梅小路蒸気機関車館、交通博物館に続いての探訪シリーズ第3弾は大阪の交通科学博物館です。

11月17日〜18日に大阪で仕事があり、終ってから東京に戻れないので18日分の宿泊も用意されていたのが事の発端でした。餘部鉄橋や北陸方面等、いくつか案が浮かびましたが、事前に時刻表をめくる時間がなかったのと、さすがに疲れていたので手軽に済ませる事にし、交通科学博物館へと向かいました。

現場は大阪帝国ホテル。会場になるホテルに泊めてもらえる事は稀ですが、今回は部屋がありました。

ここは大川(旧淀川)沿いにあり、川の向こうには桜之宮公園、この部屋からは見えませんが大阪造幣局や大坂城もすぐ近くにあります。

ゆったり起きた19日の朝、前日は入り時間が非常に早くて見逃さざるを得なかった吉兆の朝食を摂ります。

チェックアウトは12時なので、ルームサービスでコーヒーを頼んで新聞を読んだり外の景色を眺めたりとまだまだゆっくりします。

チェックアウトまで部屋で過ごすというのは今までにも何度かやった事がありますが、コーヒーをルームサービスで取るというのは初めてです。チャンスを狙ってはいましたが、時間が足りなかったり朝食でコーヒーを飲んでいたりでなかなかやれずにいました。

チェックアウトし、フロントで教えられた通り土手を通って橋を渡ると大阪環状線の森ノ宮に出ます。首都圏では既に絶滅に近い103系に乗って弁天町へと向かいます。

交通科学博物館は弁天町駅のすぐ近くというのは知っていましたが、改札からの誘導看板に従って進んでみると、実際にはすぐ近くどころではなく、駅と一体化したような造りでした。

入場券を買おうと思って入口を見ると、何やら立て看板があります。偶然にも関西文化の日というのに当たったらしく、入場料が無料になっていました。関西文化の日なので大阪府や兵庫県が対象になるのは判りますが、意外と範囲が広くて福井県や三重県、海を隔てた徳島県までが対象になっています。

無料になるのは良いのですが、それで館内が混むのなら有料の方が良かったのになと思いながら中へと進みます。

本屋に入る前には20系客車の食堂車、ナシ20や湘南電車と呼ばれていた80系電車等、屋外展示が見えます。

親子連れで賑わう館内は屋外展示側がずっと通路で、逆側がそれぞれテーマ別に壁で仕切られた展示になっています。

一番入口寄りは「明日に向かって」と銘打たれたリニアモーターカーを軸にしたコーナーです。ここの主役はML-500というリニアモーターカーで、後には0系新幹線もいます。

ML-500は'77年から宮崎の実験線で走っていた無人の実験車で、'79年には517Km/hという当時の世界記録を樹立し、僕の世代には強烈なインパクトを残した車両です。

ML-500の時代には実験線のレールは凸型で、これでどうやって人が乗る車両を走らせるのだろうと疑問に思っていましたが、'80年に凹型に改修、以降は有人での実験を続けていました。当然、レールの形が合わなくなったML-500はその時点で引退、約4年間の実験を終了しました。

車体が浮上していない時の為にタイヤも付いています。ML-500を実際に眼にして驚いたのはそのリベットの数。曲面を作る為に小さい外板を繋ぎ合わせたらしく、その繋ぎ目に沿って凄い数のリベットが打ち込まれています。沈頭型のリベットではないので、これを全部平らにするだけで速度記録ももう少し伸びたのではないかと思います。

その後も実験は続きますが、国鉄分割民営化後の'90年にJR東海が山梨に実験線を建設する事を決定、'97年からはそちらでの実験が始まります。一方、'96年に実験が終了した宮崎の実験線では'99年から東北大学流体科学研究所の小濱研究室が地面効果を利用したエアロトレインの実験を行っています。

フォードのGT40を思わせるストライプをまとった潜水艦のような形の車体は、後端部でラインを少し持ち上げ、そこでスパッと切り落とされています。前後非対称という事は、実験は一方通行で行われていたのではないかと思います。右後の隙間からカメラを突っ込んで写真を撮ると、浮上体と書かれた日立製作所の銘板が写りました。

単線でほとんど直線のみの宮崎実験線と違い、複線でカーブやトンネル、鉄橋もある山梨実験線は計画の42.8Kmのうちの18.4Kmが建設され、運用に入ってたった半年で早くも500Km/hを達成しました。'00年には相対速度1,003Km/hでのすれ違い、'04年には故障時を想定した連結走行を行う等、より実践的な実験を急ピッチで進めています。平行して最高記録の更新も続け、'03年に有人走行速度581Km/h、'04年にはすれ違い相対速度1,026Km/hを記録しています。

横から見ると有機的な曲面がより強調されます。ML-500はML500とハイフンなしで記述されている資料も多く、実際にここの説明看板にもハイフンがありませんが、実車にはハイフンありで書かれていてどちらが正しいのかよく判りません。

'98年からは一般人を対象とした試乗会も始まり、定期的に試乗会を行っていますが、その抽選倍率は70倍とも言われています。

展示物の中にあったML-100の模型。ML-100は'72年に製作された4人乗りの実験車で、現在も国立のJR総研に保存されているそうです。ML-500もなかなか良い形をしていますが、ML-100は更に未来志向の強いデザインで、大人になった頃にはこんなのに乗れるのかと思って胸躍らせたものでした。

既に技術としては実用レベルに達しているリニアモーターカーですが、東京ー大阪間の中央リニア新幹線開通に向けての国の動きは非常に鈍く、未だ具体的な形は見えていません。理由の一つは東京、名古屋、大阪の各都市圏で必要になる大深度トンネルの工事費等コストの問題ですが、整備新幹線を全線開通させるまでは中央新幹線なんぞにビタ一文予算を付けさせないと明言している自民党の代議士センセイ方もいて、障害としてはそちらの方が大きいのではないかと思います。

リニアの次は一気に時代を遡って鉄道黎明期の展示です。1800形1801蒸気機関車の実物と小さな客車のレプリカが置かれ、手前にその当時の一般的な駅が再現されています。

1801は1881年にイギリスのキットソン社で製造されたC型機関車で、同形機は1801を含めて8両、京都ー大津間の勾配線区で走っていました。1929年に高知鉄道、1940年に東洋レーヨン(現在の東レ)大津工場と渡り歩き、'64年に国鉄に寄贈され、以来ここで保存されています。

1800形は当時の標準形機関車だったようで、鉄道局以外にも全国各地の私鉄で輸入され、1800形と基礎設計を同じくする機関車は実に8形式100両以上に及びました。しかし、その中で現在保存されているのはこの1801だけだそうです。

'58年に東京ー大阪間の特急「こだま」用に登場した151系の前頭部。「こだま」は東京ー大阪間を6時間半で結び、陸路での日帰りが初めて可能になりました。速度の面だけでなく、それまでは特急と言えば客車列車という常識を覆した運用面や、赤とクリームの車体色や三角形の特急マーク、JNRロゴとデザインの面でも後に大きな影響を与えた形式でした。

しかし、151系の「こだま」での運用は6年足らずと短期間で、'64年の東海道新幹線開通後は東京ー熱海間で臨時急行「オリンピア」として走るというイレギュラーはあったものの新大阪以西に職場を移しますが、平坦な東海道本線と違って勾配区間を擁する山陽本線ではモーターの出力が足りず全車181系に改造されます。上越線に行ったグループもいましたが、そちらもやはり全車181系への改造を受けていて、その関係で151系のままで現存する車両がないはずなので、これも181系から復元された物だと思います。

こちらも前頭部のみの101系。現在大阪環状線で走っているのは後継の103系ですが、来る時に乗ったのと大差ない車両が博物館に展示されているのは妙な感じです。

ガラスケースの中にも色々と面白い物があります。まず眼を惹かれたのはこの「つばめ」のヘッドマーク。通常の丸い物ではなく、東海道本線の全線電化を記念して製作された物で、牽引機のEF58の前に10日間程掲げられていたそうです。この特製ヘッドマークは2つあり、菱形の物が大阪で、円形に羽飾り付きの物が東京で造られました。

東海道新幹線開通に向けて2両編成と4両編成の2編成6両が造られた1000形の模型。細かい違いは色々とありますが、基本的な形は後の0系と大差ありません。開通後は救援車と電気軌道総合試験車に改造されましたが、最初期の0系の廃車が始まるに該ってその手順の確認と訓練の為に解体されてしまい、現存していません。

瀬戸大橋開通前は宇野ー高松間に宇高連絡船が走っていましたが、フェリーだけでなくホバークラフトも走っていました。フェリーで68分間の航路をきっかり半分の34分間で結んでいましたが、瀬戸大橋開業で宇高連絡船が廃止になり、どちらもなくなってしまいました。

そういえばホバークラフトには乗った事がなかったと思って調べてみると、以前は大阪ー徳島間を筆頭に伊勢湾や鹿児島、沖縄八重山諸島にあった航路からことごとくいなくなり、今では大分市内ー大分空港間の別府湾を横切る航路しか定期便がないそうです。ただ、この航路には4艇も就航していて新しい大型のホバークラフトを導入したりと意外に元気なようなので、その内乗りに行きたいと思います。

またも0系の先頭車。ここには先頭車2両、グリーン車とビュッフェ車各1両の計4両の0系が保存されていて、リニアモーターカーの所から壁沿いに置かれています。

その向かいには初の国産大型電気機関車EF52 1がいます。1928年に7両、1931年に2両が製造された形式で、主に東海道本線や中央本線、阪和線で走っていました。

EF52のデッキには上がれるようになっています。広さは2畳程度です。

最近読んだ本で、'70年代末にこの手のデッキ付き機関車に子供が沢山乗っている写真を見ました。常磐線の上野発普通列車だそうで、時期的に僕が上野や東京で列車を見物していた頃です。当時は混雑が酷いとデッキに乗客が乗るのが黙認されていたそうで、なんで特急なんぞに現を抜かしていてすぐ横にいたそんな面白い物を見逃していたのかと後悔しています。

鉄道を扱う博物館には欠かせない鉄道模型のレイアウトもあります。大きさや全体の印象は交通博物館と似ていますが、走る車両はJR西日本の物が中心となっています。

交通科学博物館という名前なので、鉄道以外にも色々と展示があります。航空機の展示の中で眼を惹かれたのがこのロケットエンジンの実物2本でした。

左は実用化された機体としては史上唯一のロケット推進戦闘機、ドイツ空軍のメッサーシュミットMe163B「コメート」のエンジンです。第2次大戦中のドイツ空軍の時間の流れは他の国とは全く違い、当然のようにジェット機を飛ばしているというとんでもない技術力を持っていて、この「コメート」もロケットエンジンで飛ぶだけでなく無尾翼機でもありました。

右は1947年10月14日にチャールズ・E・"チャック"・イェーガー大尉の操縦で速度マッハ1.06を記録し、人類初の超音速飛行を達成したベルX-1(1948年までの名称はXS-1)用のエンジンです。ちなみに手前の説明板には音速突破は1946年と書かれていますが、間違いです。

一口にX-1と言っても原型機が3機、X-1A、X-1B、X-1Dが各1機の計6機が存在し、その内の原型機の3号機、X-1A、X-1Dの3機は事故で失われ、イェーガー大尉が初めて音速を超えた原型機の1号機「グラマラス・グレニス(グレニスはイェーガー大尉の奥さんの名前)」がスミソニアン航空宇宙博物館、原型機の2号機を改造したX-1Eがエドワーズ空軍基地、X-1Bがライトパターソン空軍博物館に保存されているので、このエンジンは交換用の物かスペアパーツを組み上げた物だと思われます。

自動車の実車展示は'50年代の物が中心で、手前からダイハツミゼットMPA(輸出用の左ハンドル仕様)、スバル360DX、ミツビシ500A11形、いすゞヒルマンミンクスPH400の4台があります。やはりこの時代のデザインは作為のない可愛さが素晴らしいです。

4台の自動車とEF52の間にいるのはサンフランシスコのケーブルカー。日本で走っているケーブルカーはほぼ例外なく交走式と言って、山頂側にあるモーターでケーブルの両端の車両を交互に上げ下げする方式で、ちょうど井戸の桶のような造りなので別名をつるべ式と呼ばれる方式ですが、このケーブルカーは循環式と言って、常時動いているケーブルを車両がグリップと呼ばれる装置で掴んだり放したりする方式です。従って、車両側ではブレーキとグリップの操作のみをします。

僕が初めて海外旅行に出たのは'79年のハワイ行きでしたが、その時に日航のストライキとダブルブッキングがあった関係で、カナダのバンクーバー経由でサンフランシスコに1泊し、翌日ハワイに移動というかなりの大回りをしました。

ハワイでの事も色々と印象深かったのですが、サンフランシスコでケーブルカーに乗り、フィッシャーマンズ・ワーフで夕食を摂った事もよく覚えています。その食事は子供心にもこんな物かな、と思っていましたが、最近父親とその時の話をしたらやはり不味かったそうです。そういえばちゃんとメイクされたベッドに寝たのもその夜が初めてで、毛布をはがさないようにベッドと毛布の間に慎重に入ったり、今はニューヨークでデザイナーをやっている従弟の名前が決まったと寝付く前に両親に知らされた事もこのケーブルカーを眺めていたら思い出しました。

'69年から東京ー大阪間で走り始めた国鉄高速バス「ドリーム号」の第1号車。こうやって改めて見てみると、バスのデザインも結構な変化をしているのだと思います。

車内もやはり時代を感じさせます。特に仕切りに使われている十字形のパンチプレートが良い感じですが、考えてみれば最近では見ない意匠です。

国鉄時代は国鉄線と国鉄バスを通しで切符を買えましたが、国鉄分割民営化によって分社化された結果、乗車券の通し購入は出来なくなってしまいました。ただ、周遊きっぷは制限はあるものの、エリアによっては使える場合もあるので、その内JRバスを組み込んだ旅程を立ててみたいと思います。

屋内展示を一通り見終わり、専用の歩道橋を渡って第2展示場へと向かいます。ここには僕が一番見たかった車両が展示されています。

その目当てはDF50。'56年に登場した国産初の本格的な量産ディーゼル機関車です。ディーゼル機関車と言っても電気式というエンジンに接続した発電機で起こした電気を使って台車のモーターを回すという方式で、後に主流となった液体変速式に比べて複雑な構造と重い重量、高い製造コスト、メンテナンスの難しさと色々と欠点がありますが、海外では電気式の方が多いようです。

国鉄では液体変速式のDD51を大量に配備し、電気式はDF50以降長きに渡って造られませんでしたが、JR貨物が'92年に開発したDF200は久し振りの電気式になりました。エンジン出力が上がり過ぎて液体変速機の信頼性に不安があったのと、小型軽量で大出力の交流モーターをはじめとした電子機器の大きな進歩が電気式を採用した理由でした。DF200は現在北海道で配備が進んでいて、北海道に行く度に数が増えているのが感じられる程です。

隣にいるのは主に客車や貨車の入換用に使われていたDD13で、登場は'57年。国産初の液体変速式量産ディーゼル機関車です。話はディーゼルカーに飛びますが、'53年に登場したキハ10系が初めて搭載した方式で、それまでの機械式は自動車で言う所のマニュアル車と同じくクラッチを切ってギアを切り換えるという操作が必要だったのを、オイルを介した液体変速機(トルクコンバータ)を使う事によってオートマティック車と同じ感覚で操作が可能になりました。ディーゼル機関車で初めて搭載したのは'54年登場のDD11という形式でしたが、これは9両しか造られず、半ば試作機に近い物だったようです。

僕がこのDF50に惹かれたのは'70年代末のブルートレインブーム当時、最長距離を走っていた「富士」の宮崎ー西鹿児島間をこの機関車が牽いていたのがきっかけで、以来間近で見てみたいと思っていました。北海道以外の全国で走っていた形式ですが、僕が存在を知った頃には日豊本線と四国で走っている程度でした。

保存機はこの18番機以外にJR四国の多度津工場に1番機、大阪府東淀川区に公園に4番機がありますが、エンジンの形式が違う500番台は1両も残っていません。

長年の念願が叶ってDF50との対面を果たしましたが、僕は少し離れた所にいる日本離れした顔のDD54が気になって仕方ありませんでした。

DD54は、DD51のように中型のエンジンを2基積むよりも大型のエンジンを1基積んだ方が軽く安くメンテナンスも楽になるだろうというコンセプトで'66年に登場した液体変速式ディーゼル機関車で、山陰地方で蒸気機関車を置き換え、「出雲」も牽いていました。しかしエンジンや液体変速機に故障が多発し、走行中に床下のドライブシャフトが折れて脱落、枕木に突っ掛かって棒高跳びのように車体が浮くという事故まで起こした事から早々に廃車が始まり、最終製造年が'71年であるにも関わらず'78年には全車が姿を消したという非運の形式です。

前面も側面も六角形を基本とした車体や独特なヨーロッパ風の顔の作りと異彩を放つDD54ですが、僕にとっては別に好きな形式ではありませんでした。が、実車を眼の前にしてみて完全に魅了されてしまいました。ストレートな格好良さではなく、もう少しできちんと均整が取れた形になるのに寸止めをしつつも醜悪ではなく、日本離れした顔でありつつも各所にちりばめられた国鉄の意匠と、ギリギリのバランスと緊張感を持ったデザインで、しばらくの間色々な角度から眺めていました。

DD54の許を離れるのは名残惜しかったのですが、本館に戻って屋外展示を見ます。

屋外展示の一番第2展示場寄りにはガラス張りの建物があり、その中に北海道初の蒸気機関車、義経号が鎮座しています。1880年にアメリカのH. K. ポーター社で製造された機関車で、8両輸入された内の最初の6両にはそれぞれ名前がありました。

万世橋の交通博物館にいる弁慶号、小樽の小樽交通記念館にいる静号と同じ形式ですが、義経号は1923年に大阪府堺市の梅鉢鉄工所(後の帝国車両工業、東急車両製造)に譲渡された後にタンク機関車に改造された関係で石炭と水を積むテンダーはオリジナルではありません。

'52年に鉄道80周年記念事業の一環として国鉄鷹取工場で動態復元された後に保管されていましたが、国鉄分割民営化後の'90年に国際花と緑の博覧会(通称大阪花博)の会場内を走る「ドリームエキスプレス」の牽引機として復活しました。この交通科学博物館入りをしたのは翌'91年の事で、今でも動態保存扱いになっているそうです。

義経号の前で入口側を見ると屋外展示の9両が見えます。一番手前には左からキハ81 3、C62 26、D51 2と並んでいて、後にそれぞれ2両づつがいます。上に架かっている屋根は'94年まで使われていた京都駅1番ホームの上屋で、ここに復元されたのは'02年の事だそうです。

ここでまず眼を惹くのはキハ81。'60年に登場した初の特急形ディーゼルカーで、キハ81系自体は3編成しか製造されなかったものの、改良型のキハ82系によって全国に特急網が張り巡らされました。

最初に投入されたのは上野ー青森間の「はつかり」で、その後「つばさ」「いなほ」「ひたち」と東北方面の列車に使われていましたが、最後に行き着いたのは電化前の紀勢本線の「くろしお」でした。僕がキハ81の存在を知ったのは'78年の紀勢本線電化で振り子式特急電車の381系に後を譲った直後でしたが、キハ81時代の「くろしお」は天王寺から紀伊半島をぐるっと回って名古屋まで行っていたのに、電化が新宮以西のみだったので「くろしお」は天王寺ー新宮間に短縮され、紀伊勝浦ー新宮ー名古屋間は新設のディーゼル特急「南紀」がカバーするという形に系統分離されてしまいました。

キハ81はブルドッグと呼ばれた鼻面がデザイン面での特徴なので、ちょっとカメラの実験をしてみます。上の写真はDMC-FX8のテレ端、35mm版換算で105mmで撮っていて、圧縮効果で寸詰まりに写っています。対してこの写真はワイド端の35mmで撮っていて、今度は遠近感が非常に強調されています。こんな安いコンパクトカメラでもはっきりと違いが解り、光学機器は嘘をつかなくて面白いと思います。

この写真を眺めていると、段々とこの鼻がヤッターワンの鼻に見えて来ました。ヤッターマン1号と2号が横に掴まるというのは蒸気機関車の機関士からヒントを得たという話もあるので、もしかしたら本当にキハ81がヤッターワンのモデルなのかも知れません。ちなみにこの鼻の中には発電用のエンジンが入っていて、運転台のセンターピラーの裏にはその排気管が走っているのが見えます。

キハ81の後には80系電車の先頭車と中間車が繋がっています。'50年に登場した80系は東海道本線の中距離列車として初めて使われた電車で、塗装もそれまでの茶色1色からオレンジと緑のツートンカラーとなり、湘南電車と呼ばれて親しまれました。ポピュラーなのは正面が2枚窓で鼻筋が通った後期形ですが、これはその前の3枚窓の前期形です。

C62の後には1933年製のスシ28と1938年製のマロネフ59。上屋の柱や奥の時計と一緒に眺めていると、なんとなく当時の雰囲気を味わえます。

D51がいる線路の端にいるのは230形蒸気機関車。設計はイギリス製のA8形のコピーではありますが、初めて量産された国産蒸気機関車で、1903年から1909年までの間に38両が造られました。この233は現存する最古の国産蒸気機関車だそうです。

屋外展示で最も心惹かれるのは、D51の後にいる20系客車の食堂車、ナシ20 24です。'58年の「あさかぜ」を皮切りに走り始めた20系には当然ながら食堂車が用意され、日本車両と日立製作所がその製造を請け負いましたが、国鉄はこれら2メーカーに車内デザインを任せるという異例の指示を出しました。

36両製造された内の29両が日本車両製の0番台、7両が日立製作所製の50番台で、ここにいるナシ20 24は日本車両製ですが、今はレストランとして使われている車内にはまず間違いなくオリジナルではない椅子とテーブルが並んでいました。

側面の号車表示器と列車名表示器。左の正円形に号車、右の長円形に列車名の幕が入っていました。このナシ20にはないようですが、もう1種類更に長い長円形の行先表示器があり、中の幕が真中で2つに分かれていて、その組み合わせで始発と終着を表示するという手が込んだ物でした。

はっきりとした記憶がある限りでは、僕が乗った事がある20系の列車は「あけぼの」のみで、当時既に20系で走る唯一の定期特急列車でした。当然食堂車など付いていなく、2両連結された開放型A寝台車のみがわずかに編成中のアクセントとなっていましたが、'70年の新設からごく短期間の間だけは食堂車が組み込まれていました。

20系は'70年まで製造が続けられ、「あけぼの」はその最終ロットを使って新設された列車でした。このナシ20 24は'70年製の最終ロットに含まれ、新製当初は「あけぼの」に組み込まれていたそうです。「あけぼの」の24系置き換えが'80年までずれ込んだのは車両が新しかった事と、伝統的に夜行列車の需要が大きい東北地方の中でも特に需要が大きい秋田方面を走っていて、幅52cmの3段寝台で定員が多い20系(14系以降は幅70cmの2段または3段寝台)をなかなか手放せなかったのが理由のようです。

車端部に置かれた空調装置の形がはっきりと判る14系/24系と違い、端から端までずっと同じ形のカマボコ形の車体も20系の特徴です。この日のレストランとしての営業は終っていましたが、D51との間には客が出入りする為のデッキがあり、そこにはメニューが掛かっていました。

それまでの常識を覆す全車空調入り、乗り心地の良い空気ばね台車、統一感のあるデザインと数々の新機軸を打ち出し、登場時には走るホテルとも呼ばれた画期的な形式であったはずの20系ですが、保存車両は意外な程に少なく、現役当時の姿を残しつつ屋根の下できちんと手入れをされていると言えるのはJR東日本が大宮の工場に保存していて'07年春に開館する鉄道博物館入りが決まったナハネフ22 1のみのようです。福岡市東区の貝塚公園にもナハネフ22 1007がいますが、こちらは屋外である事といたずらによってあまり良い状態ではないようです。

保存とは少し違いますが、'70年代前半から始まったSLブームを追い掛けるように全国各地で開業したSLホテルの客室としてよく20系が使われていました。が、大半が経営不振で廃業、そのまま放置されて雨ざらしになった揚げ句に解体の憂き目に遭っています。少し調べた所、現状で車内に泊まれる20系は岩手県の雫石町にある小岩井農場と三重県亀山市の国民宿舎関ロッジのみのようです。

たっぷり4時間半も展示を見て回り、17時前に隣のかめやといううどん屋に入りました。

また大阪環状線に乗って新大阪へと出ます。どこの駅で撮った写真なのか判然としませんが、LEDの列車案内に最初から遅れの欄がある事に初めて気付きました。乗車位置が色と図形になっているのもこの辺り独特です。

東京への帰りは18時19分新大阪始発の424A「ひかり424号」です。時間の制約がなければ「ひかり」を選ぶので、300系にばかり乗っている気がします。この日の肴は焼さば鮨とイカのちくわでした。

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