「肉汁うどんと蒸気機関車」の冒頭でも書きましたが、'92年の3月から翌年3月までの約1年間、ロスアンゼルスのハリウッドに住んでいた事があります。時代背景としては、パパ・ブッシュの1期目の最終年で、「Potato」を正しい綴りで書けない共和党の現職副大統領、ダン・クエールの自滅にも助けられたビル・クリントンが民主党の代表指名選挙から引き続きで地滑り的勝利を収めて大統領職に就き、バルセロナでオリンピックが開催された年になります。また、日本国内では日本新党が参院選で躍進したり、モツ鍋ブームがあったり、本来のターゲットであるはずの子供達を完全に置き去りにした「ウゴウゴルーガ」が「カリキュラマシーン」の再来ともてはやされたりといった年でもありました。
行っていたのは留学の為で、アパートを借りる時に管理人と直接交渉したりはしたものの、お膳立ては全て周りがやってくれた上に金は親持ちと、要するにこの上なく贅沢でお気楽な御洋行でした。お膳立てを整えて貰えたのは、元々入学したのが東京の専門学校で、1年次は東京で基礎勉強をして、2年次は希望者の中から選抜でハリウッドの提携校に送られる、という形での留学だったという理由があっての事です。行ったのは東京校から20名、大阪校から20名の計40名でした。
僕が住んでいたPortbelloという名のアパート(地下駐車場やエレベーターも付いていて日本ならマンションと呼ばれる建物ですが、向こうでは超豪華な物件以外は全部アパートです)はチャイニーズ・シアターの裏手の方、歩いて5分程の所で、Sycamore Ave.がFranklin Ave.にぶつかる北の行き止まり、坂を登り切った所にありました。
学校はSycamore Ave.を下ってHollywood Blvd.の角を左に曲がってしばらく東に進み、Highland Ave.を過ぎて最初の角を右に曲がったMcCadden Pl.にあり、毎日Walk of Fameを歩き、チャイニーズ・シアターの前を通過していました。学校の名前はMusicians Institute、通称MIで、元Racer X / Mr. Bigのポール・ギルバート他数多のミュージシャンを輩出した所です。講師もレギュラーで来ているだけでティム・ボガート(アツいベーシスト兼ヴォーカリスト、元Vanilla Fudge / Beck, Bogart & Appice他)、スティーヴ・ベイリー(6弦フレットレスのフュージョン系ベーシスト)、スコット・ヘンダーソン(フュージョン系変態ギタリスト)、若手ではラス・パリッシュ(ハードロック系ギタリスト、ポール・ギルバートの元ルームメイトで後に元Judas Priestのロブ・ハルフォード率いるFightに加入)等々、凄い布陣でした。そんな環境で僕は音楽を学んでいました。
と、お気楽な御洋行ではあったのですが、ただでさえ治安の悪いロスアンゼルスの中でも悪い方に属するハリウッドという場所が場所なだけに色々と大変な事、妙な事も多かったです。箇条書きにしていくと、
■街が小便臭い
■毎晩変な叫び声が聞こえる
■銃声も時折聞こえる
■学校に行こうとしたら誰かが撃たれたらしくWalk of Fameの星の1つに大きな血糊がべっとりと被さっていた
■少なくとも週に一度は夜中に犯人を追うLAPD(ロス市警)のヘリコプターがアパートの真上で旋回し続けて寝られない
■歩いていたら黒人のおっさんが寄って来て、間違いなく盗品のネックレスを売り付けようとした
■そこかしこに煙草をねだるホームレスがいて、1箱50セントのも売っているのに1本に25セント払うと言うのまでいた
■マクドナルドで水をもらい、ずっと店内で居座り続けるホームレスが数人いた
■友人のアパートに行ったら廊下がマリファナの匂いで充満していて部屋に辿り着いた時にはちょっと変な気分になっていた
■街中でも少し遅い時間だとマリファナの匂いをあちこちで嗅げる
■僕を観光客と間違えたらしく、日本人の兄ちゃんが寄って来て「日本人ですか? マリファナ要りません?」と言われた
■マリファナならダウナーなのでまだ害はないけど、どう見てもアッパー系のクスリをキメた眼の奴が時々うろついている
■極端に露出度の高い服を着た白人の女の子が多いが、この手のは大抵クスリをキメた眼をしている
■近所のHollywood Highschool(通称ハリ高)の横の道路は夕方になるとナンパの車だらけ、いるのは全員ヒスパニック
■リトル・トーキョーへ行くバスには白人はおろかアジア人すら乗っていなくて、ひたすら黒人とヒスパニックのみ
■45問中7問までしか間違えられない運転免許の学科試験で、8問間違えたのに教官がBonus!と言って1つ○にしてくれた
■車検制度がないせいか酷い状態の車が多く、割れたガラスの代わりにビニールとガムテープで塞いだのをよく見掛けた
■トラックから落ちたスペアタイヤなのか、フリーウェイを大きなタイヤが転がっていた事もあった
■夜中のフリーウェイで対向車線に炎上中のタンクローリーが止まっていて、後でニュースになっていた
■フッカー(売春婦)はそこいら中にうじゃうじゃいて$20辺りからと異常に安いが、AIDS他が怖くて誰も手を出せない
■ハロウィンの夜は歩行者天国になっているHollywood Blvd.で本当に一晩中騒ぎ続ける
■歯の詰め物が取れて、医者は日本人がいいだろうと近所のDr. Tamuraの所に行ったら4世で完全にアメリカ人だった
■Sunset Blvd.沿いのショッピング・モールで横山ノックが歩いていた
■Hollywood Blvd.とHighland Ave.の交差点で佐藤蛾次郎が信号待ちをしていた(これは人に聞いた話ですが)
等々、枚挙に暇がないどころではありません。僕は基本的に日が暮れたらアパートから出なかったし、マリファナやクスリ関係も一切クリーンなまま過ごしたのであまり危ない思いはしなかったのですが、引っ越して1ヶ月が経った4月29日、決定的な事件が起きます。黒人青年に暴行を働いた白人警官に対しての無罪評決が引き鉄となった、後に言うロス暴動です。
その日の学校には朝から妙な雰囲気が漂っていました。誰もがどことなく上の空。時折漏れ聞こえて来る不穏な噂話。そして昼頃、いつもは色々な画面がどんどん切り替わるTim TV(休講や教室変更、課題曲等のインフォメーションを結構凝ったデザインの画面で流すTVシステム。今で言うとPowerPointのスライドショーのような物で、Amigaで動いていました。ティム・ミラーという人が管理していたのが名前の由来)の画面が、真っ黒な背景に白のゴシック体で「今日は午後2時で学校を閉鎖する」と表示したまま動かなくなりました。
これはいけない、という事でとりあえず東京組20人の内、学校にいた17〜8人を集め(僕は他の連中より2つ歳上で、海外渡航経験も多かった上に英語も喋れたので一応リーダー格に指名されていました)、途中で別れつつ家に帰ります。各々の家から帰宅確認の電話を受け、全員家に着いたのを確認してから東京に連絡。東京は朝早いはずですが、ニュースを聞いた担当の人が詰めていました。
出来る事は済ませてしまったし、まだ昼を過ぎたばかりで時間を持て余します。ニュースではダウンタウン、特にサウス・セントラルは戦闘状態と言っていいほど物凄い事になっているようですが、この辺りははまだ静かです。じゃあ、という事で冷蔵庫からRalph's(スーパーマーケット)オリジナルブランドだかPabst Blue Ribbonだか、とにかく1ケース24本で$9.99の激安缶ビールを1本取り出して屋上へと上がります。
アパートは高台にある上、6階建てか8階建てかなので(既に思い出せません)とても見晴らしが良く、ダウンタウンの高層ビル街まで見通せます。.....そのダウンタウンが燃えています。大きな白い煙が2〜3条、天に向かってたなびいていて、小さい煙の筋も無数に立ち昇っています。こんな風景を眺めながら缶ビールを煽っている事があまりに不可思議で、これが事実だとは信じられませんでした。
そしてもう1つ心に浮かび上がったのが、ああ、遂にぶち当たっちまった、という感慨。
この時期の僕は世界的動乱に妙に近い所にいる事が多く、最初は高校の修学旅行で行った北京。ちょうど1年後に天安門事件がありました。次がまだソ連だったモスクワでの軍事クーデター(結局成功せず、ボリス・エリツィンが支持を集めただけでしたが)。アエロフロートに乗ると、ロンドンー東京便はモスクワのシェレメチェボ空港に立ち寄るのですが、東京に戻った翌日に目を覚ましてTVを点けると、そのモスクワで武装蜂起が起きて戦車が市内を走り回っていました。しかも元英語教師のキャサリンともう1度遊びたいがために(これは鉄道ネタでもあるので多分その内書きます)ロンドン滞在を1日伸ばそうとアエロフロートのオフィスまで行って予約変更を頼んだものの、満員で断られていたので危ない所でした。この時は1年差の次は1日差か、とぼんやり考えていたのですが、ここに来て遂に巻き込まれてしまいました。
夕方、同じ通りの坂の途中に住んでいる連中がTVを見にやって来ました。日が暮れて、坂の下までちょっと様子を見に行ってみようか、とHollywood Blvd.の角まで下ってみます。今はもうないそうですが、当時この角地にはGalaxyという真新しいシネマ・コンプレックスとCD屋他がありました。見回すとCD屋の大きなガラスは割られ、通りの東の方には炎と煙、周りにいるのは見るからにあまりまともではなさそうな連中ばかり。早々にアパートへと戻りました。
何がなんだか解らないまま屋上へ。外に出た途端、先に来ていた白人の若い男達が小さくなって外壁に身を隠しつつ「こっちに来るな!」と怒鳴ります。と言われても僕達の周囲には彼等が身を寄せている外壁しか遮蔽物がありません。とっさに身を低くして外壁まで走った刹那、下の方で乾いた銃声が数発鳴り響きます。どうも通りの向かいのアパートの辺りで銃撃戦をやっているようです。警告してくれた男は僕の横で「だから危ないって言ったじゃんかよ」と半泣きになっています。昼間は遠かった街を焦がす炎はすぐ近くのHollywood Blvd.に沿って燃え盛り、学校の辺りからも火の手が上がっているのが見えます。
部屋に戻ってTVを点けると、ニュースの生中継映像に「Under Curfew」とスーパーが入っています。Curfewって何だ? カーフュウと読むのか? と辞書を引くと「夜間外出禁止令」。反射的に脳裏に浮かんだのは戒厳令下のエル・サルバドルを舞台にした映画「サルバドル」。でもここは中南米とかじゃなく、自称世界一の法治国家、アメリカじゃなかったのか? と大きな疑問が頭をもたげます。そしてそのスーパーの向こうには何となく見覚えのある風景が。あまりそちらの方面には行かないのでよく判らないけど、歩いて5分位の所にあるFranklin Ave.沿いの教会に見えます。ここでも銃撃戦をやっているらしいです。
暫くの後に部屋を出ると、アパートの正面玄関の金網になっている扉に人がたかっています。金網越しに外を見ると警察の護送車がいて、手錠を掛けられたパンクファッションの若い白人男女3〜4人が警官に追い立てられて護送車に乗せられる所でした。近くにいた白人の若い男に「何が理由なの?」と訊くと「そんなもんねえよ。夜間外出禁止令が出てるからだろ」と不愉快そうに答えます。
明けて翌朝(もしかしたら翌々朝かも知れません。記憶が錯綜しています)、とりあえず学校ヘと向かいます。あちこちに暴動の傷跡は残っていますが、ニュースで見た他の地区に比べれば随分とマシに見えます。昨夜学校の辺りに上がっていた炎はすぐ向かいの電器屋から出た物でした。多分略奪を受けて火を放たれたのでしょう、倉庫のような建物は石造りの高い外壁が残っているのみで、屋根は焼け落ち、内部は完全に燃やし尽くされて黒々とした瓦礫だけが平たく敷き詰められていました。
学校は無傷に見えました。前日14時に閉鎖された以外は影響もなく、クラスメートも皆無事で、また普段の日常へと戻りました。
1週間かもう少し後、僕はHollywood Blvd.沿いに並ぶ観光客向けの土産物屋で1枚のTシャツを手にしていました。生地は黒で、胸側に「I Survived The L.A. Riots April 30, 1992」、背中に「L.A. War Zone」と書かれ、暴動が激しかった地区に炎が描き込まれた地図、犠牲者や火事、出動した警察と軍の人数等の数字も入っています。多分に不謹慎ではあるけど、僕にはこれを着る資格があるからと$12位出して買いました。
Tシャツが入った袋を提げて家に向かって歩きながら、やっぱりここは遊びに来る所であって住む所じゃないな、と改めて噛み締めました。