■ 第4-5日 / 11月6-7日 ■

迎えた最終日、北海道ちほく高原鉄道に乗ります。'04年1月に一度乗った路線ですが、その時は池田から北見まで一気に通り過ぎただけだったので、なんとなく引っ掛かる物をずっと感じていました。

駅 名
時 刻
列 車
線区名
遠軽
06:39発
4653D
石北本線
北見
08:03着
08:06発
742D
北海道ちほく高原鉄道
ふるさと銀河線
置戸
08:56着
09:53発
702D
銀河
陸別
10:26着
13:39発
726D
池田
15:07着
15:11発
2552D
根室本線
帯広
15:41着
16:22発
40D
とかち10号
新得
16:55着
16:56発
石勝線
南千歳
18:41着
18:42発
千歳線
白石
通過
函館本線
札幌
19:14着
19:27発
4レ
北斗星4号
白石
通過
千歳線
沼ノ端
通過
室蘭本線
長万部
22:08着
22:08発
函館本線
五稜郭
通過
江差線
木古内
通過
海峡線
中小国
通過
津軽線
青森
通過
東北本線
八戸
通過
青い森鉄道
目時
通過
IGRいわて銀河鉄道
盛岡
04:33着
04:35発
東北本線
上野
11:19着

その引っ掛かりを解消する為にももう一度乗ろうという事は今回の北海道行きの話が来た時点で決めていましたが、あれこれ考えている内にどうせならもうすぐ廃止になるこの路線に丸一日あげようという気になって出来上がったのがこの日の旅程です。

6時過ぎにホテルをチェックアウトして駅へ向かいます。信号だけが動いている人気のない交差点で遠軽駐屯地まで2Kmという看板を見付けました。町のあちこちでポスターも見掛けるので、遠軽の人達にとって自衛隊はかなり身近な存在なのだろうと思います。

最初に乗るのは遠軽始発6時39分網走行きの4653Dで、キハ40系の2両編成でした。

夜中の4時9分発の夜行特急「オホーツク9号」を別にするとこの列車が網走方面の始発になりますが、札幌方面は8時9分発の「オホーツク2号」、普通列車に至っては8時23分発の4620Dまでないという随分とのんびりした事になっています。しかもその4620Dも白滝止まりで、普通列車で旭川や札幌に出ようとすると10時15分発の旭川行き特別快速「きたみ」まで待たなくてはなりません。

瞰望岩が朝日に照らされています。こうやって見ると物凄い断崖絶壁です。自分があんな所に立って下を覗き込んでいたのかと思うと薄ら寒くなると言うか、下の前歯が痒くなってきます。

4653Dはほとんど無人で遠軽を出ました。少し行くと左窓からぎらぎらとした陽射しが射し込み、ああこれが宮脇氏言う所の東京とは違う生まの太陽なのだなと思いました。

生田原を過ぎると列車はどんどん山の中へと分け入り、常紋トンネルを抜けます。その先には側線と信号がいくつかあり、ここが常紋信号場のようです。

8時3分、北見着。跨線橋を渡って北海道ちほく高原鉄道のホームへと向かいます。

次の列車は8時6分発置戸行き742D。たった3分間の乗り継ぎです。

8時36分発の訓子府に着いた時、列車行き違いの為に少し停まるというアナウンスがありました。ホームに出てみると、同じく列車を降りた女の人に駅名標と一緒に写真を撮って欲しいと頼まれます。

数分後、行き違いの745Dが入って来て、その女の人をはじめとして数名が写真を撮っていました。荷物が少なかったし、置戸でどこかに向かって歩いて行ったので地元の人ではないかと思いますが、鉄道車両の写真を撮る女の人を見るのは初めてです。

8時45分発の境野。国鉄時代のままの駅舎ですが、この中にはまくらぎという名前の喫茶店が入っています。

8時56分、置戸着。この列車はここまでで、次の列車まで約1時間あります。

北海道ちほく高原鉄道は国鉄/JRと同じく距離が101Km以下の切符は途中下車不可となっていて、全線に乗る僕は北見で池田行きの切符を買っていれば問題がありませんが、北見での乗り継ぎが良過ぎて買えていません。仕方がないので乗る3本の列車毎に買う事にしましたが、全線通しで¥3,410、列車毎の合計で¥3,500とほとんど変わりませんでした。

置戸の駅舎はコミュニティーセンターと一緒になっていて、不釣り合いな程に立派でした。

北海道ちほく高原鉄道は元々国鉄池北線で、'89年にJR北海道から切り離されて第3セクター転換された路線です。この転換の際には転換交付金という名前の手切れ金が国から支給されましたが、その金額は路線長によって決められていました。1Km該り3,000万円というのがその値段で、営業キロが140.0Kmもある池北線の交付金は実に42億円。ここや足寄、陸別、訓子府をはじめとする妙に立派な駅舎はそのお金を元手に造られましたが、それは正しいお金の使い方だったのだろうかと疑問を感じます。

駅前にはスーパーがあり、妙にさっぱりとした商店街が続いています。この写真ではタイミングが悪くて数字が写っていませんが、気温は4.3度。寒いですが、それほど酷くはありません。

地方都市に多いシャッター商店街ではなく、ただ単に時間が早過ぎて開いていないと思われる商店街を歩くと、やたらと凝ったデザインの電話ボックスを見付けました。多分、造った人も元々可愛くするつもりはなかったのではないかと思いますが、親鳥の眼が虚ろで怖いです。

そうこうしている内に、駅前のA-COOPおけとというスーパーが開いたので食料を仕入れます。買ったのはちらし寿司と北海道限定のリボンナポリン。それにおやつとしてバンビの絵が可愛いキャラメルと、どんな物だかよく知らずに大甞飴。

大甞飴は結構な大きさなのに粘性が高くて割る事も固くて噛み切る事も出来ず、仕方ないので全部を口に入れてモゴモゴやっていると歯に強烈に貼り付くというわりと手に負えない物でした。味自体は素朴な甘さに麦菓子のような香りが合わさってそこそこ美味しかったのですが、箱ではなくバラ売りのにしておいて良かったと思います。

次の列車は9時53分発の702D快速「銀河」。日に1往復だけ走っている快速列車で、以前この路線に乗った時はこれの逆方向でした。写真に写っているのは「銀河」ではなく、留めたままになっている北見から乗って来た車両です。

ホームの向こう側にあるのは「ふるさと銀河線友の会」に入会すると好きな駅に貼れる自分の名前入りの星形プレートですが、この手の活動もあの世知辛い個人情報保護法が施行された今、どうなって行くのかなと思います。

陸別着10時26分。「銀河」に手を振る見送りの人達がいます。半年後には見られなくなる光景ですが、もしかしたら既にかなり珍しいのかも知れません。

陸別では3時間以上も時間があるので、普通の物に比べて容量が小さいコインロッカーに無理矢理荷物を押し込んで駅前を歩きます。

多分消防団の詰所か何かだったのだと思いますが、少し歩いた所で見付けたこの建物は大きく傾いていてつっかえ棒でなんとか建物として成立しているような状態でした。周囲には人が近付かないように囲いがありますが、ここまで危険な見た目であれば誰も近寄ろうとしないと思います。

鳥居の奥には神社。1909年に建立され、名前が陸別神社になったのは1930年の事だったそうです。

ぐるっと回ってまた駅に出ました。奥に見えるやたらと大きな茶色い建物が駅舎で、道の駅と併設になっています。

がらんとした公園には銅像と蒸気機関車の動輪があったので近寄ってみます。

銘板に関寛翁之像と書かれた銅像は鍬を手に、どこかを指さしています。この時は誰だろうな程度にしか思っていませんでした。

動輪の台座には79667のナンバープレートが埋め込まれています。この番号は初の本格的な国産蒸気機関車、9600型です。横の碑文は徳富蘆花(ろか)の随筆集「みみずのたはこと」に入っている「関 寛翁」からの抜粋だそうで、網走線が淕別まで開通した頃の事が書いてあります。

池北線は元々網走線、後の網走本線として敷設された路線で、池田から野付牛(現在の北見)を経由し網走、更には斜里(現在の知床斜里)から釧路寄りに4駅目の札鶴(現在の札弦)までを結ぶ幹線でした。その最初の開通区間が池田ー淕別間で、1910年の開通当時、陸別は淕別(りくんべつ、アイヌ語で鹿がいる川、危険な川の意)という駅名でした。

網走本線はその後、1931年の釧網線、現在の釧網本線の全線開通に伴って網走から先が釧網線になり、更に'61年の路線名整理統合で北見ー網走間が石北本線となり、同時に網走本線の路線名が消滅、池田ー北見間を結ぶ池北線に格下げとなりました。

似たような話は他の所でもあり、有名な所では東海道本線と御殿場線や鹿児島本線と肥薩線がありますが、これらは格下げ前の名前が残っていて網走本線は残っていないという違いがあります。

時間があり余っているので駅に戻ってみます。駅舎が主で道の駅が併設という形のはずですが、この大きな建物の中で駅の機能を持っているのはこの二重扉と切符売り場だけのようです。

土産物屋の脇に自動券売機があったので何だろうと見てみると、銅像になっていた関寛斎資料館の入場券を売っていました。どうせ時間もあるし、という事で¥300払って奥へと進みます。

資料館は無人でモギリもいませんでしたが、関寛斎の人生を時系列順で展示していてとても興味深く見学出来ました。

関寛斎は1830年、現在の千葉県東金市に産まれ、18歳で佐倉順天堂に入門して蘭方医学を学び、1852年には東金で開業。1860年に更なる医療技術習得の為に長崎へ向かい、2年後に再び千葉へ戻って今度は銚子で開業するものの翌年には蜂須賀藩の侍医として徳島へと渡ります。1868年からの戊辰戦争中に藩主の死去もあって江戸に入り、総督府の命により奥羽出張病院頭取として平潟、小名浜、平と戦傷者の治療をして回りました。

1869年に戊辰戦争が終ると徳島藩病院を設立して病院長に就任、翌年には名を寛(ゆたか)と改めますが、1872年に辞任して同年甲府山梨県病院長に。元々の約束が1年限りだったので翌年徳島へ戻り、身分を奉還して平民となり開業、以後40年間に渡って町医者として過ごします。

転機が訪れたのは1902年。予てより北海道開拓に携わっていた四男、又一が1901年に斗満(トマム)原野開拓を始める為に陸別へと移り、翌1902年に自身も移り住んで開拓に従事、実に齢72歳での大転身でした。この移住は突然決めた事ではなく、1901年に又一が北海道札幌農学校での卒業論文として「十勝国牧場設計」を発表、その年に迎えた金婚式を機に移住を決意して家財の整理や粗食に耐える訓練に入っていました。

幾多の困難を乗り越えて牧場経営は軌道に乗り、その面積は600万坪にも及びましたが、又一との経営方針の違いや牧場の土地所有権を巡る身内の争い等の問題が噴出。これまでと別次元の問題に疲れたのか、1912年10月15日、モルヒネを使って自殺しました。82歳、国中を奔走した激動の人生でした。

資料館を出るともう正午を回ろうとしていたので、さっき歩いた時に目星を付けておいたうどん屋に向けて歩きます。

駅近くの角地に窓が抜けた妙な建物に行き当たります。角に掲げられているマークからすると農協の建物のようで、調べてみると移転した跡地でした。それにしても、建物から窓が抜けただけで一気に廃虚に見えるのは不思議です。

その先ではパチンコ屋が潰れています。過当競争がないパチンコ屋は滅多な事では潰れないと認識していますが、そこまで人口が少ないのかとも感じさせられます。

しかし景気の悪い話ばかりではありません。陸別は国内で最も冬期平均最低気温が低い場所で、-30度以下になる事もしばしばあるという過酷な環境を逆に活かし、毎年2月にしばれフェスティバルというイベントで多数の観光客を集めています。

また、'04年から夏にはWRC(世界ラリー選手権)のシリーズ戦として十勝地方でラリージャパンが開催され、陸別にもSS(スペシャルステージ)が設けられて会期中は3万人近い人が集まります。SSは足寄や新得にもあり、本拠地となる帯広との間はリエゾン(移動区間)としてWRCマシンが一般車に混じって公道を走ります。

右の茶色い建物が町役場。'05年3月末現在の陸別町の人口は3,083人ですが、それにしては異常な大きさで、その気になれば全町民がここで働けそうです。こんな物を見せられると、役人なんかいない方が世の中が良くなるような気すらしてきます。

目的地のうどん屋、夢氷は開いていました。入口の前に色々な物が雑然と、しかし不思議な秩序を保って置かれています。

ドアを開けて面喰らいました。極寒の地なのでドアが3枚あるのは良いとして、2枚目のドアを開けた所で靴を脱ぐようになっていて、完全に普通の家のように見えます。3枚目のドアの先はやはり普通の家で、台所から出て来たおばさんが居間に通してくれます。

母娘らしき2人組が先客としてテーブルにいて、台所のおばさんに娘さんが呼ばれて席を立ち、僕にお茶を持って来てくれます。客ではあるけれど親類か常連なのだろうなと思っていましたが、判らないメニューの質問をすると、私も店の人間ではないので.....と戸惑いつつ言います。面白くなって来ました。

見ていると、母娘はやはり単なる客で、おばさんに徴用されていたようです。

うどんを待っていると、おばさんがサービスですと言いながらかぼちゃのシチューを出してくれます。

かぼちゃの甘味が美味しいシチューを平らげた頃、天ぷらうどんとデザートの柿が出て来ました。地元産の野菜と山菜のみの天ぷらが乗った素朴なうどんですが、味自体もさることながら物凄く真面目に作っているのが解るうどんでした。このうどんにシチューと柿まで付いて値段が¥600とかで、こんな値段でやっていけるのか心配になります。

会計の時、おばさんに旅の人ですかと訊かれます。大荷物は駅に置いて来たのでおかしいなと思いつつ、そうですよ、札幌ドームで仕事があったので帰る前に遊んでいますと言うと、陸別に!?と驚かれます。更に、朝、店を見ていたのを上から見掛けましたよと言われ、それで旅行者だと判ったのかと納得すると同時に、地方では異物が簡単に発見されるものだなとも思います。

次の列車までまだ30分近くありますが、駅に戻ります。陸別は駅舎側に対向式ホーム、跨線橋の先に島式ホームと2本のホームがあります。

ホームの用具置き場には駅名標がありました。国鉄時代の物にしては妙に新しいし、雰囲気もちょっと違うと思って時刻表の路線図を調べてみると、幌比内、かみこいべつ、ともべ共にこの路線には存在していません。検索の結果、陸別駅で映画のロケをした時に使われた物だそうで、それにしては扱いが普通過ぎて少し混乱しました。

昔は利用客が多かったのか、跨線橋は幅が広くて立派な物です。

跨線橋の上から駅を見ると、駅舎の不釣り合いな大きさがよく判ります。今更言っても始まりませんが、これが必要最低限の規模だったらあと何年この路線は生き延びられただろうとも思います。

もしかしたら、いずれ経営が立ち行かなくなって廃線になってしまうという読みで後に残る建物だけは立派にしたのかも知れませんが、これはさすがに勘繰り過ぎです。

島式ホームには友の会のプレートがあります。中心駅らしく、他の駅よりかなり数が多いです。

ホームはかなり幅が広く、相当な人数を捌けそうです。

次に乗る13時39分発の726Dは陸別始発の池田行きで、車両には銀河鉄道999のラッピングが施されていました。

この銀河鉄道999ラッピング車は2両あります。絵柄自体は同じですが、メーテルの髪の毛の色が白と黄色という違いがあり、それぞれ999ホワイト号、999イエロー号という名前が付けられています。'04年1月に乗ったのはホワイト号だったので、これで両方に乗る事になります。

列車はあまり起伏のない地形を淡々と走り、14時53分発の高島で初めて行き違いをします。相手は701D快速「銀河」で、以前乗った列車です。

高島を出ると、真新しい道東自動車道の下をくぐります。この高速は現在十勝清水から足寄までが開通していて、将来的には北見まで延伸、更に途中の本別から分岐して釧路まで行くそうですが、沿線人口が少ない上に札幌と繋がっていない事から利用者が異常に少なく、日に2,000台程度の交通量しかないので国内最悪の赤字路線だそうです。

当然の事ながらその採算性には疑問の声が多く、全線開通をした所で維持費の捻出すら無理なのではないかとも言われていますが建設は止まらず、今も莫大な費用を注ぎ込み続けています。

なんとなく、国鉄が赤字必至の路線を作り続けていた事を思い出します。例えば、池田と釧路の間にある白糠と足寄を繋ぐ予定だった白糠線は'64年に上茶路、'72年には北進まで開通したものの、'83年には全廃され、白糠ー上茶路間が19年間、上茶路ー北進間に至ってはたったの11年間しか使われませんでした。他にも短命だったり、かなりの割合の路線が出来ていたのに開通前に工事が中止された路線は枚挙に暇がありません。

結局は政治家に票や金をもたらす物が鉄道から道路に変わっただけで、問題の本質は同じなのかもな、とも思います。

高島は池田から2駅目なので、もうすぐ終点です。沿線にも段々と人の気配が出て来ました。

前回乗った北見行きの「銀河」は帯広からの直通だったのでJR側のホームに入りましたが、この726Dは池田止まりなので北海道ちほく高原鉄道のホームに入りました。

北海道ちほく高原鉄道のホームは長いJRのホームの端を切り欠いた所で、駅舎までは結構な距離があります。

次に乗る池田始発15時11分新得行きの2552Dはキハ40系の単行で、同じホームの駅舎寄りに停まっていました。

15時41分、帯広着。次は16時22分発なので、ちょっと早いですが食事を摂ります。行ったのは駅舎の中にある桔梗。ここに行くのは2回目で、前回は豚丼と普通のそばのセットでしたが、今回はダッタンそばとのセットにしました。あまり甘味が強くない豚丼は相変わらず美味しく、遠くにほのかな苦味を感じるダッタンそばもなかなか良かったです。

帯広からは40D「とかち10号」で札幌まで行きます。「北斗星4号」に乗り継ぐので南千歳で降りても良いのですが、あの殺風景な南千歳で1時間半近くも待ちたくないし、長距離列車には始発駅から終着駅まで乗って起承転結を楽しみたいという妙なこだわりもあり、札幌まで乗ります。

19時14分、札幌着。上野行きの4レ「北斗星4号」は19時27分発なのであまり時間がありません。

札幌で時間があれば大丸の地下街でつまみを買いたい所でしたが、ちょっと無理なのでこの日のつまみは帯広で買ってありました。最初から残った分は家で食べるつもりだったので結構分量があります。ぶた丼おかきも桔梗で買いました。

この日はB開放寝台です。個室も良いのですが、なんとなく息が詰まる感じがして最近は開放に乗る事が多く、今回は最初から開放で切符を取りました。

翌11月7日、目が覚めると仙台の少し手前。車窓には松島が見えています。

この「北斗星4号」に乗るのは3回目ですが、初回以外は洞爺を過ぎた辺りで寝てしまい、23時42分着とさほど遅い時間でもない函館でもその後の青函トンネルでも寝たままで、起きると仙台というのがパターンとなっています。

仙台を出た所で食堂車へ行き、洋朝食を頼みます。これもパターン化しています。

郡山ではラッセル用のディーゼル機関車、DD14とDE15を見掛けました。その奥には最近まで仙石線で走っていた103系もいます。

11時19分、終点の上野到着。この日の牽引機はEF81 82でした。

今回は正面玄関口から出てみます。ここは元々車寄せで1階下には荷捌きがありましたが、今は変わってしまっています。あの頃の上野はホームで荷物車が走り回っていて要注意な駅だったなと思い出しつつ、出発まで3週間を切ったモスクワ行きの打ち合せへと向かいました。

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