'06年春に万世橋の交通博物館が閉館します。単純になくなるのではなく、'07年秋に大宮で開館予定の鉄道博物館に収蔵品を受け継いで発展解消します。とは言え、交通博物館がなくなる事には変わりがありません。僕にとっては子供時代に何度か足を運んだ場所でもあります。閉館まで時間がある内に見に行く事にしました。

東京駅八重洲口のみどりの窓口で「レトロ義経号」の切符を買い、その足で秋葉原へと向かいます。山手線と京浜東北線のホームからは少し前に到着した2レ「はやぶさ・富士」と、もうすぐ東京駅では見られなくなる113系が見えました。

秋葉原で降りて万世橋へ。すぐに交通博物館が見えて来ます。ここは元々万世橋駅でした。その上を中央線の201系が通り過ぎて行きます。

交通博物館は1921年に東京駅高架下で開館した鉄道博物館を前身とし、1936年に駅機能を縮小した万世橋駅の空いたスペースに移転、万世橋駅が1943年に廃止された後の1946年に交通文化博物館、1948年に交通博物館と改称、以後はその名前のまま営業を続けています。

正面に置かれた0系新幹線とD51蒸気機関車の先頭部。僕が物心ついた頃から何一つ変わっていません。

入口の案内看板。少し前にもここに来たのですが、終るのが17時と早くて入場出来ませんでした。

入場料は310円。券売機が何故か国鉄時代を思わせる雰囲気を漂わせています。

中に入ってすぐ右に土産物屋があります。記憶にはありませんが、この雰囲気からするとここも子供時代に来て以来全然変わっていなさそうです。

正面にはC57がお尻を向けています。このC57をはじめ、色々な収蔵物が大宮の鉄道博物館へと受け継がれます。

ちょうど運転時間になったので、展示を見る前に鉄道模型レイアウトを見る事にします。既に結構な人が集まっていて、一番前のベンチは満員です。僕は後の雛壇の一番上に立って見ていましたが、ここの方が全体を見渡せて見易いと思います。

運転は若い学芸員がやっていて、複雑な列車の操作と同時に解説も1人でこなします。背後から見てみるとPAと照明の操作も兼ねているようで、ただでさえ手の本数が足りなくなりそうなのにマイクがヘッドセットではなく手持ちでした。

鉄道模型の運転が終り、入口から見て右側にある特別資料展示室へと入ります。ここには閉館記念として「乗り物模型蔵出し大公開」と銘打たれた展示があり、色々な形式の機関車やキハ81系、小田急のロマンスカーといった車両の模型が飾られています。

その中でも主役扱いされていたのがこのC55。62両製造された内の20番機から40番機の21両はこの流線形で登場しました。恐ろしく洗練されたスタイルで物凄く格好良いですが、時速100Kmあるかないかの最高速度では空力上の効果も薄く、整備しにくいとの現場からの声もあって41番機からは普通の形に戻り、流線形の21両も後に普通の形に改造されました。

梅小路蒸気機関車館、小樽交通記念館、吉松駅前、大分駅近くの公園に現存していますが、これらは全て普通の形で製造された物で、流線形の物は既に改造されていた事もあって残っていません。

珍しく事業用車の模型もありました。911形ディーゼル機関車です。今では新幹線の保線作業には営業用と同じ車体に検測機器を積んだドクターイエローと呼ばれる編成を使用していますが、以前はこの機関車が無動力の検測車を牽いていました。動輪が6軸あってF級になっていますが、中身はDD51を素に作られたそうで、それでも最高時速は160Km/hも出たそうです。

鉄道車両以外の模型も展示されていて、その中にはJALカラーのコンコルドもいました。来なかった未来という物はいつでも魅力的です。

特別資料展示室を抜けると東北/上越新幹線のシミュレータや駅名が書かれた板をめくるタイプのマルス端末の展示があり、それらの中にはED40という電気機関車の模型もありました。ED40は信越本線の横川ー軽井沢間がアプト式(車輪の間にもう1つ歯車付きの車輪を装備し、レールの間に敷かれたラックレールと呼ばれるギア付きレールと噛み合わせて急勾配を登れるようにした方式。アプト式はラック式鉄道の一種)だった時代に使われていた機関車で、この模型はED40の実機を製作した鉄道院大宮工場が1920年代に造りました。内部のメカニズム等も含めてかなり実機に忠実に造られているそうです。

展示物の中にはビデオ展示もあります。流線形C55が登場するこの「鐡道信號」という教育映画は信号とポイントを中心に安全運転の仕組みを扱っていて、信号場責任者の号令の下、10人ほどずらっと並んだ操作係が号令を復唱しながら信号とポイントを切り替えていく様は鉄道というシステムの規模の大きさと複雑さを思い出させてくれます。

その昔、全国各地に馬車鉄道という物がありましたが、これは人間が押して動かす人車です。宮城県北部にある東北本線松山町駅から市街地へと伸びていた松山人車鉄道で使われていた車両を復元した物で、1922年11月の開業から1928年3月の旅客部門廃止(貨物も含めた路線廃止は1930年)までの間の約5年半働いていました。松山人車鉄道の路線長は、この写真に写っている説明板で約2.3Km、かなり詳細な記述がある個人サイトで2.51Kmとまちまちで、試しにProAtlasX2という地図ソフトの1/25,000地図で計ってみたら3Kmちょっとでした。

松山人車鉄道にはこの型の人車が4両と貨車が1両在籍していたそうで、もう1両の人車が松山町ふるさと歴史館に保存されています。また、'92年にはJR東日本の協力を仰いでレプリカが製作され、毎年9月に松山町御本丸公園コスモス園で行われるコスモスまつりの会期中、アトラクションとして運転されているそうです。

国有鉄道の名称と管轄官庁の変遷。国鉄というのは戦後になってからGHQの指示によって1949年に設立された公共企業体で、それ以前は鉄道省や鉄道院といった政府直轄の組織でした。

人車の近くには模型を中心とした万世橋駅のコーナーがあります。模型は駅舎は1912年開業時の初代の物で、規模こそ小さいものの東京駅丸の内口のような立派な駅舎です。しかし東京駅の開業は1914年12月で、6年半の工期が掛かっているので万世橋駅舎を手本にしたとかいう事ではなく、同時に工事を進めていたようです。もしかしたら東京駅舎建設の実践テスト的な意味合いはあったのかも知れません。

プラットホーム下のレンガ造りのアーチは現在と同じ形をしているので、多分開業時のままなのでしょう。ここに限らず首都圏の鉄道施設は古い物が多く、東海道本線に乗っているとトラス構造の架線柱が数多く使われていたりで驚かされる事もしばしばです。

万世橋駅の略歴。子供の頃、中央線に廃止になった駅があるという事をコロタン文庫か何かで読み、電車で駅跡を通る時に注意して見ていて眼に入った苔むしたホームが妙に怖かった事を覚えています。

自動販売機コーナーで一休みして、ようやくエントランスホールへ。ここには交通博物館の主役格のC57 135と9850形9856がいます。

9850形は1913年にドイツのヘンシェル&ゾーン車から12両購入した蒸気機関車で、マレー式と呼ばれる構造を最大の特徴としています。軸配置はC-C、3つの動輪軸が2組あり、シリンダーが各々にあります。6つの動輪軸を車体に固定してしまうと曲線通過時に線路を破壊する恐れがあるので、前シリンダー側の3軸に関節があり、線路に対しての負荷を軽減しています。ボイラーで作られた蒸気は最初に後のシリンダーに送られ、その排気で前のシリンダーも動かします。これを複式蒸気機関と言い、複式蒸気機関でC-C軸配置の機関車をマレー式と呼ぶそうです。

マレー式は動輪軸が多くて勾配に強いので東海道本線の国府津ー沼津間(丹那トンネル開通前、現在の御殿場線)や信越本線の長野ー直江津間で使用されていましたが、構造の複雑さから来る整備の難しさや線路への影響が災いし、9600形他の国産機関車に活躍の場を譲って1930年には全機廃車となりました。この9856は1924年に廃車になり、内部構造が見えるように車体左側の各部を加工された上で鉄道博物館に展示される事になりました。1925年に全国で一斉に行われた連結器交換の前年に廃車されたので、連結器は自動連結器ではなくてねじ式のままです。

上記の通り、車体左側はカットされて内部構造が見えるようになっています。ボイラーで発生した蒸気がどう移動していたかを眼で追いかけるのが楽しく、結構長時間この機関車の横で過ごしました。貴重な機関車をこんな姿にしてしまったのは勿体なくもありますが、展示自体は非常に有意義です。

C57 135は'75年12月14日、蒸気機関車牽引の列車としては国鉄最後の定期旅客列車となった室蘭発岩見沢行225レを牽いた機関車です。貨物列車の最終列車は同月24日のD51 241牽引の夕張発追分行6788レ、構内入れ替え用の機関車としては翌'76年3月2日、追分機関区の9600形が最後だったそうです。

C57と9850形の奥には1872年に新橋ー横浜(現在の桜木町)間で国内初の鉄道が開業した際に使われていた1号機関車がいます。1号機関車は1871年にイギリスのバルカン・ファウンドリ社で製造された軸配置1-Bの機関車で、鉄道開業時に輸入された5形式10両の内の1両(1号機関車の形式はこの1両のみ)でした。その中で一番早く日本に着いたので1号と命名され、その後名前をE形、A1形、150形と変更されます。

1880年から関西地区に活躍の場を移し、1911年に島原鉄道が開業すると島原鉄道に譲渡されましたが、非常に大切に扱われたそうです。約20年間島原鉄道で働いた後、1930年に保存の為に600形機関車との交換という形で鉄道省に戻り、1936年に鉄道博物館が万世橋に移転すると同時に展示されて今に至ります。

車体側面の製造銘板。逆側には島原鉄道を離れる際に取り付けられた「惜別感無量」のプレートもあります。横にある説明板によると、1号機関車の塗装に関しては絶対的な資料がないらしく、一番古くて信頼度がある1910年の鉄道院規定に基づいているそうです。また、阿川弘之氏作の絵本「きかんしゃやえもん」のモチーフになった機関車でもあるので、その説明板もあります。

1号機関車と同時に輸入された機関車は他にも数両が保存されていますが、恐ろしい事に鉄道開業2年後の1874年に輸入された23号機関車(後のB形/A7形/160形、間の数字が飛んでいますが国内12番目の機関車)は動態保存され、今でも愛知県犬山市の明治村で1912年製のもう1台の機関車と半月交代で列車を牽いています。さすがに車齢が110年を超えた'85年にはボイラーを新製して載せ代えていますが、それでも130年以上も前に造られた機関車が今でも走っているというのは驚異的です。それらの古典機に牽かれる客車も1908年製と1912年製だそうで、これは一度行かないとならない場所だと思います。

1階の奥の方には205系や211系の前頭部があり、中にシミュレータが仕込まれた物もあります。それらの中で異彩を放っているのが修学旅行用電車の167系の前頭部モックアップ。修学旅行用電車は155系/159系という153系急行形電車を基にした物があり、167系はそれらに続いて165系急行形電車を基に造られました。2列+3列の固定クロスシートをはじめとして色々と特殊な設計だった155系と違い、159系と167系は通常の列車に使う事も考慮して基になった形式に近い設計だったそうです。

模型のコーナーにあったスイテ37040。戦前の特急「富士(初代、現在の「富士」は3代目)」用に1938年に製造された1等展望車で、1941に称号規定改正でスイテ49、'53年に冷房改造を受けて車重が重くなってマイテ49、'60年に1等車廃止でマロテ49と形式名を変え、'64年に廃車されて大阪の交通科学館で保存されていました。しかし'87年にマイテ49として現役復帰、現在でもたまに「SLやまぐち号」に繋がれています。

20系客車の座席車、ナハフ20。20系と言うと寝台列車用の形式というイメージが強いですが、当初は座席車もありました。僕が物心ついた頃には既に寝台のみになっていましたが、その後急行列車用にA寝台車をクロスシートの座席車に改造した形式も登場したそうです。

階段を登って2階へと行きます。手摺を滑る子供が多いのか、後付けで突起が付けられていました。

ここは交通博物館なので、鉄道以外にも色々とあり、2階には自動車と船が展示されています。

2階に上がって最初に眼に入るのがスバル360。これは'58年から12年間に渡って44万台以上が製造された中で最初期型に該る'58年前期形で、この型は65台しか造られなかったそうです。

その昔、僕の実家の車はこのスバル360を基にしたサンバーで、'80年頃に買い替えるまで乗っていました。その当時でもかなりの旧型で、前列のドアが逆方向に開いたり三角窓が回転して開いたりと色々と特殊な車でしたが、デザインはシンプルでとても良かったです。スバルの公式サイト他で調べてみると'66年〜'69年製のニューサンバーライトバンだったようで、それを基に父親に訊くと、'68年〜'69年製だったようです。

現役で走っていた頃の書き文字が残ったままのマツダオート三輪。荷台の前寄りに四角で囲まれた自家用のマークがありますが、そう言えばこれも最近見掛けなくなりました。

C57と9850の上は吹き抜けになっているので、この角度から眺められます。子供の頃、父親のオリンパスペンを借りて同じアングルの写真を撮った覚えがあります。

同じ吹き抜けを逆から。入口側から奥を見る形になります。僕がいる場所の大体真下辺りに売店があります。

1930年12月に岡崎ー多治見間で営業を開始した国鉄バス第1号車。7台あった内の唯一現存する1台で、同時に現存する中で最古の国産バスでもあります。メーカーは東京瓦斯電気工業、現在のいすゞ自動車で、走っていたのは1937年3月までのたった6年ちょっとの間だったそうです。

国鉄バスと言っても当時は鉄道省管轄だったので当時の呼び名は省営乗合自動車で、ラジエータグリル前に掲げられたマークも鉄道省の動輪マークです。その下にはエンジン始動用のクランクロッドを挿し込む穴が見えたり、タイヤの耐久性に問題があったのかスペアタイヤを2本も積んでいたりと、全体のデザイン以外の細かい所にも色々と見所があります。

2階は自動車と船のフロアなので、色々な船の模型や部品、灯台のレンズ等も展示されています。その中で一番眼を惹かれたのが南極観測船「ふじ」と「しらせ」の模型。「しらせ」が現役の3代目、「ふじ」が先代の2代目で、調べてみて初めて知りましたが、一般には南極観測船と呼ばれるこれらは実は自衛隊所属の砕氷艦という艦種だそうで、乗組員も海上自衛官なのだそうです。

ただ、初代南極観測船「宗谷」だけは海上自衛隊所属ではなく、海上保安庁所属の砕氷船でした。が、この船は元々ソ連から耐氷型貨物船として発注されたのを開戦が近いという事で引き渡さずに商船として使い、戦時中は海軍に徴用されて特務艦として北洋、南洋、果てはミッドウェー海戦にまで出向き、戦後南極観測船として改装されるという数奇な運命を辿った船で、現在は台場の船の科学館で永久保存されています。

2階からは休憩室や売店がある別館への通路があり、その先から屋外展示場へ出られます。

屋外展示場には3両の車両があり、その先頭はイギリスのマニング・ウォードル社が1881年製造、鉄道局が同年に輸入した善光号です。鉄道局が輸入はしましたが、私鉄の日本鉄道へと譲渡され、上野ー高崎間の路線敷設工事に使用されていました。政府管轄の鉄道局が輸入した機関車を私鉄に譲渡するというのは妙な話ではありますが、設立当初の日本鉄道は私鉄と言っても民間がお金を出して鉄道局が路線敷設や運営を行うという半官半民体制だったようで、独立して業務を行うようになったのは1882年だったそうです。

善光号は先輪/従輪なしのC形機関車で、シリンダーが車輪の内側にあったり水タンクがボイラーの上にあったりと色々と特殊な構造をしています。その珍しさから1923年に廃車されてからは池袋の東京鉄道教習所に保管され、1942年から交通博物館に展示されるようになりました。

屋外展示場の通路は車両のすぐ横で、引きが取れなくてカメラに収まらないので、この写真は入館前に撮りました。

善光号の後には1880年にアメリカのH.K.ポーター社で製造され、同年に輸入された弁慶号がいます。働いていたのは北海道で最初の鉄道、幌内鉄道で、その開業に合わせて輸入された弁慶号は幌内から札幌を経由して小樽の手宮までの間で主に石炭輸送をしていました。先頭部のカウキャッチャー、途中が太くなったダイヤモンドスタックと呼ばれる形の煙突、大きなベルとアメリカ製機関車の特徴が随所にあります。また、イギリス式のねじ式連結器を装備した本州の鉄道車両と違って、アメリカ式の握り拳形の自動連結器も装備しています。

弁慶号の後には同じく1880年にアメリカのハーラン&ホリングスワース社で製造された開拓使号客車がいます。こちらもやはり幌内鉄道所属で、同時に上等車2両、上等/荷物合造車2両、中等車3両も輸入されましたが、開拓使号のみが最上等車でした。座席は転換式クロスシートで、水洗式の洋式便所まであったそうです。

本館へ戻り、3階に上がります。3階は飛行機と未来の交通機関が主な展示物で、吹き抜け部分には'52年に輸入された初期の民間ヘリコプター、ベル47 D-1が吊り下げられています。所属は日本ヘリコプター輸送で、この会社は後に極東航空と合併し、全日本空輸、ANAへとなります。

このヘリコプターに付いているロゴは日本ヘリコプター輸送の物ですが、全日空の旧ロゴとは外周部の文字が違うだけです。また、内側に描かれているのはレオナルド・ダ・ヴィンチ考案のヘリコプターで、扱うのは固定翼機がほとんどの全日空になってもそのままでした。

個人的にはこのロゴを見るとロッキードの3発機、トライスターを思い出します。胴体の上、垂直尾翼前面にエンジンが1基埋め込まれていて、そこから胴体後部の排気口への斜めになった曲面が綺麗な飛行機でした。

未来の交通コーナーには当然リニアモーターカーの展示もあります。模型だけでなく、現在JR東海が山梨で行っているテストを題材にした記録映画も上映されていました。

このリニアモーターカーは宮崎県日向市の実験線で走っていた物ですが、現在その実験線跡地は東北大学の流体科学研究所小濱研究室が地面効果を利用したエアロトレインの実験に使っているそうです。

入館したのは11時少し前でしたが、たっぷり時間を掛けて見て回ったら退館は15時半少し前でした。すっかり傾いた陽射しが入口の0系とD51を照らしています。

大宮に作られる鉄道博物館は規模も大幅に大きくなり、交通博物館から移設される物以外にもナハネフ22の実車をはじめとして色々と楽しみな展示もあります。しかし、鉄道に焦点を絞った結果、それ以外の自動車、船、飛行機といった収蔵物がどうなるかはまだ不透明なままです。また、万世橋駅の遺構も含めた跡地もどうなるかまだ判りません。鉄道博物館の開館を楽しみに待ちつつ、こちらにも眼を配っていようと思います。

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