■ 第5日 / 7月15日 ■

この日は最東端の地、根室から最北端の地、稚内へ移動するという事で、今回の旅行で一番の強行軍になりました。

駅 名
時 刻
列 車
線区名
根室
06:00発
5624D
根室本線
釧路
08:24着
09:00発
3728D
しれとこ
東釧路
09:04発
釧網本線
網走
12:06着
13:30発
16D
オホーツク6号
石北本線
新旭川
通過
宗谷本線
旭川
17:11着
18:45発
3033D
スーパー宗谷3号
稚内
22:20着

見て頂くと解る通り、間に合計3時間34分間の乗り継ぎ時間があるとはいえ、6時きっかりから22時20分までの16時間20分掛けての大移動です。しかも不味い事に最後の宗谷本線はいくらも行かない内に日が暮れてしまいます。ただ、これは偶然ではありましたが、翌日取り戻せたのでよしとしましょう。

5時半に起きて布団を畳み、無人のカウンターに部屋の鍵を置いて冬の東京のような気候の中を駅へと歩きます。日本最東端の駅という看板がある根室からの始発列車、5624D釧路行きです。その下に佐世保が最西端とも書いてありますが、これはJRとしては、という事です。実際の最西端の駅は元国鉄松浦線の平戸口駅、現松浦鉄道のたびら平戸口駅になります。

車両はキハ54。2両編成でしたが、後の車両はドアも開かず、貫通幌も繋いでいないので乗れませんでした。

「最東端」の駅、根室を発車した列車は「東」に進み、ぐいっと右に曲がってすぐに「東」根室という無人駅に着きます。ここまで「最東端から東に進み東根室に着く」と矛盾だらけの事を書きましたが、本当の最東端の駅はこの東根室になります。経度も根室が東経145度35分12秒、東根室が東経145度36分05秒と東根室が勝っています。ただ、この東根室は無人駅なので、根室の看板は「有人駅としては」が抜けているという事になります。

他のJRの最果ての駅では、最北端の宗谷本線稚内駅と最西端の佐世保線佐世保駅が盲腸線の末端にある有人駅となっています(最南端の指宿枕崎線西大山駅は無人の途中駅で、事実上の最西端、たびら平戸口駅は有人駅ですが途中駅です)。根室駅としてはそれが面白くなくてあんな看板を立てたのでしょうか。しかし東根室駅も根室駅の横暴に敗けじとホームにも地上にもその主張を掲示しています。まあ、同じ人達が管理しているのでしょうけれども。

6時48分発の厚床で後の車両切り離しのために5分以上停車したので駅舎の外に出てみました。この厚床は'89年4月に廃止された標茶線が分岐する駅でした。ここに限らず北海道ではJRへの移行と前後して物凄い勢いで鉄道路線が廃止され、全線廃止と区間廃止を合わせると実に36もの線区・区間になり、その総延長は実に1,500Kmを超えます。

切り離し作業が終わってにこやかに談笑する運転士さん達と寒そうに下り列車を待つおばあさん。なんで後の車両に客を乗せないのかと思っていたら、この切り離された車両は厚床始発6時54分の8325D根室行きになるようです。日によって運転したりしなかったりする列車のようなので、このようなイレギュラーな車両運用になっているのでしょう。

門静と尾幌の間の平原。この辺りは牧場と雑木林と海岸線の繰り返しです。

どのあたりだったか忘れてしまいましたが、途中、雑木林の中を通っていた時に、後に仔鹿を1頭連れた大きくて立派な牝鹿が線路のすぐ脇で列車が通り抜けるのを見守っていました。あまりにとっさの事で写真を撮れなかったのが悔やまれます。

記憶に残っている物は記録に残っていなくて、記録に残っている物は記憶に残っていない。このサイトを始めてからずっとそうです。なんとかこのギャップを埋めたいとは思いますが.....。

釧路では約30分程時間があったので朝食にしようとあたりを探します。しかし開いている店が殆どなかったので、仕方なく、という心境で駅に併設されている立ち食いではないけど立ち食いそば屋のような風情の店に入りました。しかし、ここの塩ラーメンが意外においしく、北海道の塩ラーメン侮り難しの印象を更に深めました。

釧路からはこの3728D快速「しれとこ」で釧網本線を行きます。東釧路ー網走間166.2Kmを結ぶ釧網本線には特急が走っていなくて、優等列車はこの快速「しれとこ」が日に1往復のみ、あとは各駅停車になります。よく見るとちゃんとトレインマークも付いています。

運転本数の少なさからか、やはり車内は混んでいました。キハ54のシート配列は車体の両端にロングシート、中央部は真ん中の1組のみ向かい合わせのクロスシート、後はその向かい合わせに向かって方向が固定されたクロスシートという変則セミクロスシートになっていて、僕が座れたのはロングシート部分。あまり面白くない席なので車両後端に行って茅沼の寸前で撮ったのがこの写真です。

9時ぴったりに釧路を出た列車はまず釧路湿原を走って行きます。釧路湿原は貴重な観光資源らしく、6月から9月に掛けては「くしろ湿原ノロッコ号」が日に2往復、釧路ー塘路間27.2Kmを約1時間掛けてゆったり走っています。

茅沼は日本で唯一タンチョウヅルが飛来する駅だそうで、調べるとここが有人駅だった時代に駅員さん達が餌付けをしていたそうです。

11時47分発の原生花園という臨時停車場で。ここは5月から10月までしか列車が停まりません。傘をさしている人がいますが、この日は朝からあまり天気が良くありませんでした。でも乗り継ぎ駅でうろつく時には上がっていて、天気運は良かったです。

11時21分着の知床斜里までは湿原の中を走り、そこから網走まではオホーツク海に沿って走ります。ここは全国で唯一車窓から流氷が見える区間だそうです。そんな贅沢な、けれども退屈な路線をたっぷり3時間走って12時6分、網走着。網走の駅はやはりと言うか、広いホーム、高いホーム屋根、太い跨線橋、そして撤去された操車場跡の空地と以前の栄華を物語る舞台装置が揃った駅でした。

駅前にはこんな看板も掲げられていました。やはり網走と言えば刑務所なのでしょう。ただ、最近は流氷も売り出しているようで、駅前の電話ボックスはみんな頭に流氷をかたどったカバーを乗せられていました。

市街地を探して歩き回りつつ東京へ電話。後に旭川で乗り継ぎ時間が約1時間半あるので、旨いラーメン屋を地元出身の人に訊きます。

歩けど歩けど繁華街らしい場所が見当たらないので、諦めて駅を出て川を渡った所にある地元のおじさんおばさんで埋まったホテルのレストランで食事。軽くでいいや、と愛想のいいウエイターさんに頼んだエビチャーハンでしたが、これもなかなか。毎日早起きして歩き回っているせいか、食べる物が大抵何でも美味しいです。

食事を終えてアイスコーヒーを飲みつつまた電話。母親が若い頃に祖母の妹(要するに母親の叔母)の店を手伝っていたのは利尻だったか礼文だったか思い出せないので父親の留守電に伝言を残しました。

ホテルを出て、まだ時間があるのでわざとゆっくり網走川を渡ります。この奥に網走刑務所跡があります。

網走から旭川まではこの16D「オホーツク6号」で一気に移動します。本日初の特急列車です。車両は北海道専用特急型ディーゼルカーのキハ183系。「北斗」で乗ったのと同じ形式ですが、こちらは初期型です(多分色々と改造は受けていると思いますが)。なのですが、この車両の窓が白い傷のような物で覆われていて、車窓を眺めるにも写真を撮るにもとても邪魔でした。

煙突付きの家がやたらと多いのが印象的だった14時19分着の北見にて。向こうにいるのは釧路行きの13D「オホーツク3号」、こちら側にいる上部が赤い白ボディの車両は元国鉄池北線、現北海道ちほく高原鉄道、別名ふるさと銀河線の車両です。

根室本線の池田と石北本線の北見を結ぶ北海道ちほく高原鉄道は北海道唯一の第3セクター鉄道会社で、路線延長が140.0Kmもある長距離ローカル鉄道です。沿線人口が極端に少なく、中には年間の乗降客数が5人というとんでもない駅もあるそうです。言うまでもなく大赤字で、ここ数年は第3セクター移管時に積み立てた基金を取り崩しつつの運営だったようですが、それも遂に潰えて'04年度にも廃止される事になるようです。

何故そんなハナから健全経営が不可能な線区を第3セクター移管させたかと言うと、沿線にある足寄出身の鈴木宗男の存在が影響を及ぼしたようで、今回の廃止の話も鈴木の失脚と時を同じくして表に出て来たようです。ここでも自民党の土建政治屋と鉄道の間には因縁浅からぬ物があります。

15時14分、遠軽着。構内には転車台が残っていました。

遠軽のちょっと網走寄り、金華から生田原の間に常紋トンネルという1913年に開通したトンネルがあるのですが、ここはタコ部屋労働者の労働力によって作られ、その劣悪な労働環境たるや筆舌に尽くし難い物だったようです。ちょっと引用します。

宮脇俊三著「最長片道切符の旅」新潮社刊 38-39Pより抜粋
〜〜〜
 北海道開拓に鉄道の果たした功績は大きいし、いま私がこうして鉄道旅行を楽しめるのも有難いことである。けれども、どのようにして鉄道が敷設されたのか、忘れてはならぬことがいくつもあるように私は思う。
 明治から昭和のはじめにかけての鉱山採掘や土木工事は、いわゆるタコ部屋労働者に負うところが多かった。そこでは最低の住居と食事、超長時間労働、監視と制裁、病人の放置、金銭的収奪など、いまの私たちには想像しにくいほどの苛酷なことがおこなわれていた。
 このタコ部屋制度の最盛期は明治の末から大正の中頃とされているが、常紋トンネルが開通したのは大正三年、しかも北辺の地である。小池喜孝氏の「常紋トンネル」(昭和五二年、朝日新聞社刊)によれば、リンチの生き埋め、人柱などもおこなわれたらしい。昭和四五年にはトンネル内の待避所で十勝沖地震によるひび割れを修理していた保線区員が、煉瓦の壁の裏から立ったまま埋められたと推定される人骨を発見しているし、トンネルの周囲からも多数の人骨が発見されている。
 いまでもトンネルにまつわる怪談は多く、国鉄職員は常紋信号場の勤務をいやがるという。
〜〜〜

引用文に出て来る「常紋トンネル」を全文掲載しているサイトを見付けた(検索すればすぐに出て来ます)ので読んでみると、常紋トンネルに限らず、道内の鉄道や水田開発はどこもかなりの数のタコ部屋労働者を使い、夥しい数の犠牲者を出したそうです。

窓が汚れているせいで綺麗に撮れていませんが、遠軽の駅の横には巨大な奇岩があります。瞰望岩(がんぼういわ)と言うそうで、高さは81mもあるそうです。てっぺんの所に見える小さな丸いのはビーチパラソルのような日除けで、ここにはベンチも見えたので休憩所になっているようです。

遠軽からは進行方向が逆になります。やはり「スーパー白鳥」の時と同じく、車内放送を聞いていない人が多数いました。

以前は遠軽の線路の形は「人」の字の形をしていて、この文字の左足の部分を石北本線旭川方面、右足の部分を石北本線網走方面、頭の部分を興部、紋別、中湧別経由で名寄ー遠軽間を結んでいた名寄本線とすると、左足と頭を結ぶ経路がメインルートだったためにこういう形で線路が敷設されました。しかし、名寄本線が'89年4月に廃止されたために腰の部分から上がなくなった格好になり、今はここで方向転換して両足を渡って行く列車のみになっています。

遠軽を出て少しの後、白滝の辺りを走っている時に留守電を聞いた父親から電話がありました。母親が手伝っていた店は層雲峡のあたりにあったそうで、利尻だか礼文には旅行で行っていたらしいとの事。あわよくば母親の足跡を辿れるかも、と思っていましたが、本人がもういないので確かめようもありません。しかしDoCoMoはよくこんな物凄い山の中で繋がるな、と感心するより呆れていたらさすがに途中で切れて掛け直しました。

17時11分、旭川着。函館を出て以来、室蘭、根室と「町」ばかりで久々に「街」に出て来た感じです。やはり僕には東京以外に住める所はなさそうです。写真は駅前の西武百貨店の展望エレベーターから。旭川は駅の片側がすぐ川という場所にあって、駅の出口はこちら側にしかありませんでした。ここからは富良野線も出ているのですが、何故かホームが一番川寄りのやたらと離れた場所にありました。正面奥に見えている青くて短い屋根がそうです。

乗り継ぎ時間を利用してまた食事。なんか喰ってるか列車に乗ってるかのどちらかしかしていない気もしますが、土地土地でその地方の物を食べないと満足できない性分なので仕方ありません。

網走で電話を掛けて訊き出したのがこの店。今までは僕にしては珍しくシンプルに塩ラーメンを頼んでいましたが、ここでは塩ラーメンにチャーシューとバターを。ここまでの店と違って豚骨ベースでした。これはこれでなかなか。

時間があったので本屋巡り。その中の1軒の古本コーナーで宮脇氏の「旅の終りは個室寝台車」を発見。即買って喜色満面で駅に戻ると、待合室ではメジャーリーグのオールスターゲームの前夜祭が流れていて、ホームランダービーでニューヨーク・ヤンキースのジェイソン・ジアンビーが6連続ホームランをかっ飛ばすも惜しくも敗退する所でした。

今日の最後の列車、3033D「スーパー宗谷3号」が入って来ました。車両はちょっと下膨れで横にライトが並んだキハ261系です。

踏切を渡り、複線電化区間から単線非電化区間へ(2.4MB / 35秒間)

先頭が近い所に座っていたので、またムービーを撮りました。電化区間は旭川までなのですが、隣の新旭川を過ぎた所にある石北本線と宗谷本線の分岐点の先に車両庫があるようで、そこまで複線電化されていました。前日分で紹介した「スーパーおおぞら」のキハ283系は制御付き自然振り子式で最大傾斜角は6度なのですが、このキハ261系はコストダウンと構造の簡略化のためにコーナー外側のエアサスを持ち上げて車体を傾斜させる方式を採用、最大傾斜角は2度になっています。そのため、このムービーでもあまり線路が画面の中心から外れません。「スーパーおおぞら」のムービーと見比べると解り易いと思います。

19時37分着の名寄に着いた頃には日はもうとっぷりと暮れていて、濃紺の空が黒々とした山の稜線を描き出していました。ここから先は殆ど何も見えませんでした。車窓が見えないとなると途端に退屈します。寝台列車に乗っているとそんな事はないのですが。

この名寄からは遠軽へ向かう名寄本線、深川へ向かう深名線が出ていて交通の要衝となっていたのですが、名寄本線が'89年4月、深名線が'95年9月に廃止されてからは単なる宗谷本線の途中駅へと成り下がっています。

22時20分、ようやく稚内に到着。駅前に出ると小雨がぱらついていました。

この日の宿は駅に隣接した観光案内所の隣にある、さいはて旅館という所。鉄道総合板のぐるりスレッドで教えてもらった旅館です。歩いて行くと、情報通りの元気なおかみさんがタクシーに初老の夫婦を乗せる所でした。どうもこの2人、予約なしで突然やって来た上に全く耳が聞こえないらしく、タクシーの運転手に満室なので近くのモーテルまで連れて行ってくれと頼んでいました。「面倒見てね」というのがおかみさんの口癖らしく、後でおやじさんに対しても僕の事をそう言っていました。

さいはて旅館は観光案内所の隣が本館、間にラーメン屋を挟んで別館となっていて、僕の部屋は別館にありました。今日はお兄さんが最後のお客さんよと言われつつ、急き立てられるように1人には広く、2人では狭い風呂場で風呂に入り、おやじさんから繁華街の場所を訊き出して宿を出た時にはまだ23時前でした。

本当は南稚内の駅に近い大黒という所にタラバガニを食べさせる店があるのを調べてあったのですが、小雨も降っているので断念して手近で済ませます。

そこで駆け込んだこの店は、客が途切れたので早目に店じまいするつもりだったらしく、天麩羅の油を暖め直したり炭火を起こしたりで色々と手間を掛けさせてしまいました。お通しで出て来た初めて見る魚の煮魚が軟骨だらけだったのでそれを除けつつ食べていると、おかみさんがそれは軟骨と一緒に食べるのよと言い、小声でカウンターにいた常連らしきおっさんに東京の人は何も知らん、と呟いていました。その後、初めてウニの天麩羅という物を食べました。他にも数品頼みましたが、安くて量が多かったです。

店を出ると、後は暖簾を仕舞ってシャッターを降ろすだけになっていました。

第6日 / 7月16日へ

戻る