■ 第3日 / 7月3日 ■

昨日は坂町から内陸に入って北上し、新庄に泊まりましたが、今日はまた日本海側に出て秋田へと向かいます。

駅 名
時 刻
列 車
線区名
新庄
08:11発
155D
陸羽西線
余目
08:58着
09:03発
羽越本線
酒田
09:19着
09:38発
539M
羽後本荘
10:45着
10:50発
7D
由利高原鉄道
鳥海山ろく線
川辺
11:24着
11:52発
12D
羽後本荘
12:27着
12:48発
2541M
羽越本線
秋田
13:38着
14:42発
1137D
奥羽本線
追分
14:59着
15:00発
男鹿線
男鹿
15:39着
15:55発
1142D
追分
16:37着
16:39発
奥羽本線
秋田
16:57着
17:58発
3028M
(盛岡より3028B)
こまち28号
大曲
18:29着
18:32発
田沢湖線
盛岡
19:37着
19:39発
東北新幹線
東京
22:08着

途中、元国鉄矢島(やしま)線の由利高原鉄道と男鹿線に寄り道をしましたが、由利高原鉄道では予想外の事があって終点の矢島までは行けませんでした。

朝食は宿泊料に含まれず、チェックインの時に食べるか食べないか決めるのですが、なかなかしっかりしていました。

鉄道で栄えた町である新庄らしく、駅のすぐ横には大きなJRの社宅があります。そこで見掛けたこの猫は距離があったせいか、僕が立ち止まって写真を撮っていてもただこちらを見ているだけでした。

最初の列車は陸羽西線の酒田行き155D。陸羽西線自体は余目までですが、ほとんどの列車が酒田まで行きます。

日曜日なのが幸いしたのか車内はかなり空いていて、通勤客は皆無、通学の高校生もまばらでした。その中で1人だけスーツ姿のおじさんが前の席に脚を投げ出して座っていて、2日前に八高線で見掛けたおじさんと全く同じ雰囲気を醸し出していました。

新庄を出て少しの間は左側に升形川が寄り添っていましたが、2駅目の羽前前波の手前で升形川を跨ぎ、次の駅の津谷の手前で升形川を呑み込んだ鮭川を再び跨ぎ、その更に次の駅の古口の手前で鮭川を呑み込んだ最上川を県道34号線と一緒に跨いで、清川と狩川の間で平野部に出て別れるまでは右窓に最上川を見ながら列車は進みます。列車に乗っている間はただ景色を観ているだけですが、後で地図と照らし合わせると川の食物連鎖のような物が解って面白いです。

ちなみに、陸羽西線と一緒に最上川を越えた県道34号線も写真の古口大橋を渡った所で国道47号線に呑み込まれ、その国道47号線も酒田市内で国道7号線に呑み込まれていて、こちらにも食物連鎖が存在しています。

最上川沿いをずっと走っていた列車は清川の先で平野部に出ます。この辺りは奥羽山脈からの風が途切れないのか、風力発電のプロペラが田畑の向こうに林立していて独特な眺めになっています。

余目での4分間の停車の後、羽越本線に入って9時19分、酒田着。構内では除雪用のDE15というディーゼル機関車が日向ぼっこをしています。

次の列車は9時38分酒田始発の539M秋田行き。両開き3ドアでロングシートの面白味も何もない車両で、最近では東北地方の電化区間の普通列車はこればかりになってしまっています。この形式が入って来るまではED75が50系客車を牽いていたので、天国から地獄と言って良いほどの落差です。

車両がつまらなくても車窓の価値は変わりません。羽越本線のこの辺りは高い位置から日本海を見せてくれてとても楽しめます。しかし、だからこそロングシートと吊革の向こう側ではなく、きちんと前を向いた座席で眺めたいと思います。

向かい側の席に置かれた荷物は4人家族の物で、最初は普通に座っていましたが、しばらくの後に家族総出でかぶり付きで前を眺めていました。

12時27分、羽後本荘着。今日の寄り道その1の由利高原鉄道のホームへと移動します。跨線橋を渡った先に小さいレールバスが待っているのが見えます。

由利高原鉄道鳥海山ろく線は元を辿れば1922年に羽後本荘ー前郷間で開業した横荘(おうしょう)鉄道という私鉄で、その名の通り羽後本荘と奥羽本線の横手を結ぶ事を目標としていました。しかし開業後僅か15年後の1937年に当時の鉄道省、後の国鉄に買収されて矢島線となり、その年に西滝沢まで延伸、翌年には羽後矢島(現在の矢島)まで開通しました。

一方、横手側でも1918年に横手ー沼館間が開通したのを皮切りに、館合、羽後大森、二井山と小刻みに延伸し、1930年には老方まで開通しています。しかし、直線距離にして15Km程の羽後矢島ー老方間が開通する事はなく、湯沢から西馬音内(にしもない、語源はアイヌ語だそうです)を経由して梺(ふもと)までを結んでいた雄勝(おかち)鉄道と合併して羽後鉄道、羽後交通と社名を変えた後に水害や鉄橋の老朽化もあって'71年には全線廃止されています。

鉄道省/国鉄には羽後本荘から矢島を経由して奥羽本線の湯沢と新庄の中間にある院内(県境を跨いだ南隣は難読駅名で有名な及位)までの路線を敷く計画(横荘鉄道の計画では前郷から先は老方に向かうはずが、この計画によって矢島へと方向が変わったようです)もありましたが、矢島から先は結局手付かずのまま廃線指定を受け、'85年に第3セクター転換されました。

10時50分に羽後本荘を出た7Dの車内には部活の朝練でもあったのか、そこそこ高校生が乗っていました。車内吊りを見ると、バス代行輸送の告知が下がっています。最初は一瞥しただけで気にもしませんでしたが、後でよくよく見てみると今日の話でした。

元々の旅程だとこの7Dで矢島まで行き、その折り返しの12Dで戻るつもりでした。7Dの矢島着が11時28分、12Dの矢島発が11時48分で、矢島での滞留時間は20分間。告知には迂回路を通るので下りは矢島着が10分遅れ、上りの矢島発が11時38分とあり、これではバスで矢島まで行ってもそのまま乗っているだけで戻って来るしかありません。ただでさえ見慣れない顔が乗っているので高校生に横目で見られているのにそんな事をする訳には行かないし、僕自身も面白くないので列車が止まる矢島の1つ手前の川辺で引き返す事にしました。

11時24分、矢島着。普段は無人駅らしき駅舎には何人も関係者がいて、駅前にはマイクロバスが待っています。他の乗客は全員バスに乗り込み、僕だけが残りました。

川辺は国道108号線沿いにあり、駅前にはいくつかの民家があるだけの至ってシンプルな場所でした。

さて、約30分間の間どうしようと考えながら国道に出るとバス停の待合所を作っている人がいました。1人で作業をしているようですが、システムパネルなのでこれで充分なのでしょう。

いくら秋田とは言え、今は7月で快晴の空の上の太陽は南中の時間を迎えようとしていて、何か店でもないかと辺りを見回します。

すると駅から見て右側の少し離れた所に食堂らしき建物が1軒だけぽつんとあり、そちらへと行ってみます。

運が良い事に見付けた建物は夫婦で切り盛りしている食堂で、奥の座敷では作業服姿の人達が食事を摂っていました。

冷し中華の昼食を済ませ、駅へと戻ると影が真下に落ちていました。

折り返しの12Dは11時52分川辺始発。川辺から乗ったのは僕だけで、他の乗客はみんな代行バスで矢島からやって来ました。矢島の方には何故かレールバスが1両留まっていました。

羽後本荘の隣の薬師堂の駅舎。由利高原鉄道の駅舎は国鉄時代から変わらない古い物と第3セクター転換後に改築されたらしい川辺のような新しい物、曲沢、久保田、吉沢といった第3セクター転換後に新設された吹きさらしのホームと小さな待合所だけの物の3種類に大別されます。

羽後本荘着12時27分。次の2541M秋田行きの発車は12時48分で、駅前を散歩するには時間が足りないのでホームにいると、逆光の中をEF81が牽く貨物列車が通過して行きました。

羽後本荘の跨線橋で見掛けた「五能線」という曲を歌う演歌歌手のコンサート告知ポスター。五能線の一方の本拠地である能代に乗り込んでやるようです。以前から五能線の車窓はど演歌の世界だと言われ続けていて、その意見には僕も異存はありませんが、ここまでストレートに来られると少し複雑な物があります。

僕はYMOやKuwata Band他のごく少数の例外を除いて基本的に邦楽には興味がなく、演歌歌手ともなると対象外の極北、という位置に来てしまうので当然この人の事も知りませんが、調べてみるとこの人は「五能線」以外にも「釧路湿原」「鳥取砂丘」「東尋坊」「竜飛岬」「尾道水道」とこれでもかと御当地ソングのシングルを量産していて、今やほとんど喰えないジャンルとなってしまった演歌で生き残って行くにはドサ回り用の曲を何曲も持っているというのが1つの方法論なのだろうと思います。事実、公式サイトに「御当地ソングの女王」というフレーズもあり、御当地ソングだけで構成されたアルバムも何枚も出しています。

僕としては、演歌の題材にするのに苦しい九州と四国にこの人がいつ上陸するかが楽しみではありますが、沖縄上陸は「星の砂」という曲で既に果たしているのが恐ろしいです。

またもつまらない車両に乗って14時42分、秋田着。また改札で年配の駅員さんに御苦労様ですと言われました。特殊な切符を持った乗客に対する挨拶として何か決まった物でもあるのかなと思います。

以前、従姉妹と遊びに来た時には何も感じませんでしたが、改めて見てみると秋田新幹線開業に合わせて改築されたと思われる駅舎は未だ土地に馴染んでいないように感じます。

1時間少々の時間があるのでコインロッカーに荷物を入れて駅の回りを歩きます。奥に小さく黄色い横断幕が見えますが、国鉄からJRへの移行の際に不当解雇された職員の救済を求める署名運動でした。当時の事には詳しくありませんが、ほんのちょっとのミスで乗務を降ろされたり関連会社へ出向させられたりというのは日常茶飯事だったようです。

僕自身は国鉄の分割民営は失敗6割成功4割だったと思いますが、鉄道という物が公共サービスとしての側面が強い上に構造的に儲からない事業である以上、ある程度の赤字は国が負担するのは当然ではあるものの、保護し過ぎると組合が強くなり過ぎて国鉄時代のように漫然と大赤字を垂れ流し続けるというのも問題です。いずれにしても正解はありませんが、組合分断を主眼に置いたJR移行は拙速に過ぎたのではないかと思います。

さっきから食べてばかりですが、食事を摂ろうと駅前を歩いてもこれといった店が見付からず、駅ビル内のどん扇屋という店に入ります。頼んだのは牛とろ丼と稲庭うどんのセット。うどんであれそばであれ、乾麺はあまり好きではないので、稲庭うどんに関しては可もなく不可もなくという感想でしたが、牛とろ丼はちょっと反則ではないかと思う程に美味しかったです。ただ単に牛肉の脂身の多い部分をミンチにして丼に乗せただけ(もしかしたら物凄い工夫をしているのかも知れませんが、そう見えます)ですが、これは思い付いたこの店の勝ちです。

自動券売機で切符を買い、次の14時42分発1137D男鹿行きに乗ります。車両はキハ40系の3両編成で、やはりこの顔を見るとほっとします。

3駅目の追分までは奥羽本線を走ってその先で左へと別れて男鹿線に入って行き、天王と船越の間で八郎潟へと繋がる船越水道を渡ります。

八郎潟で思い出すのは「八郎潟の八郎」という昔話。確か「まんが日本昔ばなし」で見たのだと思います。しかしその伝説の潟も'57年からの干拓によってほとんど埋め立てられて大潟村となり、今では南側のほんの僅かな部分だけが八郎潟調整池という名前で残っているのみです。

15時39分に男鹿着。ホームに設けられた切り込みから降りて線路を歩いて渡るという好きなタイプの駅でした。

男鹿の駅前はなんとなくがらんとした雰囲気の場所で、駅の横に架かった傾斜の緩い跨線橋が印象的でした。

駅舎には30歳位の母親とその子供達を見送りに来た老夫婦がいましたが、発車少し前にいなくなってどこに行ったのかと思ったら、線路の逆側の駐車場で手を振っていました。どうもこの跨線橋を渡って行ったようです。

線路はホームのすぐ先で途切れているようでした。男鹿での滞在時間は僅か15分程で、15時55分発の1142D秋田行きで引き返します。

16時57分、秋田着。東京へ帰る「こまち」は田沢湖線を走っている間だけ日が出ていれば良いという判断で少し遅めにしたので、また1時間程空き時間があります。

またも駅ビルで食事。入ったのは杉のやという店でさっき入ったどん扇屋のすぐ近くです。せっかく秋田にいるのだから秋田づくしでという事で、まずは比内地鶏のわっぱめしを。比内地鶏と比内鶏はよく混同されますが、実は別物です。比内鶏は'42年に天然記念物に指定されて以来食用での出荷はほとんどされていませんが、原種を守るのと成長が遅い比内鶏の欠点を補う為に比内鶏の雄とロードアイランドレッド種の雌を交配させたのが比内地鶏なのだそうです。

続いてじゅんさい、とんぶりを食べましたが、どちらもこんな上品な食べ物だったかなと思いました。能代の父親の実家に行ったり祖父が東京に出て来たりするとどちらも食卓に並びましたが、いつも丼に山盛りで食べ放題で、大きさもこんなに小振りで華奢な感じではなく、もっと野趣溢れる食べ物だったと記憶しています。ハタハタもいつの間にか高級魚の仲間入りをしてしまった今、昔と変わらない秋田の名産品はきりたんぽだけのようです。

コインロッカーから荷物を出し、ホームに上がるともう夕暮れ時になりつつありました。ホームの端からは規格違いの線路が何本も走っているのが見えます。

最後の列車は17時58分発の3028M「こまち28号」。先頭部では台湾か中国から来たらしい家族連れが記念写真を撮っていました。

「こまち28号」は乗客を全員後ろ向きに座らせた状態で定刻に発車しました。大曲で進行方向が逆になるので、こういう形になっています。

奥羽本線の大曲ー秋田間は特殊な区間で、新庄から横手、大曲と経由して秋田へ行く奥羽本線の狭軌の列車と、標準軌の秋田新幹線の両方を通す為にレールが3本敷かれています。大曲から盛岡までの田沢湖線は全線標準軌に改軌されているので普通列車も標準軌の車両が走っていますが、時刻表で見ると何故か全て大曲止まりになっています。

新幹線を通す為に地元の足としての利便性が落ちたのかと思い、'84年1月号の時刻表を調べたところ、日に6往復の特急「たざわ」以外は基本的に全て大曲止まりで、例外的に秋田始発で田沢湖行きの2048レという客車列車だけが大曲で1842レと列車番号を変えつつ直通していました。また、「たざわ」の列車番号には電車を表すMが付いているので電化はされているのですが、何故か客車列車以外の全ての普通列車にはMではなくディーゼルカーを表すDが付いていたりと謎が残ります。

大曲で進行方向が変わり、ようやく座席が前向きになります。夕日がどんどん地平線に近付いて行くのが判ります。

18時42分着の角館にて。秋田内陸縦貫鉄道のホームが見えます。元々は角館と鷹ノ巣を結ぶ鷹角(ようかく)線として計画され、南側が角館ー松葉間の角館線、北側が鷹ノ巣ー比立内間の阿仁合線として営業していました。松葉ー比立内間もかなり工事が進んでいましたが、国鉄再建法施行で工事が凍結され、廃線指定を経て'86年に第3セクター転換されました。第3セクター転換時の条件として松葉ー比立内間の開通があり、'89年4月に遂に全線開通。鷹角線の計画立案から68年目の事でした。

'80年代後半に雨後の筍のように増えた第3セクターの鉄道会社も、最近廃止が検討される所が少なくなく、この秋田内陸縦貫鉄道もかなり危機的な状況にあると聞きます。増税や年金取り立ての口実として高齢化社会という言葉がよく使われていますが、そういう社会が本当に来るかどうかはともかく、そうなった時に必要とされる鉄道会社(ローカル線の乗客は老人と高校生が大半です)を目先のたった数億円の為に簡単に潰してしまって良いのか非常に疑問に思います。放漫経営で自滅した銀行の再建や一国の独断で始まった戦争に何兆円も使えるのだから政府にお金がない訳ではなく、ただ単に見殺しにしているようにしか思えません。

画像のタイムスタンプは19時28分となっていたので、田沢湖と盛岡の間のどこかの駅にて。時刻表を見ると19時25分に「こまち23号」が盛岡を発車しているので、その行き合いの停車です。夜景モードで撮ったので明るく見えますが、実際はもっと暗かったです。

目論見通り盛岡で真っ暗になり、その先は在来線の車両と比べてもかなり狭い座席に苦しめられながらも寝ていました。東京までの車中で覚えているのは、つい最近360Km/hでの営業運転に向けて試験走行を始めたばかりの「Fastech 360S」の車体の艶めかしい曲線が仙台の手前の車両区で水銀灯に照らされているのを見た事だけでした。

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