'04年の洞爺湖の現場で知り合い、その後シンガポールやハワイでも一緒だった同い年の子が最近ちょろちょろと仕事を流してくれます。都内での仕事ばかりでしたが、ブラジル人とアルゼンチン人が100人以上いてスペイン語とポルトガル語と英語が飛び交っている現場だったり、同じポジションに11歳の時から日本にいるアイルランド人がいる現場だったりと一風変わった仕事が多く、妙な仕事を持っているなと面白く思っていました。

ある日、その彼女から電話があり、自分はどうしても日程が合わないから代わりにロシアに行ってくれないかと言われたのが今回のモスクワ行きの発端でした。

早速ガイドブックを買いに行って驚きました。いくつかのシリーズを揃えている書店で探しても「地球の歩き方」以外にロシアのガイドブックがなく、それも「ロシア ウクライナ ベラルーシ コーカサスの国々」と十把一絡げに扱われていて、ロシア単独ではありませんでした。

そして次はビザです。ビザが必要であるという事自体が既に普段の感覚からズレていますが、パスポートに貼り付けられたビザにキリル文字で書かれた自分の名前が読めません。名前と各項目の題名にのみ横に英語が併記されていましたが、他の項目に書かれている内容はロシア語のみで何が書いてあるか解りません。

挨拶ぐらいは出来るようになろうと初心者向けのロシア語会話の本も買いましたが、これまたちんぷんかんぷんで、結局「こんにちわ」意味する「ズドラーストヴィチェ」と「ごめんなさい」の「イズヴィニーチェ」の2つを覚えるだけで2週間位掛かってしまいました。僕の周りのお金を取れるレベルの英語を喋る人達はわりと英語以外の言葉を喋れる人が多く、例えば今回の仕事をくれた彼女はスペイン語とハングルもそこそこ喋ります。対して僕は英語以外は全くダメで、どうやったらそんないくつもの言語を使えるようになるのかと普段から不思議に思っていましたが、今回の件を通して更に解らなくなりました。

今回はキリル文字が出て来る関係で、ページの文字エンコードをUnicodeにしてあります。環境によって見た目が変わったり、あまり古いブラウザだと表示出来なかったりしますので御注意下さい。

11月26日、出発日。今回の演し物の1つである和太鼓の人達4人と成田で合流します。本隊は既にモスクワ入りをしていて、僕だけ和太鼓チームの付き添いで遅れて行きます。

航空会社はアエロフロート。まだソ連があった'91年にモスクワのシェレメチェヴォ空港経由でロンドンのヒースロー空港まで往復して以来、久し振りに乗ります。その時は、東京に戻った翌日に目を覚ましてTVを点けたら、前日に自分が降り立ったモスクワでクーデターが勃発していて驚きました。ソビエト連邦の消滅は、そのソ連8月クーデターの4ヶ月後の事でした。

アエロフロートが使う搭乗口はかなり遠く、モノレールのような連絡シャトルで移動する必要があります。どうもケーブルカーのような仕組みで動いているらしく、最初は単線ですが、途中で複線分の幅に広がって逆側から来たシャトルと行き合い、また単線に戻ります。

これは確か僕が乗ったのとは違う飛行機だったと思いますが、どうも西側の物のようです。アエロフロートと言えばツポレフやイリューシンの見た目からして既に偽物っぽいというか、胡散臭いデザインのソ連機を使っていましたが、ソ連崩壊はこんな所にも影響を及ぼしているようです。

カラーリングも様変わりしていて、以前は全面白一色に水色のストライプとロゴが入ったシンプルな物でしたが、今は垂直尾翼やエンジンポッドが青く塗られ、ロシア国旗をアレンジしたマーキングが垂直尾翼に入っています。

中に入って安全の手引きを見ると、機体はボーイング767でした。この便は12時ちょうど発のSU582便ですが、折り返し便の到着遅れとかで1時間以上遅れて飛び立ちました。

離陸後は北へと飛び、新潟の市街地の真上を通過します。駅がどこにあるかは判りませんでしたが、Jリーグのアルビレックス新潟が本拠地にしている新潟スタジアム、通称ビッグスワンははっきりと見えます。

日本海上空で飲み物とスナックが配られました。パッと見たところでは表記は全部英語で普通なのですが、よくよく見ると開け口の注意書きがロシア語です。スチュワーデスは普通の航空会社と同じくにこやかで愛想が良く、以前乗った時には仏頂面で恐ろしく無愛想だったのからすると拍子抜けの感すらあります。

その前回の時、必死になって覚えたのがアエロフロートのキリル文字表記でした。英語のアルファベットだと写真の通りAEROFLOTですが、キリル文字ではАЭРОФЛОТとなり、ЭがEの左右逆で、РがR、ФがF、ЛがLにそれぞれ相当し、A、O、Tは同じです。また、ロゴではЛがギリシャ文字のラムダ、Λのように書かれていましたが、これはどうも漢字で言うところの異体字のような物のようです。

キリル文字は歴史の浅い人造文字で、9世紀に東方正教会の宣教師キュリロスとメトディオスの兄弟がギリシャ文字をベースに作ったのだそうですが、実際に作ったのはグラゴール文字だったとか、それなのにキュリロスが作った文字だからキリル文字と呼ばれるとか、18世紀にピョートル1世が手直ししたとか色々な話があってよく解りません。

ギリシャ文字のファイと同じФがFとして使われている事からも解るように、ギリシャ文字の影響は強く、33文字あるキリル文字の内の19文字がギリシャ文字と共通です。音の違いを無視して形だけが共通な物を探せばアルファベットとの共通点も多く、12文字が同じ形をしています。

その後すぐに機内食が出ました。成田発の便なので日本製の食事ですが、塩と胡椒、砂糖にはロシア語が併記されています。前回は野球でピッチャーが使うロジンバッグのような大きさの砂糖が出て来て度肝を抜かれた覚えがあります。その袋には素朴で妙に可愛いイラストが入っていて、ソ連にもこういうセンスがあるのだと感心しました。

北朝鮮を避け中国を避け、ウラジオストクやナホトカの東側からロシア領土上空へと入って行き、ハバロフスク上空辺りで少し西に折れます。新潟上空の写真が14時11分、この写真が15時6分だったので、55分間で日本海を渡り終えた事になります。

荒涼とした、と言う以外に表現をする言葉が見付からないシベリアの大地を下に見ながら機は進んで行きます。機内の表示によると、途中で見えた街はヤクーツクだったようです。ヤクーツクはハバロフスクから北北西の方向にあり、例の表示でも北に向かって航路が大きく円弧を描いているので遠回りをしているように見えますが、地球儀で見ればまっすぐ飛んでいるのだと思います。

西に向かって飛んでいるので本来なら1日が長くなるはずですが、緯度が上がっているせいか窓の外では時間が早回しになったかのように1日が過ぎて行きます。この写真は日本時間の15時49分の物ですが、既に夕暮れ時になっています。

途中、何度か町の灯を見ましたが、基本的に真っ暗な中を飛び続けてウラル山脈に差し掛かろうとした頃、地平線がうっすらと明るくなって来ました。今までいろんな時間帯のいろんな方向に飛ぶ飛行機に乗りましたが、一度沈んだ夕日に追い付いたのは初めてです。

その少し後、ボルクタという町を過ぎた辺りで軽食が出ました。意外な事に食事はそこそこ美味しいです。

最初に夕日を見たのは日本時間の21時頃で、それから2時間経った頃には写真に撮れるほどに明るくなっていました。もしかしたらモスクワに着く頃にはまだ日が残っているかも、と期待しましたが、シェレメチェヴォ空港に降りた時には真っ暗でした。

もし何かあったら行きますので、と和太鼓の人達を先に入国審査ゲートに入らせましたが、一番時間が掛かったのが僕でした。若い係員に仕事で来たのかと訊かれ、いつもの癖で観光だと答えたのが発端だったようで、考えてみたら自分がどういう種類のビザを持っているのか聞いていないし、見たところでロシア語でしか書かれていなくて読めません。結局、日本の会社に雇われて日本の会社から金を貰うのでこの国からは金を持って行かないから問題ないよとわざと早口でまくし立て、半ば無理矢理係員を説得しました。

約束通り空港には迎えが来ていて、ほとんど英語が解らないらしい運転手の車で現場であるメリディアン・モスクワへと向かいます。運転手と会った時にいつも通り笑顔で握手をしましたが、その運転手は無表情なままで手には力がこもっていません。そういえば機内のスチュワーデスを最後に、空港の係員やら回りの人やらが笑っているのを見ていないような気がします。

運転手の後ろに付いて外に出ると小雨がパラついていて、水はけの悪い歩道のあちこちに出来ている水溜まりを避けながら歩かなければなりませんでした。風がないおかげで、覚悟していたほどには寒くありません。

モスクワは中央集権の象徴であるクレムリンを中心とした同心円状の街で、シェレメチェヴォ空港はその北西に位置します。メリディアンはその少し南で、クレムリンからの距離だと更に離れた所にあるので、元々暗い感じだった通りがどんどん暗くなっていきます。道路標識はロシア語のみでアルファベットが併記されていなく、どこに向かっているのかも判りませんでしたが、距離はKmで表記されていたので、そういう意味ではアメリカよりも判り易い部分もありました。

メリディアンに着くと本隊の人達はレストランで食事中だったので、僕達も一緒に食事を摂りました。分量は結構ありましたが、味はそこそこです。

ここはメリディアンではありますが、元々地元企業がやっていた所を買い取ったらしく、あまり高級な感じはありません。基本的にリゾートホテルのようで、隣に付属のゴルフコースがあり、今回の会場も付属の屋内テニスコートを使います。

会場では舞台設営が行われていましたが、どう見ても予定より大幅に遅れています。

11月27日、朝7時半。朝食バイキングにピクルスやオリーブがあるのが嬉しいです。

レストランの入口脇にはハープ奏者がいました。こういう辺りはやはり高級ホテルなのだと思います。

後で部屋替えがありましたが、部屋はツイン。最初は和太鼓のリーダーの人と一緒という事になっていましたが、煙草を吸う人吸わない人で割り直し、僕は別の和太鼓の人と一緒になりました。

部屋は妙に広く、写真の手前側に大きなソファがあります。1畳ほどの広さのウォークインクロゼットもあり、何故かTシャツを忘れて来た僕は毎晩寝る前に洗ったTシャツをそこで乾かしていました。

この日も曇り。イメージ通り過ぎる天候に逆に調子が狂います。思っていたほどではないものの、外にいるとやはり寒いです。

テニスコートやジム、レストランが入ったスポーツセンターは後から造られたようで、妙に新しい建物でした。

ホテルの入口前から見た外界への道。最終日までの間、シェレメチェヴォ空港とここだけが僕が知っているロシアの全てでした。本隊の人達は到着してから市内に泊まっていたし、和太鼓の人達はリハーサルの合間を縫って市内観光に出掛けていたので、僕だけが全く何も見ないままここに軟禁状態になっています。

スポーツセンターの受付兼売店で買ったスポーツ飲料。前からだと普通に見えますが、裏にはやはりキリル文字がびっしりと書かれています。ちょうど真ん中辺りの手紙のマークの横にМОСКВАと書いてあります。どうもこれがキリル文字でのモスクワの表記のようで、СがS、ВがWに相当するようです。

成田では日本円からルーブルに両替が出来なかったので米ドルに替え、ここでは米ドルが使えなくてルーブルに替えたので実際にはもっとレートが悪くなっていたと思いますが、1Р(ルーブル)は大体¥4.5程度。しかしこのスポーツ飲料やミネラルウォーター(基本的に炭酸入りで結構美味しい)が100Рもして驚きました。市内で買えば15Р程度らしいので、相当な暴利です。

スポーツセンターの廊下には日本製のゲーム機がありました。日本製どころかゲーム内から筐体の説明書きまで全部日本語のままで、コインを入れる所だけ取り換えて使っているようです。

テニスコートの使っていない半分はケータリングスペースや物置として使われていて、そこで昼食。市内のスーパーで買って来た物が色々と並べられています。パンにサラミやチーズを乗せて、デザートは果物。ちょっとしたピクニック気分です。モスクワに来て初めて普通の食事をしましたが、何を食べても美味しかったのには驚きました。

その中でもこの塩味のマッシュルーム入りカップラーメンは特に美味しかったです。今回の仕事の請け元のモスクワ支社の人も、ロシアの食べ物は凄く美味しいですよと言っていました。

会場の仕込みはどんどんずるずる遅れています。それもそのはず、仮設ステージを組む時に普通なら使う平台や箱馬、ポータブルステージといった物が一切なく、合板を切り出して何やら造っています。しかも使っている工具がどれも新品、作業員が着ているお揃いのツナギも新品。どうもこういう仕事の経験が全くなさそうな雰囲気です。

音響、照明、映像には特に変な所もなく、機材もよく見掛ける物を持って来ているだけに、余計に施工チームの変さが浮いています。結局、ステージがちゃんと使えるようになったのは、信じられない事に予定の丸1日遅れ。その分の皺寄せはリハーサル時間の短縮となって全部こちらに押し寄せて来ました。

映像卓へ行ったら、ロシア語版のパソコンがありました。キリル文字が書かれたキーボードが面白くて思わず写真を撮りましたが、他の国の人にとってはカナ付きの日本語キーボードもかなりグロテスクなはずです。

11月28日、朝7時半頃。今回は現地の通訳が3人います。ロシアの声、ソ連時代のモスクワ放送でアナウンサーをやっている日本人の女性と、彼女と一緒に働いているアーニャという25歳の女性、そして超名門モスクワ大学で日本語の授業を受けている写真のイーゴリ、19歳。アーニャの日本語は相当なものでしたが、イーゴリの日本語はさすがに大学の授業だけでは基礎的な所までで精一杯なのか、英語で話した方がずっと話が速かったです。

ただ、この食事中に訊いた「ありがとうございます」を意味する「ボリショーイ スパシーバ」という言葉が時々「スパシーバ ボリショーイ」になる時があるけど、何が違うのという質問に対して、少し笑ってから答えた「違いはありません」という一言は妙に日本語らしかったのが印象的でした。

彼は基本的に日本から行った映像さんに付いていて、映像さんと僕はここぞとばかりに「まじっすか」「ウマー」「やべぇ」といったスラングをこの超エリートに色々と詰め込んでやりました。その様を見ていたロシアの声の人があんまり変な言葉を教えるの止めてよねと言って来ましたが、こんな面白いおもちゃをあてがっといて無理ですよと返しておきました。

ロシアのガイドブックを読んでいて本当なのかと思ったのが、ロシア人は国外用と国内用の2つのパスポートを持っているという話でした。国外用は普通の物ですが、ロシアではホテルに泊まるには国内用パスポートを見せる必要があるという話で、実際にはどうなのだろうと思っていたら、イーゴリがフロントで見せていました。

自国民に対してこんな制度があるという事は、当然外国人に対してもあります。それがレギストラーツィア(英語で登録を意味するレジストレーションのロシア語読みでしょう)という物で、ロシアに入国した外国人はホテルで宿泊したという証明をレギストラーツィアにもらう必要があり、人の家に泊まるにもその家の人と一緒に管轄の役所へ行かなくてはなりません。これは滞在期間中の全日程分が揃わないと出国不能になる可能性もあり、更にビザで申請した街以外に宿泊するのは違法と、一体いつまでソビエト封建体制を続ける気なのかと呆れるばかりです。

それにしても、ズドラーストヴィチェとイズヴィニーチェを覚えるのにあれだけ手間取ったのに、レギストラーツィアとかセルティフィカート(証明書、英語のサティフィケート)とか、英語と同じでロシア語読みの単語は一発で入って来る自分の脳の造りもどうかと思います。

PA卓を見ると、ドラフティングテープに書かれたチャンネルの割り振りも当然ロシア語です。MDとCDしか解りません。周りのロシア人が喋っている事も当然ながら何も解りませんが、マイクをミクラフォンと呼ぶ事だけは聞き取れました。やはりこれも英語と同じ単語です。

初日に現場に入ってからずっと感じていた違和感がありました。周りの人達を見ていると、誰も笑っていないのです。僕自身は勝手なイメージとして、物凄く無表情な反面、ウォッカが大好きで呑むと陽気になるという先入観を持っていましたが、それ以上に無表情で、ロシア人同士で話している時もみんな無表情なままです。

何か根本的な勘違いをしているのかと思い、日本人同士で話しているのをしばらく観察していましたが、やはりみんなにこにこしながら話していて、アーニャとイーゴリも日本人と話す時には笑っています。コンパニオンとしてモデルを何人か連れて来たマネージャのマリアも同様。マリアはMTVの初代VJ、マーサ・クインを更にすらっとさせたような感じで、見た感じでは彼女自身も元々モデルだったのだろうと思います。英語がとても上手で、僕としては非常に話し易い相手だったと同時に、ようやく英語が役に立ちました。

それらの事を踏まえ、改めてロシア人側を見てみると相変わらずみんな無表情。しかも寒い所の言葉だからか、口をあまり動かさずに東北弁のような話し方をしていて、それがまた無表情さを引き立てています。

更に不思議だったのは、人種の幅の狭さ。みんな白人。髪の色はいくらか違いがありましたが大体が金髪で、ここまで同じ人種が揃っているとは思いませんでした。何故か日本人は単一人種だという認識がありますが、実際には中国/朝鮮系、モンゴル系、ポリネシア系が混じり合っています。そういう中で育って、無意識の内に多人種に慣れているのでこの状況には非常に違和感を感じました。これはここでだけの話ではなく、翌日モスクワ市内を回っている時にも同じでした。

多分に無理矢理の感がありましたが、なんとか本番を終えました。終わってしまえば緊張が緩んで笑ったりするのかと周りのロシア人達を見ていましたが、やはり無表情なままです。客として来ていた方のロシア人達は酒が入って陽気に騒いでいたので、仕事中とそれ以外で全然変わるのかも知れないとも思います。

日付が変わる少し前に部屋に戻ります。部屋替えがあったので、この日だけシングルルームです。ツインとは違って持て余すような広さではありませんでした。

和太鼓の人達はプレジデンシャルスイートに移り、中に部屋が沢山あったのでおじさん3人と19歳の女の子の和太鼓チーム全員が入れました。ルームサービスの電話を掛けて欲しいと頼まれたのでそこに行きましたが、一体何人いればこの部屋を使い切れるのだろうと途方に暮れるほど広い部屋でした。

余ったおやつは山分けになりました。やはりどれも美味しいです。

その後舞台監督さん、映像さんと一緒にルームサービスで打ち上げをしました。

呑み切れなかったビールは東京に持ち帰りになりました。昼食の時にこれは何と読むのだと手近な物に書いてあるキリル文字の解読をみんなでやっていたおかげで、このラベルのБАЛТИКАをバルティカと読めました。БがB、Nの左右逆のИがIになるようです。3と5という数字はアルコール度の強さを意味していて、3が4.8%、5が5.3%でした。

11月29日、今日は夜の便で帰るだけで、それまでは市内観光に連れて行ってもらえます。他の人達は全員市内を見ていましたが、僕だけ全く見ていないので1人で妙に気分が盛り上がっています。

ホテルのロビー近くにはいくつかの店があり、その中に絵本屋がありました。普段見慣れている洗練された日本のイラストとはかなり違う垢抜けない絵柄ですが、こういうのも可愛いと思います。

今日も天気は曇りで、時折小雨がパラつきます。こちらに来てから一度も太陽を見ていない気がします。しかも今日は風が少し出ていて、とても寒いです。

玄関前の車回しにはロシアの国産車、ラーダの4輪駆動車がいます。確かこのメーカーはパリ・ダカールラリーにも出場していた記憶があります。見ていると不安になるほどのタイヤの細さです。

10時過ぎにマイクロバスと呼ぶほどには大きくないけれども、15人位が乗れる大きなバンに乗って出発します。メンバーは和太鼓チームの4人、舞台監督さん、映像さん、僕で、代理店や制作会社の人達は別便でした。アーニャもガイドとして一緒に来てくれます。

最初に連れて行かれたのは地元の人しか来ないという市場。キリル文字が少し読めるようになって来たとは言え、対になる英語と照らし合わせて解読しているだけなので、ロシア語を書かれるとお手上げです。

寒い場所なので、せめて色使いだけは明るくしようという事なのか、市場の中は妙にカラフルです。売っている物は服や食料品をはじめとして色々あり、水道の蛇口をずらりと並べた店までありました。アーニャ曰く、ロシアの人達は簡単な水道工事程度なら自分でやってしまうとの事です。

物凄く喉が渇いていたので、コーラのペットボトルを買いました。飲物類は店の外のガラスケースの中にあり、店番のおばさんはパチンコの景品交換所のような窓口の中に座っています。不用心だなと思っていたら、おばさんに頼まないとガラスケースが開かないようになっていました。値段は25Р。やはりあのホテルでの値段は異常でした。

肉屋の店先。トタン板の壁や古い秤を見るとソ連時代から何も変わっていないように思えますが、手前にあるビニール袋はVan Halenのエディ・ヴァン・ヘイレンが愛用していた(口腔ガンに罹ったので、さすがにもう止めたと思います)事で有名なアメリカの煙草銘柄、ウインストンの物です。

CDやゲームソフトを扱う店。PlayStationやSega、Xboxのロゴも見えます。そしてそれらに混じってКАРАОКЕの文字が。РはRに相当するのでこれはカラオケです。

ロシア語をルーツとする日本語にはイクラ、セイウチ、ノルマ、コンビナート、アジト、インテリ等々がありますが、逆に日本語をルーツとするロシア語はどの位あるのかなとも思います。

ロシアらしい物と言えば毛皮の帽子。いろんな種類の物が売られていましたが、全体的に結構値が張りました。

市場を出て、車が来るまで少し待ちます。連接バスが走る大通りをくぐる地下道の壁には水色のタイルが貼られていました。

後でもっとちゃんとした写真が撮れたので詳細は後述しますが、奥にはマクドナルドの看板も見えます。東側陣営の本拠地モスクワにアメリカ文化の象徴とも言えるマクドナルドが初めて開店するというニュースを見たのは、冷戦の勝敗がはっきりと見えた'90年1月の事。調べてみるとモスクワ出店を仕掛けたのはアメリカの本社ではなくカナダ・マクドナルドで、当初はモスクワ市議会との合弁事業だったのが、自由化が進むのに合わせて段階的にマクドナルド側の出資比率が上がり、今年4月には遂に100%外資になったそうです。

結構な渋滞の中をゆるゆると進むと、何やら路面電車のような物が見えて一気に眠気が吹き飛びます。

思わぬ路面電車の出現に他の人達に気付かれぬよう静かに1人で喜んでいると、今度は更に予想していなかったトロリーバスが出て来ます。以前は日本でもあちこちに走っていましたが、今ではトンネル内の換気対策や自然環境保護といった理由で立山黒部アルペンルートに2本残っているだけです。僕はまだアルペンルートを通った事がなく、これが初めて見るトロリーバスです。

少しの間見失っていた路面電車が大通りと並走を始めました。嬉しくて写真をいっぱい撮りましたが、窓が汚れている上に曇っているので光量が不足し、しかもこちらも向こうも動いていると悪条件が重なった事もあってほとんどまともな写真にはなりませんでした。

路面電車に気を取られていると、ボンネット型のバキュームカーが横を過ぎて行きました。自動車の方も色々と面白いのが走っていて眼が離せません。

車両のカラーリングは白地に黄色帯、クリーム地に赤帯、白地に上下がピンクでLGのラッピングの3種類がありました。クリーム地に赤帯のカラーリングは丸い車体も相まって西ドイツで走っていた「ラインゴルト」を連想させてくれます。

この路面電車を眺めていて何かが変だなと感じていました。まず、鉄道では珍しい右側通行である事。そして車両の前と後がはっきり違っていて、決まった進行方向がある事。よくよく見るとドアも片側にしかありません。

ドアが片側のみという事は、ホームが常に右側にしかないという事でしょう。前と後がはっきりしているのは環状線になっているか、路線の両端で方向転換をしているはず。端っこがあるとして、果たしてそれを見られるのかなと思っていたら、物凄い急カーブで線路が曲がっていて、この広場がその折り返し地点でした。

約15分間の路面電車観察が終ってから10分も経たない内に、今度は陸橋の下にプラットホームに止まっている長編成の客車列車が見えました。大慌てでカメラを起ち上げましたが間に合いません。その先には立派な駅舎がありました。調べてみるとベラルーシ駅で、僕が乗った車が通っている道はここでレニングラード大通りから第1トゥヴェルスカヤ・ヤムスカヤ通りに名前が変わるそうです。

ベラルーシという名前の駅がモスクワにあるのは妙な感じですが、モスクワには他にもキエフ、レニングラード、クルスクといった名前の駅があり、それぞれの駅名の場所へ行く列車の始発駅になっているそうです。方面別にターミナル駅が分かれているのは別に珍しくなくて、有名なところではロンドンがあり、東京もある程度は分かれていますが、行先が駅名になっているというのはあまり例がないのではないでしょうか。これも中央集権のなせる業なのかも知れません。

同じくベラルーシ駅前にて。どこのメーカーの車かは判りませんが、太い眉毛の外側を下げてしょんぼり顔をしているように見える可愛い車がいます。

どの車もやたらと汚れていますが、ここでは今でもスパイクタイヤが禁止されていなくて、スパイクがアスファルトを削って巻き上げられる粉塵の汚れのようです。

ただ単に広場に銅像が立っていたので撮った写真でしたが、後でガイドブックと照らし合わせたら凱旋広場という場所でした。銅像はウラジミール・マヤコフスキーという革命詩人だそうです。

読める看板集めも順調に進んでいます。

■左上:РЕСТОРАН、レストランです。英語だとRESTAURANTで、レストランという単語自体は元々フランス語だった(更に遡るとラテン語)事から後に発音しないTが付いていたりでスペルと音が合っていない部分もありますが、この看板をアルファベットに直すとRESTORANとなり、ずっと発音に近いスペルになっています。
■右上:同じくレストラン。上のГОРКИはゴルキーとでも読むのでしょうか。そういえばソ連出身という事で話題になったGorky Parkというハードロックバンドがいたな、と全然関係のない事を思い出しました。
■左下:КАФЕ、カフェです。横にあるレーニンのレリーフが意外です。
■右下:ТЕЛЕГРАФ、テレグラフ。多分通信関係の会社でしょう。これが読めた時は妙に嬉しかったのですが、どうも読めた文字が大きかったから嬉しかったようです。

またマクドナルドを見付けました。英語だと「〜の息子」を意味するMcが頭に(よって、DONALDSONと意味的には同じ)、所有格の'Sが後に付いてMcDONALD'S。対するキリル文字表記ではМАКДОНАЛДС、アルファベットに直すとMAKDONALDSで、Mcが音のままに変わるのと所有格の'が抜ける以外には違いはありません。

モスクワ、ロシア、ソ連、ワルシャワ条約機構、東側陣営、そして共産圏の中心、クレムリンに着いて車を降ります。ここでようやくキリル文字とアルファベットが併記されたアエロフロートの看板を見付けました。

同じ場所で振り返るとクレムリン。壁の中に入るにはチケットを買う為に並ぶ必要がある上に中で結構な時間が掛かるので、レーニン廟と赤の広場見学に行きます。この広場はクレムリン北端のマネージ広場。赤い建物は国立歴史博物館です。

手前のワゴンを見て'91年の時にシェレメチェヴォ空港でペプシを買った事を思い出しました。ロンドンに行く途中だったのでイギリスポンドと日本円しか持っていなくて、ソ連で日本人がイギリスの通貨を使ってアメリカの製品を買うという無駄に複雑な事になりました。そのペプシは現地で作った物だったようで上蓋の締めが甘く、黒くねばつく筋が繋ぎ目から垂れていて、状態の良い物を選ぶ必要がありました。

クレムリンいう言葉は元々城砦という意味で、その名の通り非常に高く、見張り穴があちこちに空いています。壁が黄色く塗られているのが妙に寒々しいです。

やはりここでもとても寒く、最初はコートのフードを被っていました。が、'02年の香港で寒さ暑さもその場所にいるからこそだと感じた事を思い出し、フードを外します。横で和太鼓の女の子が寒くないんですかと驚いていたのでその話をしましたが、口から出た納得を意味する言葉とは裏腹な声色と表情を作っていました。

アーニャもここにはほとんど来た事がないらしく、勝手が解らないので近くにいたガイドらしきおばさんに訊いたら、そのおばさんが半ば詐欺師みたいな人で危うく騙されかけたりしつつ、なんとかレーニン廟への列に並びます。列は10人程度のグループに分けられて坂を登って行きます。

今回の仕事を請けた時にまず頭に浮かんだのが、Policeの活動休止後の'85年にスティングが出した最初のソロアルバム「The Dream of the Blue Turtles」に入っている「Russians」という曲でした。その暗く、重く、陰鬱な曲が僕の頭の中でぐるぐると回り始めています。

坂を登った先が赤の広場。やたらと細長い赤の広場の周囲には北に国立歴史博物館、西にクレムリンとレーニン廟、南に聖ワシリー聖堂があり、東にはこのグム百貨店があります。

ここから右を見ると、簡素な金属探知ゲートを備えたチェックポイントがあり、そこから先には手荷物やカメラを持ち込めなくなっています。本来なら手荷物預り所に行かなくてはなりませんが、アーニャが預かってくれると言うので僕の鞄にみんなのカメラや携帯電話を入れて預かってもらいます。

「Russians」は曲調こそ暗いものの歌詞は非常にポジティブで、ソ連の脅威を教えられて育ったほぼ最後の世代である僕の眼の曇りを取り除く一助になった曲でした。

レーニン廟へは赤の広場側から入ればすぐですが、順路はその横の木立の中へと続いています。まず眼に付くのは木立の手前の石段。共産党幹部が毎年恒例の軍事パレードを閲兵していたのはここやレーニン廟の上でした。

木立の中に入ると石碑がいくつもあり、やがてプレートがクレムリンの壁にずらりと埋め込まれた場所に出ます。更に胸像も林立しています。年の表記が独特なのもあって最初は何なのか解りませんでしたが、よくよく見てみると墓標でした。ソビエト連邦共産党に対して功績があった人が埋葬されているらしく、僕が読めた範囲ではアンドロポフや驚いた事にスターリンの墓がありました。調べてみると他にも歴代書記長はもちろんの事、人類史上初の宇宙飛行士ユーリ・ガガーリンや片山潜という日本人もここに埋葬されています。

ちなみにこの写真で木立の向こうに見える大きな丸屋根はロシア連邦大統領府です。上に旗が掲げられているのは大統領在宅を意味します。

「We Share the Same Biology, Regardless of Ideology(イデオロギーは関係ない、僕らは同じ種の生き物)Believe Me When I Say to You, I Hope the Russians Love Their Children too(信じてくれ、ロシアの人々も自分の子供達を愛していて欲しいという事を)」スティングの楽器のような声が分厚い雲の上から聴こえて来ます。

レーニン廟はさほど大きくもない四角い赤茶色の建物で、入口の上にはЛЕНИНとあります。2人の兵士の監視の中、入口をくぐってすぐに左に折れると光沢のある真っ黒い石の壁と階段。不思議な事に周りが真っ黒な上に光源がどこにあるのかも判らないのに階段ははっきりと見えています。階段は途中で右に折れ、降りた先にはまた兵士が立っていて、そこで通路は右に曲がっています。いよいよだ、と僕は少しだけ立ち止まり、深めに息を吸い込んでからその角を曲がりました。

曲がった先には角度の浅い階段があり、レーニンが入ったガラスケースはその階段に三方を囲まれています。登っていくと、写真で見た通りに蝋人形のようなレーニンの遺体が横たわっていて、他の人達はこれは本物なのか、とか小声で口々に言っています。

誰かが僕に話し掛けたような気がしましたが、視線もやらずに黙殺しました。こんな場所で口を開くような気になれないし、何よりも今僕の中ではソ連の作曲家、セルゲイ・プロコフィエフの曲から借りたという「Russians」の荘厳なテーマが最大ボリュームで鳴り響いているのです。

赤の広場の南側にそびえるのはこの聖ワシリー寺院。僕がその存在を知ったのは多分「テトリス」の画面だったと思いますが、一度見たら絶対に忘れようのない唯一無二の建物です。

6年の工期を経て聖ワシリー寺院が完成したのは1561年の事。時の君主イワン4世はあまりの美しさに感激し、これを超える建物を造れないようにと設計担当者のポストニクとバルマの眼をくりぬいたとの話もありますが、それは暴君イワン4世の残虐な性格に由来する噂の尾ひれだと主張する人もいます。

手前にある銅像はミーニンとパジャルスキー像。1612年にポーランド軍に占領されていたモスクワを解放したのだそうです。そして後にある建物にはРОССИЯの文字。今回の仕事のスポンサーの社名にЯが使われていたのでЯは1文字でYAに相当する事は知っていました。よって、ロシアはロシア語ではロシヤになるようです。

写真を撮りながら周りをぐるっと歩きます。タージマハル型の先端こそ共通なものの、大きさも位置もバラバラに見える9つの塔が織りなす不調和が作り出す不思議な調和感はめまいを覚える程に強烈で、夢中になってシャッターを切っていたら他の人達に置いて行かれそうになりました。

車が待っている所へは地下道を通って行きます。その手前の路端には犬が寝ていました。寝床があるところを見ると、野良という訳でもないようです。

地下道には土産物屋があり、少し立ち寄りました。Tシャツのネタになっているのはレーニンやガガーリンをはじめとするソ連関係がほとんどです。

店の中にはマトリョーシカ人形がびっしりと飾られています。

僕は特に買う物がないので他の人達が色々と物色しているのを待っていると、アーニャがレーニンをどう思いますかと訊いてきました。僕は日本語を母国語としない人を相手にする時の話し方に切り替え、更に言葉を選びつつ、良い悪いは別にして(マルクス主義をベースにしていたにせよ)自分の頭の中で考えた事を元に国を作ったという意味で凄いと思うと答えました。

アーニャがレーニン廟に行ったのは小学生の頃(アーニャが今25歳という事は多分ソ連時代)、授業の一環としてだったそうで、レーニンは好きじゃないしレーニン廟もあまり行きたくない場所だと言っていました。アーニャのお父さんは政府関係の仕事をしていたそうで、そういう家に産まれてもレーニン嫌いになるという事は、共産党独裁政権の寿命は遅かれ早かれ尽きる運命にあったのかなと思います。

また車に乗って移動します。途中で路面電車の線路を跨ぎました。どうもこれはさっき見ていたより新型の車両のようです。

次は昼食です。時間はもう14時少し前でみんなお腹が空いています。連れて行かれたのはウクライナ料理のレストランで、店を出る時に貰った英語版のリーフレットによると24時間営業のチェーン店のようです。屋号はКОРЧМА、リーフレットにあるアルファベット表記ではKORCHMAとなっている事からЧはチュと発音するようで、コルチュマという名前なのだと思いますが、アルファベットのみを読むとコルシュマやコーチマとも読めます。

英語版のリーフレットがある位だからサイトにも英語があるだろうと、そこに書かれたwww.tarasbulba.ruに行ってみましたが、トップページは完全にロシア語のみで、英語はメニューの所に入って行くと少しあるだけでした。

階段を上がり、あちこちに小部屋がある恐ろしく入り組んだ廊下を通って窓際の席に通されます。僕達はボルシチとかピロシキ程度しか判らないので、オーダーはアーニャが見繕ってくれました。

■左上:内装は土壁風で、小さな額縁がやたらと飾られています。
■右上:お昼時を過ぎていたので客の入りはそこそこです。
■左下:ビールはСИБИРСКАЯ КОРОНА、シビルスカヤ・コロナ。この位だと読めてしまう自分に驚きます。
■右下:肉厚な黄色いピーマンやプチトマトの前菜盛り合わせ。ピクルスが大きくて嬉しいです。

やはり何を食べてもとても美味しいです。僕は日本で普通に食べる物に関してはほぼ好き嫌いがなくて何でも食べますが、外国の食べ物にはスパイスや臭みといった点で意外と耐性がなくて難儀する事がしばしばあります。それがロシアの食べ物には全然癖がなく、しかもとても美味。それほど色々食べた訳ではありませんが、それでもロシアの食べ物はかなり日本人好みだと思います。

■左上:脂身のハム。パンに乗せて食べます。
■右上:ボルシチ。ちゃんと食べるのは初めてかも知れません。右側の壺は確かパンに塗る為の溶かしバターだったと思います。
■左下:ケバブや焼鳥の親戚、シャシュリーク他。
■右下:ピロシキ。熱々でした。

食事の間、みんなで色々とロシアの事をアーニャに訊きます。他の場所と同じくモスクワも年々暖かくなっていて、それでも年に1日は-35度まで気温が落ちる日があるのだそうです。

予想を遙かに超える充実した昼食で満腹になって外に出ます。何人かがキャビア資金の両替をしにすぐ脇の銀行に行っている間、僕は街並を眺めます。ФОТОはフォトなので、多分写真屋だと思います。

そしてその下にはAppleロゴが。まさか
モスクワに来てこのロゴを見るとは思いませんでした。僕の周りにはMacユーザがとても多く、この写真を見せるとみんな異口同音にモスクワにもあるんだ!と驚きます。

トロリーバス(4.5MB / 18秒間)

ПОКРОВКА、ポクロヴカという名前らしいこの通りには架線が張られているので、トロリーバスが走っているようです。少し待つとやはりやって来たのでムービーを撮りました。後でよく見たら、一番前で後向きに座っている女の子がこちらを見ていました。

アーニャは仕事があるそうで、僕達を車に乗せた所で別れました。あとは空港へ行くだけです。

走っている内にどんどん暗くなって行きます。僕は相変わらず街の観察と読める看板探しに鵜の目鷹の目になっていますが、他の人達はほとんど寝ていました。

■左上:手前の交通標識にあるСТОПを読もうとして驚きました。ПをPだと仮定するとそのまま英語のSTOPなのです。そしてその上のОПТИКАを同じ仮定で読むとオプティカ。英語のOPTICALから考えると眼鏡屋です。
■右上:前半はアンティークなんとか程度以上には読めませんが、САЛОНはサロンと読めます。
■左下:ИНСТИТУТ ЭСТЕТИКИ、УがUと同じだとするとインスティトゥト・エステティキ。英語のINSTITUTEは研修所とか講習会を意味するので、エステティシャンの養成所ではないでしょうか。
■右下:АВТО САЛОН、オートサロン。英語をほぼそのままキリル文字で書いただけです。

ウクライナレストランを出たのは15時半過ぎ、両替が終わって出発したのが16時過ぎ。モスクワの日暮れは早く、16時半頃にはもうかなり暗くなっていて、17時にはほぼ真っ暗です。

■左上:前半が読めませんが、後半のБАНКはそのままBANKです。
■右上:またОПТИКА、眼鏡屋があります。
■左下:ГАЛЕРЕЯ АЭРОПОРТ、ガレリヤ・アエロポート。やはりПはPのようです。語源はイタリア語のようですが、英語のGALLERIAはガラス屋根がある大きなショッピングセンターで、有名なところでは免税店のDFS Galleriaがあります。
■右下:ДИНАМО САМБО、ディナモ・サンボと読めますが、ディナモは多分ダイナモの事でしょう。サンボはソ連で考案された格闘技で、軍隊でも採用されているそうです。下の赤文字があやふやながらプロフェッショナロウとも読めるので、多分サンボの興業の告知バナーではないかと思います。

ЯПОНСКИЙ ФАРФОР、ИとЙがどう違うかよく解りませんが、多分ヤポンスキー・ファルフォル。「器」の文字の嘘っぽさが良い感じです。

ヤポンスキーは多分日本というより日本の、を意味するのではないかと思います。ファルフォルが何だか解らないという以前にこの読み方が正しいのかも判りませんが、検索してみるとお皿やティーカップが出て来たので食器を意味するのだろうと思っていたらロシア語版のWikipediaに項目があるのが見付かり、そこから英語版と日本語版に行ったら陶磁器の項目に行き当たりました。

左のМОБИТЕЛЬ、多分モビテルと読む看板はその語感とGSMやМЕГАФОН、メガフォンと書かれたカードからして、多分電話のプリペイドカードか何かではないかと思います。

更にその下のАУDИО ВИDЕОはDVDロゴがある事からも多分オーディオ・ビデオなのでしょうが、キリル文字のДではなくアルファベットのDで書かれているのが不思議です。また、2つ上の写真でのУはUと同じという仮定は正解のようです。

さすがに僕も眠くなってうつらうつらとし始めた頃、車が大きなショッピングセンターの駐車場に入りました。店はいろいろとありますが、目的地は1階のスーパー。その昔、ソ連の物不足のニュースで薄汚れた店の何もない棚を見たのが嘘のように物、物、物で溢れ返っています。

キャビア購入組は先を争って鮮魚コーナーへと向かい、僕は店内を歩き回って外国のスーパーの雰囲気を楽しみます。明日日本に着いてその日の内に人に会うのと、翌日から現場なのでチョコレートの詰め合わせや小さいお菓子を買い込みました。

ショッピングセンターのテナント看板は読める看板の宝庫でした。

まずショッピングセンター自体の名前がРАМСТОР、ラムストーとかラムスターとか。マクドナルドの2つ下のСТАР ГЭЛАКСИはスター・ゲラクシと読めるのでSTAR GALAXY、スター・ギャラクシーのキリル文字表記でしょう。そしてその2つ下のЭЛЬDОРАDОはЬがよく解りませんがエルドラドと読めます。ここでもまたДの代わりにDが使われています。

ずっと下がってПИЦЦА ХАТはPIZZA HATをそのままキリル文字で書いただけです。ZにЦが当たっていますが、「ピザ」ではなく「ピッツァ」が本来の発音なので、もしかしたらЦは単純にZではないのかも知れません。

そしてそのすぐ下のKFCはアルファベットのまま。下に小さくЦЫПЛЕНОК КЕНТАККИとあり、後半はそのままケンタッキで簡単なのですが、前半はロシア語の単語なので全く解りません。検索してみたところ、ディズニーの「Chicken Little」という映画がЦЫПЛЕНОК ЦЫПАというロシア語のタイトル付きで見付かりました。よって、KFCのFの部分は省略されているようです。

シェレメチェヴォ空港に着き、大柄で口髭を生やした人の良さそうな運転手のおじさんに「スパシーバ ボリショーイ」と言うとにっこり笑ってくれました。中に入り、恐ろしく無愛想で態度の悪いチェックインカウンターのおばさんにソ連を感じつつ搭乗口近くの免税店へと行きます。

免税店の辺りは'91年の時と様変わりしていました。建物自体は記憶のままですが、使っていない所の照明が落とされていてとても暗かった前回と違い、ちゃんと全体が明るくなっています。そして2階に何故かあった薄暗くて不気味な日本食レストラン「富士」はなくなり、バーになっていました。

禁煙化の波に未だ呑み込まれていない感があるモスクワでしたが、ここは空港なのでさすがに禁煙になっています。それでも仕切りも何もない通路に灰皿があり、その一角だけが煙で澱んでいました。

成田でルーブルの両替が出来ないので、みんなで最後の使い切りをします。すっかり好きになってしまった炭酸入りミネラルウォーターやジュースを持ってレジに行くと、若い男のレジ係が英語でアメリカドルでしかお釣りを出せないよと言うので、そっちの方がずっといいよと思わず口走ってしまい、レジ係が唇の端に小さい苦笑を浮かべていました。

乗ったのは19時20分発のSU575便。行きは横に誰もいない窓側の席でしたが、今日はほぼ満席で通路側の席でした。

モスクワ積み込みの機内食は悪くありませんでした。そうだ、と思ってペプシを頼むとやはりПЕПСИと書かれた缶が出て来ました。製造技術が上がったのか、黒くねばつく筋はありません。

日本時間の11月30日朝9時、朝食が配られました。ロシアに行く事は多分もうないと思いますが、食べ物に関しては本当に名残惜しいです。

帰りもやはり本屋とは離れた所に着きました。この写真が11時21分に撮られていたので、多分11時前頃に到着したのだと思います。

連絡シャトルの擦れ違い。線路があるはずの所がコンクリートの打ち放しなのは妙な感じです。

シェレメチェヴォで買ったМИРИНДА、ミリンダ。

冒頭で複数の言語を操れる人が不思議だと書きましたが、キリル文字の解読をやってみて改めてそう思いました。なので、僕は今後も日本語と英語を磨き続けようと思います。反面、何ヶ国語も使えたら楽しいだろうという気持ちも強くなっています。どうせ勉強するなら使える場所が多い言葉が良いのでフランス語やスペイン語になるのでしょうが、それならやはり英語が一番使い勝手が良いじゃないかという堂々巡りに入ってしまい、結局の所、やはり日本語と英語のみに落ち着いてしまいそうです。

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