましたが)、もっと繁盛していい店なのにと思いました。

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