「セーラー服と機関銃」並に不似合いな単語が並ぶページタイトルになりましたが、この日の目標は飯能で肉汁うどんを喰い、秩父鉄道で蒸気機関車牽引の「パレオエクスプレス」に乗るという2つだったのでこうなりました。旅程は以下の通りです。
駅 名
時 刻
列 車
線区名
池袋
09:30発
ちちぶ13号
西武鉄道
西武池袋線
飯能
10:09着
12:12発
ちちぶ17号
吾野
通過
西武鉄道
西武秩父線
西武秩父
12:47着
西武秩父ー御花畑間徒歩移動
御花畑
13:28発
1525
秩父鉄道
三峰口
13:49着
14:03発
5002レ
パレオエクスプレス
熊谷
16:18着
16:56発
948M
高崎線
大宮
17:33着
17:41発
1718K
東北本線
武蔵浦和
17:52着
18:02発
1745E
武蔵野線
西船橋
18:48着
こんな事を書くと素性がかなり割れてしまいますが、僕には地元と呼べる場所が4ヶ所あって、1つ目が産まれ育った杉並区北西部と隣接する練馬区南西部、武蔵野市北東部、2つ目が中学3年から高校卒業まで通った(内2年間は寮生活)飯能、3つ目が1年間留学していたロスアンゼルスのハリウッド(チャイニーズ・シアターの裏手、歩いて5分程の所に住んでいました)、そして最後が今住んでいる所、という事になります。今回はその内の2つ目、飯能に行きますが、少なく見積もっても10年は行っていない場所なのでどう変わったのかも気になります。
まずは地下鉄で池袋へ。飯能へは普通の電車や有楽町線からの直通電車でも行けますが、やはり4ドアロングシートの車両で行っても全然楽しくないのでレッドアローに乗ります。池袋でレッドアローに乗るには普通の改札とその奥の特急専用の改札を通る必要があるのですが、すぐ次に出る列車の特急券は最初の改札を抜けた先でしか売っていません。中に入っても時間が余りますが、仕方がないので改札に入り、券を買って時間潰しに構内のドトールに入りました。
構内を望むカウンターでアイス・ラテとミラノサンドBの朝食を摂っていると、店員に向かってレジ越しに大きな声でマッチちょうだいと声を掛けているおばさんがいました。おばさんはその不運な店員に今度の中日の監督の落合って下の名前はなんだっけと大声で話し掛け続けています。確かにこの日のスポーツ紙の1面にはそういう見出しが踊っていました。あまりに大声なので隣にいた40過ぎのおじさんと視線を合わせ、苦笑を交わします。おばさんが去った後おじさんが口を開き、巨人ファンだと言うそのおじさんと暫くプロ野球談議に花を咲かせました。
久し振りの西武池袋線は高架複々線化された場所があったりで色々と変わっていました。写真は知らぬ内に4番線までホームが出来て特急停車駅になっていた入間市近くの大カーブ。ロングシートの車両でカーブの内側に座っていると車窓が空のみになる場所です。中学/高校の同期で卒業後に暫く一緒にバンドをやっていた奴等がMGRというバンドというかユニットで一応プロになっているのですが、鶴谷というその中の1人がここで外を見ながら「あー空飛んでる」と言っていたのを思い出しました。
10時9分、飯能着。ここは平地なのにスイッチバック駅になっていて、この写真の背後は行き止まりになっています。その線形は昔のままですが、他は全然違う駅になっています。昔は跨線橋などなく、構内の踏切を渡って奥のホームへ行くといういかにもローカル駅らしい形になっていました。
駅前。駅舎にはPepeと飯能プリンスホテルが併設されていて想像を絶する変わりようです。
以前はこの写真の左側に地上駅舎がありました。しかし駅前広場自体は大して変わっていなくて、真中に見える白いみずほ銀行も当時の第一勧業銀行から屋号が変わっただけです。その逆の角の1階は本屋でしたが、今は携帯電話屋になっています。その一角を囲む形でL字型になっているパチンコ屋は屋号が変わったもののそのままです。ただ、この写真に写っている側はゲームコーナーでしたが、今は景品交換所になっていました。このパチンコ屋の以前の屋号が何だったか思い出せなかったので、以前この店のライバル店でアルバイトをしていた高校時代のバンド仲間で今は矢井田瞳のプロデューサーをやっている片岡という男に電話して訊いてみましたが、彼もやはりなんとか会館だったという所までしか思い出せなくて悶絶していました。
この駅前広場には寮生時代に週1回、朝早くに掃除をしに来ていました。掃除を終えてから寒い駅前で飲む缶入りコーンポタージュスープが美味しかったのを覚えています。この掃除は暫く続いたのですが、寮監が変わったか何かで立ち消えになりました。ちなみにこの写真の背後には大きな立体駐車場がありますが、ここにはその当時既に潰れて久しかったボウリング場がありました。
商店街の進んだ先から駅を見るとこんなです。左に見えるのは丸広百貨店。これはそのままです。ダンキンドーナツはそのままミスタードーナツに入れ替わっていました。テナントは代わっても建物はそのままという所が多く、建て直されたと思われる建物は全体の1〜2割程度だけでした。
歩いて10分もない所にある東飯能駅。ここは八高線と西武秩父線の接続駅なのですが、丸広が建って駅に直接繋がっているなど、飯能以上に変わっていました。昔はいかにも国鉄のローカル駅という感じの小さな木造駅舎で、タラコ色のディーゼルカーが行き来していた駅でした。
国際興業バスの車庫。バス自体は新しくなっていますが、カラーリングやロゴは以前のままでした。しかし、全ての時間帯で1時間に2本以上走っていたり、終バスの時間が遅くなるなどかなり便利になったようです。昔は1本逃すと1時間半待ちとか平気でありました。
駅から暫く歩くと市民図書館があるのですが、そのすぐ近くにあるのがこの飯能銃砲店。普通に銃を売っている店が駅の近くにあるとはと初めて見付けた時に驚いた店です。軒先に猟銃やクレー射撃のポスターがあるので今でも銃は取り扱っているようですが、以前売っていた猟犬はさすがに止めたようでした。
市民図書館の自転車置場から奥を見ると名栗川の飯能河原が見えます。手前の階段から降りる事が出来ます。ピクニック客が多い場所で、この日も食べ物が入った袋を下げた結構な人数のそれらしき人達と擦れ違いました。僕としては小学校の遠足で初めて来た場所なのですが、そんな遠足で行くような場所に毎日通う事になるとは思いませんでした。
駅の方へ取って返し、飯能での最大の目的、こくやへ向かいます。セブンイレブンの角を曲がるという記憶があり、それを頼りに歩いていたのですが、そのセブンイレブンは既に潰れてレンタルビデオ屋になり、更にそれも潰れていました。
こくやは旧家そのままという店構えで、高校時代に同期生が見付けて来て以来卒業まで時折行っていた店ですが、この店構えは当時でも驚愕に値しました。ふと思い出して検索したら今でもそのままの姿で営業を続けている事を知り(マニアの間では有名なようです)、また驚きました。ただ、当時は看板などない単なる家だったと思います。また、入口に「おそばあります」という貼り紙がしてあって、これも意外でした。
店内はこんなです。完全に普通の家です。この右側は土間になっていて、その奥に調理場があります。注文をして座っていると、僕が注文を済ませた事を知らない他の店員さんがメニューお持ちしましょうかと言って来ましたが、この店にメニューがあるなんて初めて知りました。
ちなみに「肉汁」の読み方ですが、店員さんは上品に「にくつゆ」、客は野趣溢れる「にくじる」と言うのが主でした。僕は上品に「にくつゆ」と言おうと思っていましたが、口をついて出たのは「にくじる」でした。
店の中から表を見るとこんなです。店内では店の誰かの子供らしい3歳位の可愛い女の子が2人連れの女性客と機嫌良く遊んでいました。時間が止まったかのようなこの店で、彼女だけが外界の時間の流れの中にいるようでした。
これが肉汁うどんの大。多分¥650。うどんには並、大、特の3サイズがあって、特はとんでもない量です。また、うどんは冷たいのと暖かいのから選べます(汁に付けて食べるのは変わりません)。検索して行き当たったサイトで天麩羅があると書いてあったのでイカ、野菜かき揚げ、ごぼうの中からかき揚げも頼みましたが、残念ながら揚げ立てではありませんでした。
右にあるのが主役とも言える肉汁です。中身は豚肉、椎茸、長葱、三つ葉等です。汁は暖かく濃い目の味付けになっていて、これがなんとも美味しいのです。少し甘味が強いのですが、上品に仕上がっていて甘い料理が苦手な僕でも大丈夫です。
駅に戻るとまた意外な事が判りました。いつの間にか駅に南口が出来ていました。確か駅のこちら側にはナチスの司令部のような形の駿河台大学(今はどうだか知りませんが、校舎の外壁に鷹だか鷲だかの彫刻がありました)位しかめぼしい物はなかったはずです。それだけ宅地化が進んでいるという事なのでしょうか。
西武鉄道と言えばこのライオンズニュース。小学生の頃から10年間ほど西武ファンだった僕は、この勝った試合しかレポートしない大本営ニュースが大好きでした。しかしこの歳まで現役だったのは驚異的な事とは言え、遂に伊東も引退ですか。往年の黄金期に活躍していた選手は今や潮崎と清原、それに工藤くらいしか残っていません。時の経つのは速いものです。
飯能から西武秩父へはこの「ちちぶ17号」で移動します。前にも書いた通り、ここはスイッチバック駅なので片方は行き止まりになっています。その先のグレーの建物は消防署なのですが、ここは昔のままです。
この「ちちぶ17号」はここから方向転換をするのですが、みんな席を回転させずに後ろ向きのまま大人しく座っていました。僕は後ろ向きの席は気持ち悪くて嫌い(医学的にも健康に悪影響を及ぼすそうです)なのですが、普通はあまり気にしない物なのでしょうか。
川に沿って走り、正丸峠を越えて西武秩父に着きます。隣の横瀬にはセメントの積出施設もありましたが、貨物輸送は数年前に廃止されてしまったそうで、EF65の基本設計を元にした国内の私鉄で唯一のF級電気機関車、E851型4両も廃車になってしまいました(貨物輸送のみだったこの機関車にせめて最後に旅客列車を牽かせてあげたいという事で、JR東日本から12系客車6両を借用してさよなら運転を行ったそうです)。横瀬近くの石灰岩を切り出していたと思われる山はここ西武秩父の駅からもよく見えます。3月に横を通り掛かった筑豊の香春岳と違い、一応山の形は残っていましたが、それでもやはり痛々しい姿を晒していました。
同じ場所で逆を向くとこうなっています。真中奥に見える黄色い昇りの所から先は駅舎に併設されている秩父仲見世通りで、土産物屋や飲食店が軒を連ねる100m程の商店街になっています。秩父鉄道の御花畑駅へはここを通って行きます。
仲見世通りを抜け、線路端を少し歩いて踏切を渡ると御花畑の駅に着きます。その間約5分程です。
同じ場所で振り向いて踏切から西武秩父の方を見るとこんな感じです。左側の線路は西武線との接続線になっていて、時間帯によって直通列車も走っています。
御花畑はこんななんとも懐かしく、慎ましやかな駅でした。自働券売機はなく、右奥に見える窓口で駅員さんから切符を買います。左に見える売店では「パレオエクスプレス」のTシャツも売っていました。
8月の山形鉄道に続いてこの秩父鉄道でも乗車券が硬券でした。行先も印刷されています。御花畑の鋏はタージマハル型でした。後に見える立ち食いそば屋は天麩羅がいつも揚げ立てで美味しいそうですが、さすがに肉汁うどんでお腹いっぱいなので今回はパスしました。
待っていると踏切の警報音が鳴り、同じく電車待ちをしていた女子中学生達が慌てて改札の方に向かいますが、改札はまだ開いていません。どうなるのかな、と様子を見ていると石灰岩を満載した貨車を20両位連ねた貨物列車が通過して行きました。女子中学生達はなんだ貨物かーと笑っていましたが、最近では珍しくなりつつあるコンテナ以外の貨物列車がここでは当たり前の存在であるようでした。
時間になり、13時28分発の三峰口行き1525が入って来ました。車両は昔懐かしい元国鉄の101系。何故か3両編成の中間の車両だけが非冷房です。JRでは101系は絶滅寸前、後継車の103系ですらどんどん数を減らしているのに、ここでは主力として活躍しているようです。
13時49分、三峰口着。一旦改札を出て窓口で熊谷までの切符を買い、また中に入ります。切符はやはり行先が印刷された硬券でした。
改札を抜けて構内の踏切を渡ると「パレオエクスプレス」は既に発車準備を終えていました。客車は元国鉄の急行型、12系です。両端に発電用ディーゼルエンジン付きの緩急車スハフ12、間に中間車のオハ12が2両という4両編成でした。元々は旧型客車を使っていたそうですが、残念ながら'00年から12系に置き換えられたそうです。
そしてこちらが「パレオエクスプレス」の主役、C58 363番機。7月に函館で乗った「SL函館大沼号」を牽いていたC11と違い、運転台の後にテンダーと呼ばれる石炭と水を積んだ炭水車を繋いでいます。このような形の蒸気機関車をテンダー型と言い、C11のような一体型をタンク型と言います。
秩父鉄道には急行「秩父路」も走っていて、「パレオエクスプレス」の隣に留まっていました。車両はこれも元国鉄の急行型、165系の改造型。この写真には右から165系、C58、12系、更に左に101系がちょっとだけ写っていて、まるで国鉄です。
右を向くとC58の方向転換に使われている転車台があります。バック運転が得意なC11を始めとするタンク型と違い、大抵のテンダー型はバックでの運転を考慮して作られていません。なのでテンダー型を使うには両方の終着駅近くに転車台が必要です。この秩父鉄道ではここ三峰口と熊谷近くの車両区にあるようです。
左奥には貨車が見えますが、ここには引退した車両が保存されていて、転車台の左側には貨車が並んでいます。
転車台の右側には電車と電気機関車、貨物列車用の車掌車がいます。凸型の可愛い電気機関車が見えます。
炭水車と石炭。水蒸気がもうもうと立ち昇っています。この通り、運転台からの後方視界はゼロです。
このC58 363番機は'44年に製造されてから山田線、仙山線で走り、'50年からは長町機関区で入れ替え用に使われ、'65年に本線復帰して石巻線、陸羽東線、磐越西線、陸羽西線と東北地方ばかり渡り歩いて'72年に廃車、'88年にこの「パレオエクスプレス」用に秩父鉄道で復活するまでは小学校で保存されていました。
発車までの間、乗客は運転台の中に入ったり先頭部に登ったりと好き好きに過ごしています。
'88年から走っているこの「パレオエクスプレス」の「パレオ」は秩父で化石が発掘された約1,500〜2,000万年前の海棲大型哺乳類(カバのような生物で、恐竜ではありません)、パレオパラドキシアに由来しています。しかし、ただ単に地元で化石が出たという事であやかっただけではないようです。
調べてみると、'75年に堀口勉さんという高校生(確かフタバスズキリュウも高校生が見付けたような気がします)によって秩父市内の荒川河川敷で化石が発見され、その発掘を秩父鉄道傘下の秩父自然科学博物館(後に県立に移管)の学芸員、坂本治さんが発掘費を博物館側から降ろしてもらえなかったために自費で始め、後に秩父鉄道本社の理解を得られて発掘を完了した、という因縁があります。
また、'81年には秩父セメントの子会社で採掘作業に従事していた坂本道夫さんが採掘作業中に化石を発見(元々化石収集が趣味だったそうで、この方以外の作業員では発見出来なかったでしょう)、前出の坂本治学芸員に鑑定を依頼した所、パレオパラドキシアの全骨格化石であると鑑定されたのが秩父での2例目だそうです(パレオパラドキシアは最近、宮城県でも発掘されたそうです)。この方はその後、'83年に同じ場所で史上初の発掘となる体長2mの大型硬骨魚類、チチブサワラの化石も発見しています。
発車時刻が近付いて来たので自分の席に移動します。「パレオエクスプレス」に乗るには乗車券の他、¥500の整理券の購入も必要になりますが、席は全席自由です。僕が座ったのは後から2両目のオハ12の後ろ寄り。カーブで窓から機関車を見たいので本当なら一番後がいいのですが、一番後のスハフ12は床下のディーゼル発電機が動いていたのでここにしました。車内は灰皿が撤去されている以外は殆ど国鉄時代のままのようでした。車内放送も電子音版ではあるもののハイケンスのセレナーデが流れ、やはりこれも国鉄時代のままでした。
汽笛を鳴らし、煙をもくもくと上げながら発車(2.4MB / 35秒間)
北海道以来の久々のムービーです。観て頂くと判ると思いますが、この日の機関士さんは引き出しが非常にスムーズで、発車時に殆どショックがありません。これには停車中にブレーキを緩めて編成の連結部を伸ばし切る等の技術が必要だそうです。最近ではこれを綺麗に出来る機関士さんも貴重なようで、ブルートレインに乗っていて寝台から転げ落ちそうになる事もしばしばです。
14時30分、御花畑に戻って来ました。ここはホームが短いので後寄り2両のドアが開きません。それどころか踏切に編成が掛かってしまうので発車まで踏切は閉まったままになります。
ここまでの道中、所々で時速5Km程まで減速する場所がありました。何があったのだろうと不思議に思っていると沿線に撮り鉄の人が沢山いました。どうも途中の撮影ポイントでは撮り鉄サービスとして減速し、煙も盛大に出しているようでした。そういった細かい所にも配慮が行き届いています。
14時35分発の秩父で見掛けた電気機関車。今でも貨物列車が元気に走り回っている秩父鉄道ではこの型の機関車が主力機のようで、この他にもあちこちで10両以上見掛けました。車体には番号しか書いてないので形式名を調べてみたのですが、サイトによってデキ200形と書いてあったり、デキの後に車体の番号を書いてあったり(例えばこれならデキ108)でいまいち判然としません。
同じく秩父にいた有蓋車。以前はどこでも見掛けましたが、最近ではこのタイプの貨車はまず見掛けなくなりました。
上長瀞を通過する列車に手を振るおばさん。「SL函館大沼号」でもそうでしたが、沿線で手を振る人が本当に多いです。中にはC58を見て何かを思い出しているのか、口元を引き締めてじっと機関車を見詰め続けているおじいさんもいました。
15時3分、長瀞に到着。ここで9分間程停車するので機関車の方に行ってみました。既に人だかりが出来ています。左にいるのは西武鉄道からの乗り入れ列車です。
ホームの先端部は芝生になっていました。ここでみんな思い思いに写真を撮ったり機関士さんに話を聞いたりしています。ここで2組の人達にカメラのシャッターを押してくれと頼まれたので応じましたが、どちらも銀塩の使い捨てカメラでした。これだけデジタルカメラとパソコンが普及しても未だ使っている人もいるのだと変に感心しました。
こうやって周りを見回すと乗客の殆どが家族連れやカップルで、いわゆる鉄の人は殆どいないようでした。見掛けたのは僕の席の近くでカメラも持たずに時々左右の席を移って車窓に見入っていた筋金入りの乗り鉄のおじさんと、途中で僕の前の席に約10分間座っていた録り鉄(写真を撮る撮り鉄と違って、録音する事を楽しむタイプの人。他に部品等を盗む盗り鉄もいますが、これは単なる犯罪者)の人くらいでした。この録り鉄の人は窓を開けるなりふさふさの毛皮のようなウインドスクリーン付きのマイクを外に出していたのですが、その様を駅の待合室で携帯をいじっていた女子高生が宇宙人を見るような眼で見ていたのが可笑しかったです。
運転台の中を見せて貰いました。石炭の補給にはシャベルを使っているようです。中に入っていた若い男の人2人組に機関士さんが釜の蓋の開け方を教え、2人組が開けてみて喜んでいました。すると別の機関士さんが今は火が弱いから大丈夫だけど、強い時は前髪や眉毛がチリチリ焼けるんだよ、と脅かしていました。
機関車の次位に繋がれたスハフ12の貫通扉から。電車やディーゼルカーと違って、客車の編成端は自由に出入り可能な形式が多いです。
車内は結構乗客の入れ替わりがあるものの、大体いつも半分ちょっとのボックスに人がいる、という混み過ぎでも空き過ぎでもない丁度いい乗車率でした。
線路と並走する道。車から手を振る人も多かったです。この車列の先頭にいる白いカローラだかスプリンターだかは機関車の斜め後から動きませんでした。この先に信号があってそこで列車と離れてしまったのですが、少しの後に結構なスピードで追い掛けて来てまた機関車の斜め後に貼り付き、並走区間の最後までそのまま走っていました。どんな人が運転しているのだろうと思って車内を見ると老夫婦で、おじいさんが眼を爛々とさせながらハンドルを握っていました。
15時54分武川着。ここで4分間停車します。構内には小さな車掌室付きのホッパー車がいました。
ホームに降りると妙に懐かしい形の灰皿がありました。あれ、私鉄のホームは全面禁煙になっちゃったんじゃなかったっけと思いましたが、秩父鉄道は東京都を通らないので関係ないようです。
16時18分、2時間15分も乗っていたとは思えない程あっという間に熊谷到着。編成は暫くそのまま留置していて、その間乗客は記念撮影に精を出します。奥には東北新幹線の高架橋が見え、なんとも妙な取り合わせになっています。
ここにも165系の改造車がいました。101系との間にいるのは多分都営三田線辺りを走っていた車両だと思います。「パレオエクスプレス」はここが終着駅ですが、秩父鉄道自体は東武伊勢崎線との接続駅羽生までとなっています。
少しの後、編成の逆側にデキ200形(?)の201番機が連結されます。ここから車両区までこの機関車が牽いて行きます。この201番機は他の同型機と違って12系と同じ色に塗られています。編成は16時30分に回送されて行きました。ホームにいる子供達のバイバイの声に機関士さんや車掌さん達もバイバイと言いながら手を振り返しています。
熊谷には今まで降りた事がなく、ただ単に大宮と高崎に挟まれた中途半端な街、というイメージしかありませんでしたが、どうも実際にその通りなようでした。高い空だけが印象的でした。
考えてみるとここまでJRに乗らずに移動して来ましたが、熊谷から大宮まではこの948Mに乗りました。この列車は上野行きだったのでそのまま乗っていても良かったのですが、なんとなく大宮から埼京線(正式には埼京線という路線は存在せず、東北本線の別線扱いだそうですが)、武蔵浦和で武蔵野線に乗り換えて西船橋に出て地下鉄というルートで帰りました。武蔵野線で乗ったのは秩父鉄道の101系の直系の後継車、103系で'66年製の車両でした。埼京線と武蔵野線は通勤路線な上に日が暮れたので写真は撮っていません。
終ってみると、今回の旅行の特筆すべき点はコストにありました。帰ってから計算したところ、地下鉄の運賃や食費を入れても¥7,000も掛かっていませんでした。いつもはわりとコスト度外視で旅行をしているので、我ながら意外でした。「パレオエクスプレス」は3月から11月までの週末と祝日にいつも走っているので、首都圏の方は一度出掛けてみてはいかがでしょう。整理券はJR東日本のみどりの窓口でも購入可能です。
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