■ 第6-7日 / 12月20-21日 ■

妙なルートでくねくねと南下してきた今回の旅行も最終日。この日は今回最大の目的地、枕崎へと向かいます。

駅 名
時 刻
列 車
線区名
西鹿児島
05:07発
1321D
指宿枕崎線
指宿
06:12着
06:23発
5323D
枕崎
07:32着
枕崎駅
07:45発
 
鹿児島交通バス
伊集院駅
09:25着
伊集院
09:43発
437M
鹿児島本線
西鹿児島
10:01着
10:25発
10M
つばめ10号
熊本
12:58着
13:00発
73D
あそ3号
豊肥本線
大分
15:38着
16:49発
2レ
富士
日豊本線
小倉
19:00着
19:01発
鹿児島本線
門司
19:08着
19:15発
山陽本線
神戸
通過
東海道本線
東京
09:58着

枕崎の後は鹿児島本線を北上し、熊本からまたも「あそ」に乗って豊肥本線を完乗し、大分で「富士」に乗り継いで一路東京へ、となります。

仮眠と言っていい程度の睡眠時間でベッドを抜け出し、ロビーのソファで寝入ってしまっていたフロントのおじさんに起きてもらってチェックアウトを済ませ、西駅へ。電光掲示板が挨拶をしているこの写真は4時58分の物。これから乗る指宿行きの1321Dは5時7分発で、この列車だけが突出して早い時刻に発車するのが判ります。

構内のコインロッカーに荷物を入れてホームに降りると、列車はもう乗客を待っていました。指宿からの折り返しが混むのか、キハ200系というらしい車両をなんと4両も繋いでいました。

今まで紹介してきた中で、多分この列車が一番早い出発になると思いますが、僕としても好きでこんな時間帯に乗る訳ではありません。指宿枕崎線は途中の指宿とその隣の山川を境に運転系統が2分割されていて、西鹿児島ー指宿/山川間は結構頻繁に列車があるのですが、その先、終点の枕崎まで行く列車は平日が臨時扱いの1本を含めて6本、土曜休日は4本しかありません。しかもこの列車に乗ると枕崎へは7時32分に着けるのですが、これを逃すと次の列車の枕崎着は14時27分と、約7時間も空いてしまい、その後の東京戻りが二進も三進も行かなくなってしまうのでこの列車以外に選択肢がありませんでした。

いつになっても東京では売り出されないジョージアのブレンドをちびちびと飲みつつ、なんでこんな時間帯にこんな車窓が楽しそうな路線に乗らなければならないのだろうと落胆しながら夜の帳が降りたままの車外を眺めます。それでも考えてみれば、「時刻表2万キロ」で宮脇氏がこの線の指宿ー枕崎間に初めて乗った時も西鹿児島発5時15分の始発列車で、時期も'75年12月29日でほぼ同じじゃないか、と自分を慰めてみますが、見えない景色は見えないままです。

何も見えないままで6時12分、指宿着。乗り換えの時間が10分少々あるので、駅前に出てみました。ここには楽チャリもあるらしく、その内見て回りたい町ではあります。

6時23分発の枕崎行き5323Dはキハ40系の2両編成でした。乗客は野球部らしい男子高校生が1人と、女子高生やおばさんがちょぼちょぼという感じでした。

6時39分発の西大山にて。ここが2線軌道式鉄道としては国内最南端の駅になります。去年の夏に沖縄都市モノレール、通称ゆいレールが開通するまでは永らくここが国内最南端の鉄道駅でしたが、モノレールやロープウェイも鉄道として分類されるのでゆいレールの赤嶺駅に鉄道駅としての最南端の座を奪われてしまいました。

同じく西大山の案内看板。以前も書きましたが、佐世保はJRの駅としての最西端で、2線軌道式鉄道の最西端は元国鉄松浦線、現松浦鉄道のたびら平戸口で、鉄道駅の最西端はやはりゆいレールの那覇空港となります。

そして最東端として紹介されている根室ですが、これは有人駅としての最東端で、実際はその隣の東根室が最東端になります。東根室もこの西大山も同じ無人駅なのに、何故か東根室だけ扱いが悪いです。

ともあれ、これで稚内、東根室、佐世保、西大山とJRの最果て駅は全て回った事になります。

6時55分発の頴娃(えい)付近にて。指宿でぼやっと明るくなりつつあった車窓は、この頃にはかなりよく見えるようになって来ました。

7時10分発の水成川のホーム。車体にコツコツという音が響いていて、何かが降っているな、と思っていたら、霰が結構な勢いで降っていました。写真に写っている白い粒は砂ではなく、その霰です。人吉で雪が降った時もなんで東京から南九州に来て雪を見ているのだろうと思いましたが、こんな最南端の路線でもこれです。

とうとう枕崎の町並が見えて来ました。思い込みと言うか、イメージでは何もない鄙びた場所なのだろうと勝手に思っていましたが、意外に大きな町で、人口は'03年12月1日現在で26,245人だそうです。鰹漁が盛んな町で、端午の節句には鯉のぼりならぬ鰹のぼりが泳ぐとの事です。

列車は左窓の遠くに海を見ながら速度を落とし、7時32分、枕崎に到着。肌寒い気候と朝の澄んだ空気が相まって、とても清々しい気分です。

「最長片道切符の旅」は小学生の頃に新書版を叔父に貰って以来幾度も幾度も読み返した作品ですが、宮脇氏がここに着いたのが'78年の12月20日、それからきっかり四半世紀の時を経てようやくやって来ました。ようやく、と書いてはいるものの、実はそういう種類の感慨ではなく、なんとも文字にならない感情が自分の中に渦巻いています。

この枕崎は元々伊集院から加世田(かせだ)を経由して枕崎へと繋がっていた南薩鉄道、後の鹿児島交通の駅として'31年に開業した駅で、国鉄の指宿枕崎線が枕崎まで開業したのがずっと時代を下った'63年になります。既に駅がある所に線路を引いたので駅舎は鹿児島交通に借り、駅員も鹿児島交通の人が詰めていたそうです。この状況は'83年6月に集中豪雨で鹿児島鉄道が不通となり、復旧する事なく'84年3月に廃止されるまで続きました。ホームと駅舎の間にある空きスペースはその名残で、以前はこの奥に向かって線路が伸びていました。

枕崎は無人駅ですが、駅舎の中には観光案内所を兼ねた売店があってそれほど寂しい雰囲気でもありません。ここでは「日本最南端の終着駅のある町到着証明書」という物を売っているそうです。また、待合室のベンチはかなり年季の入った木製の物で、これが独特な雰囲気を醸し出していました。

鹿児島交通時代から変わっていない駅舎は枕崎市のサイトによると2代目だそうで、'49年に再建されたそうです。説明がないので詳しくは不明ですが、1代目の駅舎は'45年3月から始まった空襲により焼失したのではないかと思われます。駅舎のこちら側には鹿児島交通バスの切符を売る窓口があり、無人駅ではありながら一定の活気は保っています。

ここからは駅前に停まっている鹿児島交通のバスに乗り、加世田経由で伊集院へと抜けます。要するに廃線になった鉄道の代替バスのようです。

10人にも満たない数の乗客を乗せたバスは山の中を抜け、約1時間で加世田に着きます。ここは鉄道駅だった頃の駅舎のままバスターミナルとして営業をしているそうで、ロータリーにはまるで「きかんしゃやえもん」のような可愛らしい蒸気機関車やディーゼル機関車が保存されています。

バス停の横には車庫もあり、門司港の九州鉄道記念館にあるキハ07と同系列と思われるオレンジ色のディーゼルカーや、写真では判り辛いですが蒸気機関車がいました。このディーゼルカーはうどん屋として営業していたらしいのですが、現在はただ展示しているだけのようです。また、鉄道資料館も併設されているそうで、いつかゆっくり見て回りたい場所ではあります。

9時25分、定刻より3分早く伊集院に到着。ここは不思議な作りで、左側に駅舎があるのですが、その目の前にはホームらしい物もあるのに駐車場になっていました。

↑と書いたら、ここは以前鹿児島交通のホームだったと報せてくれた方がいました。情報提供ありがとうございました。

荷物を置いているので、伊集院からは9時43分発の437Mで一度西駅へと戻ります。車両は急行形電車でしたが、デッキの壁は切り取られて車端部はロングシートになっていました。

10時1分に西駅に着き、コインロッカー経由で次の列車である10M「つばめ10号」が待つホームへと降りて名物のとんこつ弁当を買います。この「つばめ10号」は10時25分発で、そういえばこの間新大阪から乗って来た31レ「なは」は10時23分着だったな、とホームで到着を待ちます。

九州新幹線部分開通により廃止の噂もあった「なは」ですが、結局熊本打ち切りではあるものの存続が決定したそうです。新大阪ー熊本間の寝台特急なら「明星」に名前を変えた方がいいかな、とも思いますが、まずは生き残った事を素直に喜びたいと思います。ただ、西鹿児島と言えば以前は「富士」「はやぶさ」を始めとする数々の寝台特急が来る駅だったのが、遂に1本も来なくなってしまう事に寂しさは感じます。

起きてから何も口にしていなかったので、早速とんこつ弁当を食べます。名物とは聞いていましたものの、名前から内容が想像出来ていませんでしたが、要するに骨付きの煮豚という感じでした。たまに骨片が出て来るのが少し食べ辛かったですが、なかなか美味しい駅弁でした。

鹿児島本線の八代ー川内間は3月からは肥薩おれんじ鉄道に移管されるので、鹿児島本線としてのここを通るのも最後になりそうだな、と思いつつも睡眠不足と寝不足から来る睡魔には勝てず、うとうとしながら通過してしまいました。

12時58分、熊本着。ここでの乗り換えは今回の旅行で一番タイトで、わずか2分の待ち合わせで13時きっかり発の73D「あそ3号」に乗り継ぎます。熊本滞在中に「つばめ10号」と「あそ3号」の発着番線を調べたら駅の端と端だったので、「つばめ10号」の車掌さんに階段が近い号車を教えてもらい、小走りに「あそ3号」が待つ0B番線へと急ぎます。その甲斐あって間に合ったのですが、同じ乗り換えをした人はほとんどいないようでした。

13時16分発の武蔵塚で、隣のホームに見慣れない車両がいました。よくよく見てみると「SLあそBoy」に使われている改造型50系客車のようで、乗客も乗っています。地元の人が多いらしい周りのおじさんおばさんも口々に「あそBoyだ」「あそBoy動いとる」と言っています。確かもう運転期間は終わったはずだと思って見ていると、先頭には働き者のDE10がいました。どうも団体用の臨時列車だったようです。

それにしても、おじさんおばさん達が客車を見ただけで「SLあそBoy」用の物だと判ったという事は、地元では存在がかなり定着しているようです。

またも立野のスイッチバックを抜け、右窓に阿蘇山を見ながらカルデラの中を進みます。「SLあそBoy」の終着駅である宮地発は14時4分。構内には方向転換用のターンテーブルがありました。

宮地の次の波野で列車交換の為に運転停車します。次の駅と言っても駅間は10.7Kmもあり、走るにつれて雪が降り始め、波野ではしっかりと積もっていました。

この波野は九州で一番標高が高い所にある駅だそうで、海抜は754mであるという案内看板がホームに立っていました。また、逆側のホームには地元の子供達が描いたらしい大きな看板もありました。それにしても、結構な雪です。

山を下るにつれて今度は雪がなくなっていき、15時38分着の大分には全くありませんでした。

いよいよこの旅行も最後の列車、「富士」を残すのみとなりました。1時間少々の空き時間があるので商店街をぶらつきます。その時に見掛けたのがこのPagani Zonda。モデル名とかはよく判りませんが、ゲームのGran Turismoでしか見た事がない車です。ビルの1階部分のちょっと奥まった不思議な場所に展示されていました。

昼前にとんこつ弁当を食べたっきりなので、お腹が空いています。そこで入ったのがこのラーメン屋。実際には餃子も食べました。

満腹になって駅ヘ戻ろうとすると、C55が保存されている公園に出ました。吉松駅の横にいたのと同じ形で、あちらは52番機でこちらは53番機。案内看板によると製造も同じ'37年で、'39年から'71年までは大分、宮崎、若松と同じ機関区で一緒に働いていたようです。どちらも門鉄デフを付けていますが、こちらの方がより典型的な形でした。

何故か駅前のパチンコ屋の入口で制服姿の女子高生2人組が漫才を披露していたのを横目に酒やつまみを買い込み、ホームへと向かいます。既に2レ「富士」は入線して乗客を待っていました。牽引するのはEF81で、この上り「富士」のみが九州内と関門トンネルを同じ機関車が牽きます。

16時49分、僅かな乗客を乗せた「富士」はゆっくりとホームを離れました。乗客の少なさは嘆かわしい以外に表現のしようもありませんでしたが、それでも個室B寝台は7〜8割の部屋が埋まっていました。

この日の寝台は個室B寝台の「ソロ」上段。要するに独房ではありますが、通常の開放型B寝台と同じ料金で乗れるので人気があります。

左上:窓際の肘掛けと背もたれ。枕元には目覚まし時計や暖房のコントロールパネルがあります。枕灯はイベント映像業者が現場で使うのと同じ物でした。
右上:逆側には折り畳み式のテーブル、くずもの入れ、灰皿、鏡が。座ると目の前に鏡があって落ち着かないので、固定しているボルトの上2つを少しだけ緩めてビニール袋を挟みました。
左下:階段は部屋の中に取り込まれています。ここでのみ立ち上がる事が可能です。階段を上がった所の壁には絵が入った額縁が飾られています。
右下:ベッド足許方向には廊下の上部を利用した荷物置きがあります。清掃用の物だと思いますが、奥には100Vの電源があって普通に使えました。階段との間には転落防止用のガラス板があります。ドアの施錠は浴衣の上に乗っている鍵で行います。

19時ちょうどに小倉着。2階建てならではの普段見られない景色が楽しいです。

門司に19時8分に着き、7分間停車します。普通ならここで機関車交換があるので当たり前の停車時間なのですが、この上りの「富士」のみ下関まで同じ機関車が牽くので不思議です。

24系と14系の連結部。現在の「富士」は「さくら・はやぶさ」と同じ編成を共用しているので、こういう場所があります。「さくら・はやぶさ」は途中の鳥栖で分割/併合をするので乗客数に見合った両数になりますが、「富士」は東京ー大分間を通して同じ編成で走るので、今となっては多過ぎる感もある11両編成+電源車で運用されています。

ちなみに僕が乗っている個室B寝台車は「さくら」に使われる14系側、個室A寝台車やロビーカーは「はやぶさ」の24系側になります。

下関には19時22分に着き、機関車交換の為に5分間停車します。見物に行くと、既に数人集まっていました。

翌朝目が覚めると浜松で、名古屋から乗り込んでいる車内販売が巡回して来たので朝食を買ってロビーカーへと行きます。食べながら同封されていた説明書きを読むと、「東海道新幹線 21世紀 私の食べたい駅弁コンテスト」というのの大人の部でグランプリを受賞した物だそうです。確かに色々と凝った作りになっています。

新聞を流し読みしながらくつろいでいると、富士山が左窓の中で段々と大きくなって来ます。焼津を通過してしばらくすると右窓に駿河湾が見え始め、さっきまで左窓にいたはずの富士山が今度は右窓に現れます。多分興津(おきつ)ー由比間だと思いますが、宮脇氏の作品にもこういう場所があると紹介されていました。

7時59分着の富士にて。最近はコンテナ車ばかりで今や絶滅寸前のパレット車と呼ばれるタイプの貨車ですが、この辺りは製紙工場が数多くある関係で今でも多数働いています。しかも2軸づつ台車にまとめられているボギー式ではなく2軸式の小型の貨車で、その点でも昔ながらの光景を残しています。

湯河原ー真鶴ー根府川の辺りにて。昔からブルートレインの写真と言えばこの辺で撮影された物が多く、一大撮影スポットとなっていますが、今回初めて明るい内に通ってその理由がよく解りました。緩いカーブが連続して続き、車内から見ていても編成を見通せます。と同時に、やはり長い編成の列車は良いなあと再認識しました。

そうこうしている内に列車は段々と見慣れた風景の中に分け入って行き、遂に東京モノレールまで出て来ました。

9時58分、「富士」は定刻で東京駅のホームに滑り込みました。

僕が乗っていた個室B寝台車の個室側はこのように小さな窓が互い違いに並んでいます。物の本によるとこの車両は元々24系だったそうで、改造を受けて14系に編入されたそうです。

「富士」の編成の回送には今朝「あさかぜ」を下関から牽いて来たらしいEF66がやって来ました。多分「富士」を牽いたEF66は次に到着する「さくら・はやぶさ」を回送するのでしょう。

帰る前にホームの喫煙コーナーで一服していたら、同じく一服していた若い女性2人組が「いいよね、寝台って」「一度乗ってみたいよね」と話しているのが聞こえました。まずは食堂車も付いている「北斗星」あたりに乗ってみればいいじゃないか、と思いながら東京駅を後にしましたが、潜在的に乗ってみたいと思いつつもその一歩を踏み出さない原因は何なのだろうかとも思います。

ともあれ、最後の宮脇氏の足跡を辿る旅行も無事終わりました。今後は日付を合わせてどこかに、という形で出掛ける事はしなくなると思いますが、国中のどこへ行っても氏の足跡は残っているので、折りを見て氏の作品の舞台となった場所は紹介したいと思います。

戻る