いつ実行するか判らないけれど、立てた旅程がいくつかあります。一部を流用して他の旅程に組み込んだり、結局実行せぬままダイヤ改正等で流れたりと、あまりそのまま実行する事はありませんが、気が向くと作っては溜めています。この日の旅程もそんな中の1つでした。

駅 名
時 刻
列 車
線区名
東京
06:07発
725M
東海道本線
国府津
07:26着
07:58発
2533M
御殿場線
沼津
09:38着
09:50発
753M
東海道本線
吉原
10:04着
10:20発
 
岳南鉄道
岳南江尾
10:40着
10:43発
 
吉原
11:03着
11:08発
738M
東海道本線
沼津
11:23着
11:25発
344M
熱海
11:44着
12:06発
5643M
伊東線
伊東
12:34着
12:38発
伊豆急行
伊豆急下田
13:54着
下田
15:14発
 
下田ロープウェイ
寝姿山
15:17着
15:46発
 
下田
15:49着
伊豆急下田
17:00発
8028M
踊り子188号
伊豆急行
伊東
18:02着
18:08発
伊東線
熱海
18:31着
18:33発
東海道本線
東京
20:00着

元々は御殿場線と岳南鉄道に乗って、身延線で甲府を経由して小海線で小諸へ、という形でしたが、色々と不都合が多い旅程だったので日帰りに切り替え、余った時間で下田へ行く事にしました。

始発の地下鉄で東京駅に出て、みどりの窓口で切符を買います。今日の最初の列車はこの熱海行き725M。車両は113系で、湘南カラー、一部では「かぼちゃ電車」とも呼ばれるカラーリングに身を包んでいます。

東海道本線の普通列車は何故か未だにこの113系が主力で、国鉄時代からあまり変わっていません。古い車両ですが、それが逆に東海道本線の貫録のような物を感じさせてくれます。普段セミクロスシートの車両に乗る機会が殆どないのと、始発なので座れる事もあって仕事で横浜に行く時には必ず東海道本線を使っています。

ところが、この113系もこの10月の改正で4扉ロングシートの通勤型車両への置き換えが始まるとの事。それなら改めて乗ろうではないかと思います。早目にここに来たのは、113系以外の車両が来たら次の列車を待っても後に影響を出さないためでした。

東海道本線の普通列車にはグリーン車が2両繋がっています。1両は最近作られたステンレス製の2階建て車で、もう1両は幅の狭い窓がずらりと並び、車両の両端に扉が付いた古い車両です。こちらは昔ながらのグリーン車で、前々から一度乗ってみたいと思っていました。横浜までしか行かない普段と違って今日は国府津まで乗るし、多分もう機会もないだろうからという事で、今日はこのサロ110というグリーン車に乗ります。

サロ110の車内。1列に1つづつ窓があり、いかにもグリーン車という風情です。中吊り広告がないのもすっきりしていて良いです。ただ、この幅狭の窓は車窓を眺めるのにはあまり良くはありませんでした。

6時7分、定刻に東京を出ると車掌さんが検札に来ます。心なしか応対が丁寧に思えました。この時点での乗客は僕だけです。

窓際の小テーブルに乗った今日の切符。大した距離ではありませんが、沼津ー吉原間と熱海ー伊豆急下田間が往復になるので、全部バラバラで買わなくてはならなくて結構高く付いてしまいました。

川崎で102レ「銀河」、横浜で8レ「出雲」と擦れ違います。その後すぐに今度は5032M「サンライズ瀬戸・出雲」、戸塚を過ぎた所で「スーパーあずさ」に使われている車両とも擦れ違い、朝の東海道本線の面白さを見せてくれます。

品川で数人乗せた後は段々と乗客が増えて、国府津に着いた時には20人程になっていました。

7時26分、国府津に到着。東京を出発したのは予定より早い列車でしたが、この先の御殿場線の列車は7時58分発の2533Mまでないので、結局は同じ旅程となります。ホームにはその2533Mが既に入っていました。

少し時間があるので駅前に出てみます。駅自体は4階建ての普通の建物でしたが、バス停が並ぶ駅前広場から少し歩いただけでもう海が見えました。

ホームに戻ると、特急マークを外された183系が入って来ました。左には「スーパービュー踊り子」用の車両も見えます。これら以外にも本来特急用であるはずの185系が「普通」の表示を掲げて走っていたりで色々と面白い物を見られました。

そして極め付けがこの事業用車。横腹にクモヤ143と書いてあります。この写真を撮ってすぐに出て行き、急勾配の高架橋になっている御殿場線に入って行きました。

勿論、僕が乗った2533Mもその高架線に入って行きましたが、複線なのに何故か右側の線路を走っています。本来は左側を走らなければいけないのでとても落ち着きませんでしたが、しばらくすると線路の左側に広い車両区が見えて、もう一方の線路はその中に吸い込まれて行きました。複線のように見えて、その実は御殿場線と車両区への出入り線が並走しているだけのようでした。

御殿場線は元々東海道本線として敷かれた路線で、最初は単線、すぐに輸送力増強の為に複線化されました。しかし箱根越えを抱えるルートに敷かれた為に御殿場を頂点とする急勾配があり、力の弱い蒸気機関車が牽く列車ではスピードも出せず、編成も長く出来ない等々、複線化だけでは解決不能な問題がありました。戦前の超特急「燕」はこの区間で最後尾に後押しの機関車を連結し、御殿場の駅構内で走りながら切り離しをしていたそうです。

この問題を抜本的に解決する為に掘られたのが丹那トンネルで、1934年に開通した小田原、熱海経由の新線が東海道本線となり、旧線は御殿場線と名前を改めました。没落の憂き目に遭った御殿場線に追い撃ちを掛けるように、戦時中の資材供出で片側の線路が剥がされて単線となり、その後電化はされたものの今に至るも単線のままとなっています。

今でも線路を剥がされた跡が残っているという事は聞いていたので右側の席に座ると、所々で途切れはするもののかなりの部分で路盤が残り、使われていないトンネルも時折見え隠れします。さすがに元大幹線で途中駅のホームも非常に長く、機関区があった山北にはその跡とおぼしき広い空地もありました。山北から先は勾配が本格化するようで、車内から見ても駅を出た所で線路がぐいっと持ち上がっているのが判ります。その勾配が始まる辺りでは保存されている蒸気機関車が見えました。

写真はその山北の2駅先の駿河小山にて。2M「あさぎり2号」と行き違いました。御殿場線は松田ー沼津間で小田急と相互乗り入れをしていて、これも小田急の車両です。例によって液晶を見ずに適当な方向にカメラを向けて適当にシャッターを押したのですが、良いタイミングを体得しつつあるようです。

今回2533Mを選んだのは時間が丁度良いのもありましたが、御殿場で16分間の長時間停車があるのが決め手となりました。その御殿場でホームに降りて駅の周囲を眺めていると、1M「あさぎり1号」が入って来て、すぐに出て行きました。これもやはり小田急の車両です。小田急の特急と言うと運転台が2階にあって赤とグレーに塗られたロマンスカーを連想しますが、既に現役を退いて随分経っているそうです。

御殿場から下り勾配に転じた車窓には、期待していた富士山が一向に見えて来ません。この日は晴れてはいましたが、なんとなく空気がガスっぽいと言うか澱んだ感じになっていたのでそれが原因なのかも知れません。仕方がないので水田を眺めていましたが、黄金色に実った刈り入れ寸前の区画や既に収穫が済んだ束が天日に干されている区画が入り交じっていて、そういう意味では楽しめました。

箱根を楽々と越えた2533Mは9時38分に沼津着。次の列車まで少し時間があるので構内を見て回ります。やはりここも古い駅なので、長いホームに立派な屋根が架かっていて昔日の殷賑を偲ばせます。立ち食いそばのスタンドがあったので食べようか迷いましたが、少し時間が足りなくて断念。大人しく次の753M島田行きに乗り込みました。

車両はやはりかぼちゃ電車。今度の改正で撤退を始めるのはJR東日本エリアからで、JR東海エリアのこの辺りでは引き続き113系が走り続けるそうです。座って発車を待っていると、4レ「さくら・はやぶさ」が少し離れたホームに入り、すぐに出て行きました。

12分間乗っただけで吉原着。駅構内には何本も側線が走り、最近ではほとんど見掛けられない昔ながらの小さな2軸貨車が停められています。他の人達の後について跨線橋を昇ろうとすると、岳南鉄道への乗り換えは西側の跨線橋へ、という看板が眼に入ります。一瞬考えて後を振り向くと古めかしい跨線橋の向こうに短いホームがありました。丁度岳南江尾からの列車がやって来て止まり、意外にも20人程の人達が降りて、その半数程度の人がこちら側へと渡って来ます。しかし、向こうへ渡ったのは僕1人でした。

跨線橋からは貨車を見下ろせます。この光景は一体何年前から止まったままになっているのでしょうか。

窓口でJRの切符を渡し、岳南鉄道の切符を買って中に入ります。トラス構造の支柱が'70年代的な不思議さを醸し出しています。真ん中の辺りに見える青い板には「岳鉄ビール電車」の宣伝が貼られていました。夏の間、毎週金曜日に2往復走っていて、おつまみ付きで¥2,000だそうです。走っている回数からすると、結構好評なようです。

岳南鉄道の車両は井の頭線の中古車で、中間電動車の両端に運転台を付けた改造車だそうです。1両で走る赤く塗られた形式と2両編成の緑色の形式がいて、緑色の方とは途中駅で擦れ違いました。

去年の春に何も知らずに金沢で乗った北陸鉄道を皮切りに、上毛電気鉄道、松本電気鉄道と地方私鉄に譲渡された井の頭線の車両に乗り回って来ましたが、この岳南鉄道が最後の1線となりました。これだけあちこちに買われているのだから、今後もまたどこかの地方私鉄に譲渡されるかも知れません。その時はまた乗りに行こうと思います。

僕と中学生位の男の子の2人しか乗客がいない列車は、吉原を出ると貨物列車の横をかすめつつ右にカーブして行きます。製紙工場を左窓に見ながら進むと、年季の入った電気機関車や貨車が色々といて飽きません。非常に印象的だったのは踏切の多さ。懐かしいカンカンという警報音が途切れる事なく聞こえ続けていて、踏切に追い掛けられ続けているような、と言うよりも、踏切と並走しているような気分になります。このシュールさには、つげ義春の作品に通じる物を感じます。

岳南鉄道の切符。行先が印刷された硬券です。

運転台のすぐ後には井の頭線時代と変わらずシートがありました。迷わずそこに座って展望を楽しみましたが、男の子が2駅目の本吉原で降りてしまうと運転士さんと至近距離で2人きりになり、なんとも変な感じになってしまいました。

本当は終点の岳南江尾から東海道本線の東田子の浦に抜けようかとも考えていましたが、時間的な都合で岳南鉄道を往復する事にしました。なので、行きはほとんど写真も撮らずにただ前を眺め続けていました。

20分程走り、東海道新幹線の高架橋をくぐったすぐ先の中途半端な場所で止まります。ここが終点の岳南江尾です。吉原を出たすぐの所でもくぐっているので、同じ路線を2回くぐった事になります。男の子が降りた後には結局誰も乗らず、乗客は僕だけでした。

見たところ、駅は無人化されているようです。駅前にも特に何があるという訳でもないようで、何故ここが終着点に選ばれたのかはよく判りません。

ホームの花壇はしっかりと手入れがされ、掃除も行き届いています。綺麗に咲いているな、と花を眺めていると新幹線が猛スピードで滑って行きました。

帰りは一番後に座る事にしました。今回も出発時の乗客は僕ともう1人だけ。しかし、途中で段々増えて吉原に着いた時には20人程になっていました。

3駅目の岳南富士岡には車庫があり、デッキ付きの電気機関車が休んでいました。

同じく岳南富士岡にて。この井の頭線の車両が入るまでは左の電車が主力だったそうです。今は廃車されてここに留置されています。

その次の比奈には「501」とだけ書かれた電気機関車がいました。上田温泉電軌、現在の上田交通でデロ301として新製された機関車で、産まれはなんと1928年の2月。'65年に三河鉄道に譲渡された後、会社の合併で名古屋鉄道へ、そして'70年からここで働いているそうで、齢76歳でいまだ現役なのは驚異的です。

電装系の部品調達が難しい事から、一般に蒸気機関車より電気機関車の方が保存は厳しいと言われますが、恐ろしい事にここには1927年産まれの機関車もいるそうです。

途切れる事のない踏切の警報音を聴きつつ、行きと同じく帰りも20分程で吉原着。次の列車は沼津行き738M。今日3本目のかぼちゃ電車です。

それにしても、吉原の1駅西側は富士という名前の駅で、実際にこの辺りは富士山が良く見える場所のはずですが、結局姿を見られず仕舞いでした。

沼津着は11時23分。2分間の乗り継ぎで344Mに乗り換え、御殿場線をローカル線へと追いやった新線に入って熱海へと向かいます。

写真は沼津のホームにあった洗面所。米原で蒸気機関車時代の物を見ましたが、これはどう見ても最近作られた物です。確かに沼津も機関車付け替えをしていた駅なのでホームに洗面所がある事自体は不思議ではありませんが、何故新しくする必要があったのか、謎は深まるばかりです。

沼津から熱海までの間には三島と函南の2駅しかありませんが、丹那トンネルがあるせいか駅間距離が長くて20分程掛かります。

熱海で本日4本目のかぼちゃ電車を降りると、さっきまでと違う形の灰皿がホームに置かれていました。そう言えばここからはJR東日本の駅です。ちなみにJR東海の灰皿は丸い穴が空いています。

ホームで駅弁を調達して待っていると、5643M伊豆急下田行きが入って来ました。車両は伊豆急の物で「リゾート21」という愛称が付けられています。リゾートの名の通り観光用に特化された車両で、両端の先頭部は階段状になった展望車、中間車も海寄りの席は窓向き、他にも色々と趣向が凝らされています。

先頭の展望席に荷物を置き、この写真を撮ってから戻ると隣に浅黒い肌で彫りの深い顔の30歳位の青年が座っていました。アラブ系のようにも見えますが、どこの国の人かもよく判らないのでとりあえず笑顔を作って「Excuse Me」と声を掛けつつ窓際の席に座ります。どうも英語を喋る時には言語を切り替えるだけでなく表情の作り方等も変わるようで、普段よりも格段に表情豊かになるのが自分でも不思議です。

日本人相手だとこういう時にこちらから話し掛ける事はまずありませんが、相手が外国人なら気が楽です。理知的な顔立ちの彼に出身を聞くとインドとの答え。電力会社に勤めているそうで、今回は15日間の予定でLNGプラントの見学に来たとの事。日程に余裕があるらしく、昨日はディズニーランドに行ったとか。地震がとても怖かったけど日本は親切な人が多くてとても良いと言っていましたが、君のように英語を喋る人が極端に少ないんだよね、とも言っていました。

話題はヒンドゥー教や仏教の方向へ向かい、輪廻転生を色々と説明してくれます。しかし彼の英語はかなり訛っていて、込み入った話になると何を言っているのかどんどん解らなくなって行きます(僕がネイティブ以外を相手にするのが苦手なのもあります)。丁度話題が一区切り付いた所で伊東に近付き、彼と仲間は降り仕度を始めました。

別れ際に握手をした際に、彼が何やら全く知らない言葉で挨拶らしき一言を言ったので、何かを言おうと思って咄嗟に口をついて出て来たのは、10年以上前に読んだオーソン・スコット・カードの「エンダーのゲーム」で覚えた「アッサラーム(汝に平和あれ)」でした。

その後何かしっくり来ないな、と思い続け、帰ってから調べると、「アッサラーム」はイスラム教徒の挨拶で、ヒンドゥー教徒である彼に対しては「ナマステ」と言うべきだったと判り、自分の不勉強に多いに恥じ入りました。やはり主要な言語での最低限の挨拶程度は身に付けておきたいものです。

伊東からはまた1人になったので、ようやく駅弁を開けます。並んでいた中で一番土地の物らしかった鯛めしですが、ごはんの上に掛かった鯛のフレークは上品な桜でんぶという感じで、付け合わせの山葵漬けの方が静岡らしさを漂わせていました。

伊東の次の南伊東にて。熱海の隣の来宮から先の伊東線と伊豆急行はずっと単線になるので頻繁に行き違いの長時間停車をします。ここで行き違ったのは伊豆急行がJRから買ったらしい113系。これも元かぼちゃ電車です。

伊豆高原では向かい側から来る特急との行き違いと、後から来る特急に追い抜かれるのとで7分間の停車がありました。観光用の車両で運転されていても、やはり普通列車には違いありません。

追い抜いて行くのは3001M「スーパービュー踊り子1号」で、先頭部が展望車になっていたり屋根まで続く大きな窓が付いていたりとこれも観光客を強く意識した作りになっています。しかし「リゾート21」のように海側の席が窓向きになったりはしていないようで、全席前向きになっていました。

これが展望席からの眺めです。伊豆急行の車窓は海の見せ方が多様で、木々の間からちらちらと見えたり、集落の向こうに広がっていたり、ここのように海岸線ぎりぎりを走ったりと飽きさせません。もしかしたら全て計算ずくで線路を敷いたのかと勘繰りたくなる程です。

前面展望をたっぷり楽しんで13時54分、伊豆急下田に到着。かなり早い時間ですが、後は東京へ帰るだけです。そして下田まで来たはいいものの、あれだけの本数の特急が走っているのだから何かあるのだろう程度の認識なので、何があるのか全く知りません。まずは駅舎に入っている観光案内所で「下田歴史の散歩道地図」という紙を手に入れ、駅を出ました。

駅前広場に出ると、それまでと全く違う陽射しと気温に驚きました。熱海までは暑くも寒くもありませんでしたが、ここでははっきりと暑いと感じます。

道を渡ろうと信号待ちをしていると、同じく待っていた中学生位の女の子3人組に地元の高校生らしき女の子2人組がどこから来たの、どこに行くのと話し掛けて来ます。3人組がどこそこに行きたいのですけどと言うと、2人組はあそこはあまり面白くないよね、だったらここはどう? とか色々と言っています。確かに観光が産業の大きな部分を担っている町ではありますが、こんな光景に出くわすとは思っていませんでした。これが珍しい事でないのなら、下田の未来は明るい物になるでしょう。

地図を見ると「ペリー上陸の碑」という物があるので、そこを目的地として途中にあちこち寄り道をする事にしました。まずは「なまこ壁の家」です。なかなか見事ななまこ壁ですが、手前の家もかなり良い風合いになっています。

このまま奥へと進み、漁船が大量に舫われている稲生沢川沿いに歩きます。ふと横を見るとまたなまこ壁があったので、干物屋の間を通ってそちらへ向かいましたが、そこはただ単になまこ壁模様に塗られているだけで玉石混交と言った感じでした。

「ペリーロード」と名付けられた平滑川沿いの石畳の道。大きな柳の横に架かったこの橋はそのまま柳橋という名前でした。川縁に建ち並ぶ建物も良い感じで古く、風情があります。奥の低い橋の所はパスタと雑貨の店で、良く解らない取り合わせではありますが、結構繁盛しているようでした。

散々道草を喰いつつ、ようやく「ペリー上陸の碑」に到着。頭にカラスを乗せたペリーの碑の前は小さな公園になっています。ペリー来訪は1854年の事で、今年は丁度150周年。それに因んだノボリや看板が下田の町のあちこちに立ち、伊豆急行の「リゾート21」も黒く塗られて「黒船電車」として走っているのを見掛けました。しかし極めて歴史に疎い僕はそれすらも知らずにここまで来てしまいました。

説明板の裏側にはペリー艦隊の布陣が記されていました。当時の有名な謡に「太平の眠りを覚ます上喜撰(銘茶の名前、蒸気船に掛けて)、たった四杯で夜も眠れず」というのがありますが、実際には4隻ではなかったようです。

それにしても当時最新鋭だった蒸気機関で走る船とは言え、旗艦ですらたったの2,415t、一番小さい船に至っては547tと、とても太平洋横断など出来るような大きさだとは思えません。しかも名前が「Supply」。名の通り補給船なのでしょうが、「補給」という投げ遣りな名前の極小の補給船に命を預けさせられた37名の乗組員の心情たるやいかに、と思います。

またペリーロードを歩いて駅の方へと戻ります。これは先程の場所より少し上流寄りです。

まだまだ時間があるのでロープウェイで寝姿山の上へ。ロープウェイの駅は伊豆急下田駅からすぐの所にありました。

動き出した途端にゴンドラの中を風が吹き抜け、一気に涼しくなります。なんだろうと思って見回すと、真ん中の部分が両側共に金網になっていました。雨の日は大変だろうと思います。

山頂駅からは散歩道があり、色々な施設がありました。展望台には何が見えるという案内図がありましたが、富士山を覆い隠していた見通しの悪いこの日の空気はここでも同じで、海と空の境界線すらも判然としませんでした。

特に何の目的もなく歩いていると、鯉が泳ぐ池や庭園があちこちにありました。ここはハーブ園で、どこもしっかりと手入れされています。

江戸幕府がペリー艦隊を監視する為に作った見晴し台もあります。それなのにアメリカ製の大砲が置いてあるのはなんともちぐはぐな感じを受けます。

見晴し台のベンチで湾を眺めていると、尻尾がとても長いトカゲがちょろちょろと出て来ました。爬虫類には意外と可愛い顔の動物が多いですが、その中でも特にトカゲは群を抜いて可愛いと思います。

帰りのロープウェイを待つ間、駅の土産物屋(と言うより、土産物屋に駅が間借りしているような感じでしたが)を見ていて見付けた掲示。そうか、そういうやり方もあったか、と膝を叩く思いでした。それにしても全部ではなく、8割方という微妙な線なのが可笑しいです。

またロープウェイに乗って下山します。若い女の人を1人だけ乗せた逆側のゴンドラが素通しの金網の向こうを擦れ違って行きました。

下山したものの、まだ帰りの列車までは時間があります。今日は店で食事を摂っていないのもあり、駅前の店を見て回りましたが、16時台という中途半端な時間のせいで開いている店があまりなく、あっても客が誰もいないという状態だったので諦め、駅の売店でカラスミ(今は下田でも作っているそうです)に酒盗、帆立やタコの塩辛等を買い込み、駅前のコンビニで酒を仕入れて列車を待ちます。

これが今日の最後の列車、8028M「踊り子188号」。本当は週末は避けたかったのですが、平日は15時発の3030M「踊り子110号」で特急が終ってしまい、以降は週末のみの運行となっているので今回は日曜日に出掛ける事になりました。車両は185系で、僕が鉄道に興味を持っていた最後の頃に新型だった形式です。当時は白い車体に緑色の斜めストライプが3本というカラーリングでした。

「踊り子188号」の自由席はそこそこの混み具合でした。暗くなって何も見えない窓の外を眺めながら酒とつまみを楽しみ、小田原辺りから眠ってしまって20時に東京着。

帰りの地下鉄では、斜め向かいに座っていた20代中盤位の髪の短い女の子が人目も憚らずにぼろぼろぼろぼろと大粒の涙を流しながら携帯でメールを書いていました。収まったかな、と思うとまたぼろぼろぼろぼろ。きっとメールの内容と連動していたのでしょう。涙は拭われずに彼女の胸元へと落ち続け、僕が降りる時にはTシャツに直径20cmもの染みが出来ていました。

この週に横浜で仕事があり、それが東京駅から出る113系のとりあえずの乗り収めとなりました。東海道本線の東京口を他とは違う特別な存在にしてくれていたかぼちゃ電車に感謝したいと思います。

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