直接ではないものの、万博と絡んだ仕事が名古屋であり、夜のパーティ現場だったのでその日は名古屋に泊まって翌日がぽっかりと空きました。そのまま帰っても面白くないのでどこかを回ろうとは思っていましたが、忙しさにかまけてこれといった案もないまま名古屋入りし、仕事に没頭していました。

駅 名
時 刻
列 車
線区名
08:00発
 
名古屋市交通局
東山線
名古屋
08:06着
近鉄名古屋
08:21発
 
近畿日本鉄道
近鉄名古屋線
桑名
08:42着
桑名ー西桑名間徒歩移動
西桑名
09:16発
 
三岐鉄道
北勢線
阿下喜
10:11着
10:39発
 
西桑名
11:29着
西桑名ー桑名間徒歩移動
桑名
11:42発
 
近畿日本鉄道
近鉄名古屋線
近鉄四日市
11:54着
12:30発
 
近畿日本鉄道
内部線
内部
12:46着
13:05発
 
近鉄四日市
13:22着
13:39発
 
近畿日本鉄道
近鉄名古屋線
伊勢中川
13:09着
13:10発
近畿日本鉄道
山田線
宇治山田
13:33着
13:34発
近畿日本鉄道
鳥羽線
鳥羽
14:45着
鳥羽ー鳥羽FT間徒歩移動
鳥羽FT
17:30発
 
伊勢湾フェリー
常滑FT
19:09着
常滑FTーりんくう常滑間徒歩移動
りんくう常滑
19:37発
8073E
急行
名古屋鉄道
空港線
常滑
19:39着
20:02発
507
特急
名古屋鉄道
常滑線
神宮前
20:28着
20:29発
名古屋鉄道
名古屋本線
金山
20:31着
20:32発
205
特急
名鉄名古屋
20:36着
名古屋
21:49発
32A
のぞみ32号
東海道新幹線
東京
23:29着

紀伊半島方面もうっすらと脳裏にありましたが、結局一番お手軽な名古屋近郊のナローゲージ線に乗りに行く事にしました。ただ、その後の事は何も考えていなくて、全てその場の気分で決めました。上の表でFTとあるのはフェリーターミナルの略です。

前夜はかなり遅くまで中華料理屋で呑んでいたにもかかわらず、きちんと目を覚まして栄のホテルを出ます。この時点で僕が解っている事は下記の4点のみです。
 1. 目当てのナローゲージ線は2路線(+枝線が1路線)あり、桑名と四日市から出ている
 2. JRでも行けるけれど、近鉄に乗ると楽に行けそうだ
 3. 伊勢湾の西岸には名鉄は走っていなさそうだ
 4. 列車を1本逃すと1時間待ちとかではなく、それなりの頻度で走っているらしい
甚だ頼りない限りのあやふやな情報ですが、なんとかなるだろうとこれ以上の事は調べませんでした。

栄の駅には¥200区間専用の自動券売機がありました。以前はどこでもこの手の券売機を見掛けましたが、考えてみると最近見ていないような気がします。

名古屋駅でコインロッカーに荷物を入れて近鉄のホームへと向かいます。改札を入ると特急用の車両が停まっていました。今もそう呼ばれているかは知りませんが、近鉄の特急と言えばビスタカーという名前、というのは子供の頃に刷り込まれました。

不思議な事に、その子供の頃に写真で見た車両と、今眼の前にいる車両が同じ顔に見えます。多分新型になっているのでしょうが、顔も色も昔のままに思えて仕方ありません。

左に目を移すとビスタカーならではの2階建て車両も繋がっています。

考えてみると、近鉄に乗るのはこれが3回目です。しかも前回は、上本町の都ホテルでの現場の仕込み中に足りない物があり、それを調達しに隣の日本橋まで往復しただけで、それが僕にとっての1回目と2回目でした。なので今日が実質的に初めてになります。

ビスタカーに気を取られていましたが、僕がこれから乗るのは急行の宇治山田行きです。ホームには荷物を上の階から降ろす為にあるらしいシュートがありました。その下には天面がローラーになった台車もあり、今でも現役の施設のようでした。

ドアの隙間からちょっとだけ見えていますが、この車両はロングシートではあるものの、各席にしっかりとしたヘッドレストが付いています。何故だろうと思って見てみると、どうも基本的には回転クロスシートで、ロングシートの向きでの固定も出来るようになっているようでした。関西圏の私鉄は競争が激しいので乗客へのサービスが良いというのは広く知られた話ですが、こんな工夫までしているとは知りませんでした。これを見てしまうと、首都圏はJRも私鉄も楽をしていると思えてしまいます。

8時21分に近鉄名古屋を発車。ほとんど寝ていない割にはまだ眠くなってはいませんが、寝てしまうと全く土地勘ゼロの場所に連れて行かれてしまうので緊張して起きています。

桑名着は8時42分。無事に降りられました。向かいのホームには2両編成の列車がいて、大手と呼ばれる近鉄も東京の私鉄とは違う事を感じさせられます。

よくよく見てみると、僕が乗って来た宇治山田行きの急行は2種類の車両が繋がっているようでした。上手く行く訳ないと思いつつも流し撮りに挑戦してみましたが、珍しく今回は綺麗に撮れました。

桑名駅はJR東海の駅と一緒になっていました。目当ての三岐(さんぎ)鉄道北勢線を指し示す看板に従って歩くと、細長い歩道橋に出ます。

上の写真と同じ場所で前を見ると、何やらいい風情のホームが見えます。

その昔、北勢線の始発駅は西桑名ではなく桑名京橋という駅だったそうで、この写真の左側に向かってぐいっと90度方向を変え、0.7Km先まで走っていたそうです。西桑名ー桑名京橋間は'61年に廃止されましたが、当時の西桑名はここにはなく、'77年に移転されるまではあと100m程線路が長かったそうです。

歩道橋から降りて駅舎へと行くと、真新しい看板が眼に飛び込んできました。

北勢線は現在、三岐鉄道が走らせていますが、元々は近鉄の一路線でした。開業は1914年で、当時は北勢軽便鉄道という会社でした。その後、合併や組織改編により三重交通、三重電気鉄道と名前が変わり、'65年に近鉄が三重電気鉄道を合併、近鉄北勢線となりましたが、自動車の普及や少子化で赤字がに歯止めが掛からず、'02年4月に廃止届が出されました。

赤字とは言うもののかなり乗客が多く、北勢線に乗っていた人がみんなバスや乗用車で移動すると渋滞が酷くなる事は明白な上に主な乗客である学生や老人の利便性も落ちるため、沿線自治体と県が最短でも'12年までの10年間は補助金を出す等の条件のもと、三岐鉄道の協力を仰いで存続する事となったそうです。

三岐鉄道は桑名と四日市の間にある富田から西藤原までを結ぶ三岐線のみを運営していましたが、'03年4月のこの事業譲受により2路線を持つ事になりました。小さな会社ですが、'01年には開業70周年を記念して西藤原駅に蒸気、ディーゼル、電気各1両の機関車を展示してウィステリア鉄道という名の鉄道公園を開園、更に'03年には貨車を文化財として保存する意義を訴えた個人に協力して丹生川(にゅうかわ)駅横に敷地を提供、国内唯一の貨車専門博物館である貨物鉄道博物館を開館するなど鉄道を単なる事業としてではなく、文化の一つとして捉えているのがよく解ります。

駅構内には遠足に行くらしい幼稚園児が沢山いました。次の列車はホームに入っていますが、途中の東員止まりで終点の阿下喜(あげき)行きはその次でした。

時間が空いたので朝食を探しがてら駅前をぶらぶらし、駅前ロータリー中央の「鋳物の町 くわな」と書かれた看板を眺めたりしている内に列車の時間が近付いて来ます。結局これといった店がなくて空腹のまま駅へと向かいます。

駅と隣のマンションの間に細い路地があり、そこを抜けると線路端に出ました。少し待つと折り返しで阿下喜行きになる列車がやって来ました。

真新しい自動改札機を通ってホームに出ると、黄色い3両編成の列車が乗客を待っていました。まるで腕を上に伸ばして撮ったようなアングルの写真ですが、普通に構えて撮っています。奥にいる運転士さんと見比べてもらうと判ると思いますが、とても車両が小さいのです。

国内の鉄道は国鉄/JRをはじめとする多くの会社で軌間(レールの間隔)1067mmの狭軌を採用していて、その次に多いのが新幹線や私鉄で使われている1435mmの標準軌、他にも何種類もありますが、どれも1067mmより広い軌間になっています。

上記以外の軌間1000mm未満の路線はナローゲージ線とも軽便線とも特殊狭軌線とも呼ばれ、軌間が狭いので輸送力やスピードを犠牲にするものの、敷設が楽で安価、営業認可も取り易かった(一口に鉄道と言っても法律上は色々な種別に別れているのだそうです)事もあって全国で開業し、一時は300路線もあったそうです。しかし、道路網の発達もあってそのほとんどは1930年代に淘汰され、逆に条件の良い所を通っていた路線の数多くは国に買収された物も含め、より広い軌間に改軌されました。

ナローゲージ線の中でも色々な種類があり、軌間が広い物で900mm台、狭い物だと600mm台までありましたが、その中で最もポピュラーだったのが標準軌の約半分の762mmで、今日乗る2路線もこの軌間です。保存運転や遊技施設扱いの物を除くと、国内で営業運転されているナローゲージ線は今日の2+1路線と黒部峡谷鉄道だけですが、黒部峡谷鉄道は冬季運休になるので、年間通して毎日走っているのは今日の2路線のみとなります。

味も素っ気もない切妻の逆側と違い、こちら側の先頭車は折妻でそこそこ愛嬌がある顔ですが、前面窓周りの黒い塗装は似合っていないと思います。

車体が小さいので当然車内も狭くなっています。先頭の車両は遠足の幼稚園児で貸し切り状態になっていて、そこから溢れた子達が2両目にも乗っています。

この車両にはクーラーがなく、あちこちの窓が開け放たれています。ドアの脇には団扇も置かれていました。

列車は賑やかな幼稚園児達の声と共に9時16分に西桑名を出ました。発車してすぐに登り坂に差し掛かり、JRと近鉄の線路をまとめて跨ぎます。この写真は手前にフォーカスが来てしまったので判り辛いですが、あの上を通って大丈夫なのだろうかと不安になる程に細くて頼りない鉄橋でした。

9時33分発の七和で擦れ違った列車は黄色一色のとは違う色でした。後に判りましたが、これは近鉄時代の色のようです。

9時40分発の東員を過ぎた所で見掛けた丸妻の車両。なかなか良い形です。写真のタイムスタンプは9時45分となっていて、次の停車駅の大泉は9時47分発なので、これは一体どこで撮った写真なのだろうと調べてみたら、以前は東員と大泉の間に北大社(きたおおやしろ)という駅があり、そこに併設された車両区に停まっていた車両のようです。

三岐鉄道傘下に入ってからの北勢線は駅の開業と廃止が相次いでいて、'04年4月に大泉が開業、同時に大泉東、長宮、六石が廃止、'05年3月には星川と東員が開業、同時に北大社、六把野(ろっぱの)、坂井橋が廃止となっています。

確かに車内から見ていても、自動改札機や真新しい駅舎があちこちの駅で眼に入り、攻めの経営をしているのが見て取れます。しかし、自治体からの補助金給付が'12年までで区切られているという事は、裏を返せばその先の保証は何もないという事で、それまでの間に黒字基調に転換しなければという三岐鉄道の焦りのような物も同時に感じられます。

9時57分発の楚原(そはら)で列車行き合いの為に数分間停車。ホームに出てみます。

連結部を覗いてみると、1両目と2両目の間は棒状の連結器で繋がっているだけでしたが、2両目と3両目の間には台車が見えて、これを見て初めてこの車両が連接車である事を知りました。台車が床下の大部分を占めているので、本来は床下の袖部分にあるはずの空気管や信号ケーブルが高い位置にあります。

ほどなく対向列車がやって来ました。

ホームで待っている間、何故こんなにパンタグラフが大きいのだろうと不思議に思っていましたが、よくよく考えてみると踏切を渡る車の為に車両の大きさとは無関係に架線の高さはある程度以上必要で、車高が低い分パンタグラフを大きくする必要があるのではないかと思います。

最後の数駅は山あいに入り、急勾配を一気に登って少し行くとまた下り、その先が終着の阿下喜でした。

阿下喜着は10時11分。ここでも工事が行われていて、ここの列車なら3編成位停まれそうな物凄く長いホームを造っています。

阿下喜は元々有人駅だったようで、駅舎には出札窓口他の駅の舞台装置が一揃いありましたが、今は閉じられた窓口に地元の人が詠んだと思しき川柳の短冊が貼られています。

ここからの戻りは乗って来たのと同じ編成の折り返しに乗りますが、発車までに約30分間の空き時間があります。駅を出ると、道が左右に伸びています。まずは駅から見て左側に少し歩き、引き返して右側へとまた歩きます。駅からすぐの所に「三重県で一番安い! 250円弁当」という赤いノボリを立てたホクセイショッピングというスーパーがあったので入ってみます。

看板にボウリングのピンが立っているあたりからして、ただ単にスーパーだけではないのではと期待して入りましたが、予想通り食事コーナーがありました。この店で煮込んでいるというのが売りの勢々チャーシュー麺をすすりながら、もしかしたら三重県に入ったのは今日が初めてではないかとぼんやり考えます。そうであれそうでなかれ、いずれにせよ足を踏み入れた事がない都道府県は和歌山県と四国4県の5県という事になります。

戻りの列車は10時39分発。降りた時は気付きませんでしたが、駅の脇には小さな転車台やミニ電車がいました。ここにいるのはこれだけではなく、下工弁慶号という北勢線と同じ762mm軌間の蒸気機関車を山口県下松市から借りているそうです。

西桑名に11時29分に着き、次のナローゲージ線は近鉄四日市から出ているので、また近鉄で南下します。乗ったのは桑名発11時42分の急行宇治山田行きで、ちゃんとした転換クロスシートの車両がやって来ました。

近鉄四日市へはたったの12分で着きました。見るからに後付けの行先表示器が良い感じです。

これから乗る近鉄内部(うつべ)線は始発駅の駅名こそ近鉄四日市で本線と同じ名前ですが、改札は別になっていて、高架下の空きスペースに間借りをしているようなホームでした。僕が改札を通ると同時に列車が出て行きましたが、乗ろうとしている内部行きではなかったので問題はありませんでした。

少し待つと、内部行きの列車が入って来ました。さっき出て行った列車とは違って派手なラッピング広告を身に纏っています。北勢線と同じく3両編成ですが、連接車ではなく普通の台車でした。2両目だけが少し大きくて編成が不揃いなのが面白いです。

前後の2両のシートは運転台に向いて固定されていて、中間車はロングシートです。僕が座ったのは運転台のすぐ後、ドアとの間に1列だけある席で、正面が見えるまさに特等席でした。こうやって車内を見ると、もしかしたらバスより狭いのかも知れないと思えます。

近鉄四日市から2駅目の日永からは八王子線という枝線が出ています。日永の次はもう終点の西日野で、たった1.5Kmしかない路線ですが、元々はその先に室山、伊勢八王子と2つの駅がありました。'74年7月に集中豪雨の被害に遭って全線が運休となり、'76年4月に日永から西日野までが運行を再開しましたが、同時に西日野から伊勢八王子の間は廃止となり、今は線名にその名残を残すのみとなっています。

北勢線と同じく、内部線と八王子線も元々は近鉄の路線ではなく、八王子線が1912年の8月、内部線が同年10月に三重軌道によって開業し、その後三重鉄道、三重交通、三重電気鉄道と事業主が変わった後に'65年に近鉄に合併され、今に至ります。

途中の駅で行き合った列車を見て驚きました。開閉可能な窓の上に小さな固定窓があるバス窓と呼ばれる形になっています。かなり古い型のディーゼルカーで見られた形ですが、電車ではあまり見掛けません。また、ウインドウシルと呼ばれる窓の下の補強材もあり、これもかなり古い時代の造りです。

最後に山あいに入った北勢線と違い、内部線は最後まで都市近郊の風景の中を走って12時46分に内部に着きます。僕が乗っていた列車の2両目にはウインドウシルと共に窓の上に入ったウインドウヘッダもありました。

内部まで来たはいいものの、この先の事を決めていませんでした。さてどこに行こうかと考えている内に吉田戦車氏の「吉田電車」に出て来た伊勢うどんを食べたくなり、とりあえず鳥羽までの乗車券を買います。

13時5分発の折り返しまでの間は線路の終端を見たりして過ごし、駅へと戻ります。運用の都合があるのか、乗って来た編成は側線に引き揚げられて1両目が薄紫色、3両目がオレンジがかった黄色の編成が停まっていました。

駅長さんが改札で地元のおばさん達に久し振りじゃないの、と声を掛けているのが聞こえます。その後ホームにある花壇の前で駅長さんが育てた花の事を話しているのを眺めながら、これはもしかして鉄道の原風景の一種なのかも知れないと考えていました。

日永では八王子線に乗り換えるおばあさん達が何人か降りました。ここのホームは分岐点にあるので、それに合わせてY字型になっています。

近鉄四日市の切符売り場で特急券を買ってホームへと上がります。やって来た賢島行き特急はビスタカーの顔をしていましたが、2階建て車両は付いていませんでした。

近鉄四日市発は13時39分、鳥羽着は14時45分なので、約1時間で鳥羽に着きます。内部から鳥羽までの乗車券と近鉄四日市から鳥羽までの特急券は同じ金額でした。

14時ちょうど発の津にて。津は国内で一番短い駅名として有名な駅ですが、元国鉄伊勢線、現在は第3セクターの伊勢鉄道の終点駅でもあります。伊勢線の開業は'73年9月で、当時から亀山を経由しないバイパス線として特急「くろしお」や急行「紀州」が走っていましたが、市街地から離れた場所に敷かれた路線のため、沿線人口が少なく、開通してからたったの13年半後の'87年3月に第3セクター転換されました。

転換後も普通列車の乗客が少ないのは変わっていませんが、JR東海から直通する特急「ワイドビュー南紀」や快速「みえ」に乗った通過客が非常に多く、その運賃収入で会社の経営は黒字だそうです。当然の事ながら、並走する近鉄との競合が激しいようで、JRのホームには近鉄のホームから見えるように「JR快速みえが便利!! 津〜名古屋間1,230円」と書かれた看板が掲げられていました。

また、鈴鹿サーキットへの最寄り駅である鈴鹿サーキット稲生があるので、F1鈴鹿GPや鈴鹿8時間耐久レースの時には物凄い混雑をするようです(MotoGPの鈴鹿開催は'03年までで、以降はツインリンクもてぎでの開催になっています)。調べれば調べるほど、都市部に近く盲腸線でもなく観光資源もあるこの路線が何故第3セクター転換される必要があったのか不思議に思えてきます。

デッキに人が出入りする度に、僕が座った席からは何か不思議な物が見えて気になっていました。トイレに立った時に見てみたら、ドアの横に洗面器がありました。

特急の車中で鳥羽から先をどうするか考えていましたが、もし知多半島へ渡る船があればそれに乗り、伊勢湾を一周しようと決めました。定刻に鳥羽に着き、まずは駅前の観光案内所で船の有無を訊くと、17時半最終のフェリーがあったので、それまでは鳥羽にいる事にしました。

鳥羽まで来た目的は伊勢うどんだけではなく、鳥羽水族館もその1つでした。駅から水族館までは歩いて10分程度で、沿道にはミキモト真珠島への橋があったりと、この辺りならではの物が見えて楽しいです。

お腹も空いているし、早く伊勢うどんにありつきたいと思いながら歩いていると、パールタウンという建物の中にむらやまという店があり、伊勢うどんの貼り紙があったので入ります。時間帯のせいか客は僕だけで、厨房の人達は自分達の賄いを作りながらうどんを作っていました。

正直な所、ちょっとうらぶれた店の雰囲気もあってあまり期待していなかったのですが、運ばれて来たうどんをかき混ぜ、一口すすって驚きました。讃岐うどんで生醤油うどんというのがありますが、あれの麺が温かくてもっと甘味が強い物という感じで、みたらし団子に近い方向を向いた味でありながらずっと上品な甘さでした。

そして麺も独特な物で、普通はうどんというと表面は柔らかくて中心はコシがあるか、さもなければ立ち食いでよくある面白味のない食感の物になりますが、これはそのどちらにも属さない外から中まで均一なふんわりとした食感でした。だからといって伸びているとかではなく、ふかふか過ぎて歯応えがない訳でもありません。タレとの相性も絶妙でとにかく美味しくて、夢中になって一気に食べ切ってしまいました。時々こういう衝撃を受ける食べ物に行き当たるのも地物を食べる楽しみです。

伊勢うどんに大満足し、また歩き出します。鳥羽水族館はすぐ横でした。

ここは色々な物が海岸線沿いにあり、海側から鳥羽水族館、国道42号線、近鉄鳥羽線、鳥羽小学校と折り重なるように並んでいます。この先には鳥羽の隣駅である中之郷があり、この駅が鳥羽水族館の最寄り駅になりますが、特急は停まりません。

¥2,400という予想しなかった高さの入場料に驚きつつも中に入ると、ウミガメがゆらっと泳いでいました。水族館というのは暗い上に水で光が屈曲する事もあり、写真を撮る上で非常に条件が悪いのであれこれ試しつつ展示を見て回ります。

館内は「極地の海」「古代の海」といった形でテーマ分けされた部屋がいくつもあり、同じ分類の動植物が一度に見られるようになっています。このイルカのような生物は「伊勢志摩の海・日本の海」にいたスナメリ。繁殖に成功したのはここが世界初なのだそうです。

「ジャングルワールド」ではピラルクと人間がじっと見詰め合っていました。飽きてしまったのか、少しの後にピラルクはすうっといなくなってしまいました。

同じく「ジャングルワールド」のアフリカマナティー。たまに呼吸をしに水面まで浮かび上がる以外は、底に沈んでじっとしているだけでした。

近鉄の列車が通る音がたまに聞こえる「パフォーマンススタジアム」ではアシカのショーが日に6回あります。アシカ達も多芸ですが、このお兄さんもアシカの所に正確なコントロールで輪を投げたり、2頭に対して片手で同時に餌を投げたりと只者ではありませんでした。お兄さんが足許を滑らせて転んでしまい、腰の餌箱から餌をぶちまけてしまった時に、アシカ達が素早く寄って行って抜け目なく餌をかすめ取っていたのはさすがでした。

「海獣の王国」は外から見えるようになっていて、何頭ものアザラシやオットセイが元気に泳いでいました。その中でこのアザラシは周りに構わず熟睡しています。

ここの水槽は横からも見られるようになっていて、後で見に行ったらアザラシが1頭、こちらに向かって何度も猛スピードで泳いで来て眼の前で方向転換をしていました。あれはわざとやっていると思います。

多分に反則気味と言うか、怪しい雰囲気のギャラリー展示の告知ポスター。展示はパネルやビデオ、実際に使われた器具等で構成されていて、なかなか興味深い内容でした。

「体験学習教室アクア」には展示があり、レストランを模した机の上には代表的な動物が年間に食べる餌の値段が伝票に書かれてありました。それによると、アフリカマナティは2頭で¥360万、ラッコは4頭で¥1,100万ととんでもない金額になっていました。1頭該りの金額ではマナティが¥180万、ラッコが¥275万と身体の大きさに見合わずラッコが高いですが、伝票に書かれた品目によると高価な海産物を食べるラッコに対してマナティは野菜ばかりなのが理由のようでした。

フェリーは17時半出港なのでもう少し見ているつもりでしたが、閉館の案内放送が流れて初めて17時で閉まる事を知りました。結局「水の回廊」という所は見られず、他にも駆け足で見るしかなかった展示がいくつもありましたが、あと1時間早く行動を起こしていればと後悔しても始まりません。鳥羽は参宮線の終点駅でもあるので、また来た時にはゆっくりとした時間を作りたいと思います。

フェリーターミナルは水族館に隣接していて、階段で直接行けるようになっています。

乗船券を買い、少し時間が余ったので土産物屋の横の食事コーナーを覗くと、やはり伊勢うどんがあったので生ビール、松阪牛串焼と一緒に頼みます。やはりここでもとても美味しく、これはちょっと追求する必要がある食べ物だと再認識しました。

どこで食べても外れのない伊勢うどんに感銘を受けつつ船に乗ります。この時に乗ったのは伊勢丸2,333トンで、最高時速19ノットの伊勢湾フェリー最新の船だそうです。隣には姉妹船の三河丸2,323トンも停泊していました。

船に乗った時のいつものパターンで、船室には目もくれずにデッキへと上がります。伊勢丸は岸壁を離れると、前後を入れ替えて進み始めます。岸から離れるにつれてさっき歩いた鳥羽からの道が視界に入り、2階建て車両を間に挟んだ近鉄の特急が通るのも見えました。

出港後しばらくは小島が点在する中を進みます。時々それらの島々が一列に並び、空気遠近法の見本のように奥の島が霞んでいるのも判ります。

その後僕は上のデッキの後ろ向きになったベンチに座っていたのですが、いつの間にか眠ってしまっていました。目を覚ますと辺りは真っ暗で、少しすると進路左側に中部国際空港が見えて来ました。羽田沖にとても似た雰囲気です。

19時9分、定刻より1分早く伊勢丸は常滑フェリーターミナルに着岸しました。奥に見える一列になった明かりは名鉄空港線と並走する中部国際空港連絡道路、通称セントレアラインの物です。

フェリーターミナルで僕は途方に暮れました。周りを見回してもススキやセイタカアワダチソウが支配する空地があるだけで、全く何もありません。それでもなんとか最寄り駅のりんくう常滑駅の方向を見定め、10分程歩いて駅に着きました。

駅に着いてまた途方に暮れました。駅舎こそ真新しくてやたらと大きいものの無人駅で、駅前にはやはり何もありませんでした。何もないという事は人の乗り降りもないので、ここを通る大半の列車は通過し、わずかに1時間に2本の列車が停まるだけです。

ホームの端からはセントレアの明かりが見えます。りんくう常滑は常滑と中部国際空港を結ぶ空港線にある唯一の途中駅ですが、僕がこの春に中部国際空港まで行った時にはその存在にすら気付きませんでした。特急列車はひっきりなしに通過しますが、この駅には僕以外には向かいのホームに3人いるだけです。

そして19時24分発の中部国際空港行きが行ってしまうと、独りっきりになってしまいました。将来のニュータウン構想に先駆けて造られた駅なのでしょうが、バリアフリー設備も完備した最新の駅にぽつんと独りでいるというのはちょっとしたトワイライトゾーン体験でした。

しばらく待って、ようやく停車してくれる列車がやって来ました。りんくう常滑に僕一人の為に停車した8073E急行は19時37分に発車しました。

何を考えたのか、僕は隣の常滑で降りてしまいました。特急に乗り換えようと思っての事でしたが、ホームで調べてみると次の特急は20分以上も後、20時2分の発車で、また僕は手持ちぶさたでホームにいなければなりませんでした。

名鉄の特急は別料金不要ですが、特別車と呼ばれる特急らしいリクライニングシートの車両に乗るにはμ(ミュー)チケットが必要なのでそれを買います。

大人しく急行に乗っていればそのまま名鉄名古屋まで行けましたが、乗り換えた特急は金山止まりで、また乗り換えです。こんな顔のパノラマカーでも一般車は普通の通勤車両なのが不思議な感じです。

新幹線の指定を取ってから食事を摂る場所を探します。手近な地下街に入りましたが、ほとんどの店が閉まっていて、結局東京でも見掛けた気がするステーキ屋に入りました。

700系が入って来たので写真を撮り、乗ろうと思ったら僕が乗る32A「のぞみ32号」の3分前に出る臨時の322A「のぞみ322号」でした。本来なら載せる写真ではありませんが、こういう時に限って流し撮りが完璧に上手く行ってしまったので載せます。

名古屋発21時49分の「のぞみ32号」は500系でした。僕が乗った16号車は一番東京寄りで、長い先頭部分の傾斜が客室の天井にまで影響しているのが判ります。

乗る分には狭くてあまり良いとは言えない500系ですが、やはりこの外見は他の追随を許しません。現在試験走行中のN700系を見る限り、今後ここまで尖ったデザインの車両は出て来ないのではないかと思います。高速で長距離を走る新幹線車両は寿命が短く、性能的に上回るN700系の配備が始まると500系を見ていられるのもあまり長くはないのかも知れません。

仕事柄、段取りで金を取る事も多いせいか、いつもきっちりと下調べをして旅程を組み切る僕にしては珍しく完全に行き当たりばったりの1日でしたが、何も判らぬままに手探りでする旅行も楽しい物です。またその内やりたいと思います。

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