3月15日にツアー前半戦が終わり、本来なら帰れるのに1泊多く宿を取ってもらったので、16日は東京への移動の前に遊びに行きます。行先を弁天町の交通科学館とどちらにするか迷いましたが、京都の梅小路蒸気機関車館にしました。

まずは大阪環状線で福島から大阪へ行きます。福島の改札機がIcoca対応だったので、そういえばSuicaと共通で使えるようになったよな、とSuica入りの財布をかざしてみるとちゃんと通れました。楽で良いです。

大阪で京都方面の列車を待ちます。隣のホームには8001レ「トワイライトエクスプレス」がいて、ちょうど札幌へ向けて発車する所でした。

乗ったのは大阪発12時10分の760T野洲行き。少し後には新快速もありましたが、急いでいる訳でもないので各駅停車にしました。

考えてみると東海道本線のこの辺りを通るのは夜ばかりで、昼間に通るのはかなり珍しいです。大阪を出てわりとすぐに山が見え始め、沿線に田畑が増えていきます。線路は複々線なので、すぐ横を列車が並走したりと車窓意外にも楽しめます。760Tをゆっくりと追い抜いて行った関西空港と京都を結ぶ特急「はるか」に使われているこの車両もその中の1つですが、時刻表と照らし合わせてもこの時間にここを走っていそうな「はるか」は見当たらず、謎が残りました。

途中駅で後から来た新快速に追い抜かれつつ、12時47分に京都着。国鉄時代のままの色の117系が止まっていました。隣にいる鯨のような車両は第3セクターの智頭急行線経由で倉吉へ行く「スーパーはくと」用のディーゼルカーのようです。

蒸気機関車館は東海道本線の列車から見える場所にあるので、車内から大体の見当を付けておきます。京都駅の改札をSuicaで出て左に進み、途中で少し離れたりしつつも基本的には線路沿いをしばらく歩くと梅小路公園に入ります。すると何やら蒸気機関車らしき煙が立ち上り、その後には妙な屋根の客車が付いているのも見えます。

僕が近付くと同時に発車してしまったので機関車の詳細は判りませんでしたが、蒸気機関車館構内で運転している「SLスチーム号」のようです。物凄い量の煙を吐いていますが、沿線で見物している人達は気にせず見送っていました。

更に歩き、山陰本線の高架橋をくぐった先に梅小路蒸気機関車館はありました。右側に見えている架線柱は蒸気機関車館を取り囲むように走っているチンチン電車の物で、梅小路公園の施設という扱いになっています。この日は平日なので、土日祝日運転のチンチン電車は見られませんでした。

梅小路蒸気機関車館は元々梅小路機関区だった場所で、'72年の鉄道開業100周年を記念して国鉄が蒸気機関車館として開館しました。場所選定の際には小山機関区と共に候補に上がりましたが、1914年建造の扇型機関庫が残っている事、京都という世界的な観光地にある事が決め手となり、梅小路が選ばれました。

入口も兼ねている資料展示館は山陰本線で京都から2駅目の二条駅の駅舎だった建物で、1904年の建造当時は国有化前の京都鉄道の本社屋も兼ねていたそうです。国内最古の木造駅舎である事から'96年に京都市指定有形文化財に指定され、同年に山陰本線の高架化工事に伴い役目を終え、'97年の蒸気機関車館リニューアルの際にここに移設されて以来資料展示館として使われています。

資料展示館には蒸気機関車のメカニズムの図解や全盛期の梅小路機関区のジオラマ等色々な物が展示されていますが、その中で最も目を引いたのがこの投炭練習機。一部の形式を除いて石炭をくべるのは機関助士が人力でやっていましたが、その腕前で機関車の出力や燃費が全然変わってしまうので、この練習機を使って技量の向上に励んでいたそうです。

右側の火室に格子状に区切りがあり、決められた順序でその区切りに小さなショベルで150杯の石炭を7分30秒間の間に投げ入れるというのが試験の内容で、合格するにはかなりの練習が必要だったそうです。

資料展示館を一通り見て回り、機関庫へと向かいます。すると、ここで一番見たかったC62の2番機がいきなり目の前にいました。

C62は1948年から49年に掛けて49両製造された高速旅客列車用機関車で、立派な車格と数々の名列車を牽引した実績で人気の高い形式(「銀河鉄道999」にも牽引機として登場しています)ですが、その中でもこの「スワローエンゼル」の愛称を持つ2番機にのみデフ板に「つばめ」のマークがあしらわれていて、他と違う特別な存在になっています。

晩年は北海道へ渡り、函館ー札幌間を小樽経由で結んでいた急行「ニセコ」を牽いていました。ヘッドライト横の小さい副灯はその頃に取り付けられた物のようです。

油が垂れるようで、各車軸の下には紙が敷いてありました。この機関車は動態保存されているので、ちゃんと走れるように整備されているのでしょう。

もちろんC62以外にも色々な形式の機関車が保存されています。その数16形式18両。以下に簡単にまとめました。

形式
機番
製造年
特記事項
 8620
 8630
 1914年
動態保存
9600
9633
1914年
 
B20
10
1946年
動態保存
C11
64
1935年
 
C51
239
1927年
 
C53
45
1928年
 
C55
1
1935年
 
C56
160
1939年
動態保存、「SL北びわこ号」牽引
C57
1
1937年
動態保存、「SLやまぐち号」牽引
C58
1
1938年
 
C59
164
1946年
 
C61
2
1948年
動態保存
C62
1
1948年
 
C62
2
1948年
動態保存
D50
140
1926年
 
D51
1
1936年
 
D51
200
1938年
動態保存
D52
468
1946年
 

ただ単にここで保存されているだけではなく、実際に列車を牽いている2両の機関車もここの所属になっています。その中でも、C57の1番機は製造されて以来一度も登録上の廃車になった事がなく、走行中の事故や阪神大震災での度重なる危機を関係各位の尽力によって乗り越えてきた機関車なのだそうです。

機関庫内には運転台に昇れる階段がある所があり、そこからは機関車の背中を見渡す事も出来て、なかなか壮観です。

1914年竣工のこの機関庫は国内最古の鉄筋コンクリート製機関庫だそうで、重要文化財に指定されているとの説明が看板にありました。

同じ場所から機関庫の中心方向を見ると、当然ながら転車台があります。数箇所の扇型機関庫を見て来ましたが、ここが今までで一番大きいのではないかと思います。

機関庫に向かって左から順番に番線が振ってあり、全部で20番線まである内の1番線から7番線までは整備場になっています。整備場ではテンダーを外された機関車が何人もの整備士さんにいじられていました。

どの機関車が整備されているのかなと思って横を見ると、機関車本体から外されたテンダーがいました。整備されていたのは「SL北びわこ号」を牽くC56の160番機でした。

機関庫全景。非常に幅が広いので、かなり離れた所から撮らないとフレームに収まり切りません。

機関庫の横には休憩所として使われているオハフ50が国鉄時代の色のまま置かれています。50系客車は'70年代末から'80年代初頭に掛けて製造された普通列車用の形式で、大規模に配備された客車としては最後の形式になります(「カシオペア」用のE26系もありますが、たったの1編成12両しか作られていません)。旧型客車の置き換えを目的に1,000両近くも作られた形式ではありますが、急速な電車/ディーゼルカー化であっと言う間に数を減らし、原形のままの姿で現役の車両はなくなってしまい、改造車もJR九州の「SLあそBoy」や真岡鉄道にいくらか残っているだけになっています。

僕自身は全く乗った事がなく、改造車を他の列車から見掛けた事がある程度です。原形車を見た覚えはありませんが、もしかしたら'85年と'86年に九州ワイド周遊券で九州旅行に行った時に見ていたのかも知れません。

車内はエアコンが取り付けられているものの、ほぼ原形を保っているようでした。50系が極端に短命に終った理由は、まず第一に手間の掛かる客車である事なのでしょうが、非冷房だった事も大きかったようです。当時の国鉄の台所事情は正に火の車で、同時期に配備されたキハ40系もやはり最初は非冷房でした。

敷地の端には公園で見掛けた「SLスチーム号」がいます。「SLスチーム号」は日に3回運転されていて、この日の機関車は8600型の8630番機でしたが、時々交代しているそうです。

「SLスチーム号」の客車。なんとも不思議な形ですが、何よりも車軸の間隔が異様に狭い台車に眼が行きました。

「SLスチーム号」が停まっている線の隣にはB20という機関車がいます。1945年から46年に掛けて製造された構内入換用の機関車で、従輪なしの動輪2軸、全長はたったの7mという超小型タンク機です。車輪が4つしかないので自動車のようにも見えます。戦時中から敗戦後に掛けて製造されたので非常に簡素な造りになっていて、他の形式では綺麗な曲面になっているボイラー上部の蒸気ドームも直線基調の形になっています。

全部で15両作られたこの機関車は、この10番機以外にも1両現存していて、1番機が北海道の旧万字線朝日駅跡の万字線鉄道公園に静態保存されています。10番機も元々は静態保存でしたが、'02年に梅小路蒸気機関車館開館30周年とJR西日本発足15周年記念事業として動態復元されました。その際には一般からボランティアを募り、部品や車体を磨いたり塗装をしたりと作業に加わったそうです。

転車台で回転(7.3MB / 105秒間)

B20が転車台に乗ったので、その模様をムービーで撮りました。甲高い汽笛の音が小さな身体に似合っています。Dimage Xiのムービー機能は最大35秒間までしか撮れないので、35秒のムービーを3本繋ぎました。Motion-JPEGのまま繋ぐとファイル容量が恐ろしい事になるので、QuickTime7 ProでCodecをMPEG-4に換えてビットレートを落としたら、30.6MBから7.3MBと容量が劇的に小さくなりました。

手前側の線に入ったら石炭を補給。ショベル付きのフォークリフトが運んで来ますが、石炭を入れる場所が物凄く狭いので位置合わせに苦労するようでした。

補給が終って再び転車台に乗り、お尻から機関庫へ入ります。B20はここのマスコット的存在で、基本的には毎日こうやって表に出てきているのだそうです。

機関庫の横にはC62の1番機と旧型客車2両も留まっています。何故かは解りませんが、JR西日本は貴重な旧型客車を大事にする気がないようで、新大阪駅近くにいる1両と同じくこの2両もあまり良い状態ではありません。

国産で唯一、3シリンダー形式のC53の台枠に頭を突っ込んでその3つ目のシリンダーを見たりしていると、この日最後の「SLスチーム号」が出るとの案内が場内に流れました。乗り場の方を見てみるとバック運転で8630が出て行き、しばらくの後に戻って来て家族連れや修学旅行らしい中学生を降ろしています。この最終便は乗客が多く、もう1往復臨時で走っていました。

今日の仕事が終った8630は客車から切り離され、転車台を経由してB20が石炭を入れたのと同じ方向へと向かいます。

まずは火床の掃除。水を掛けながら石炭の燃えかすを落としますが、時々真っ赤な物が落ちてくるので何だろうと思ってよく見ると、まだ燃えている石炭でした。

次は石炭と水の補給。整備士の人達がこれだけ入れば明日一日もつだろ、等々話しているのが聞こえます。昔は大掛かりな給炭台や給水塔を使っていましたが、8630もフォークリフトで補給を受けていました。

補給が済むと、また転車台に乗ってお尻を機関庫の方に向けます。半周すれば済むのに1周半していたのはサービスなのでしょう。

収まった先はB20の隣。8630もそれほど大きな機関車ではありませんが、まるで大人と子供のように大きさが違います。

帰りは路線バスで京都駅へ。駅前の地下街でお好み焼き屋に入り、モダン焼きとタコ焼きを食べて軽く酔いました。

東京へは18時ちょうど発の382A「ひかり382号」で帰ります。荷物を引き揚げにコインロッカーへ行こうと地下街を出ると、アトムが夕焼けと飛行機雲を背負っていました。

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