6月のわたらせ渓谷鐵道に続く宮脇氏追悼旅行第2弾として、今泉へ行って来ました。今泉は「時刻表昭和史」のクライマックスとも言える「第13章 米坂線109列車」に登場する駅で、当時高校生だった宮脇氏はここの駅頭で玉音放送を聞き、敗戦を知りました。

駅 名
時 刻
列 車
線区名
東京
06:04発
41B
やまびこ41号
東北新幹線
福島
07:42着
08:33発
431M
奥羽本線
米沢
09:19着
09:21発
433M
赤湯
09:36着
09:48発
207D
山形鉄道
フラワー長井線
荒砥
10:37着
10:43発
212D
今泉
11:12着
12:49発
214D
赤湯
13:08着
13:11発
439M
奥羽本線
山形
13:42着
14:03発
337D
北山形
14:08発
左沢線
左沢
14:46着
14:55発
340D
北山形
15:36発
山形
15:41着
奥羽本線
15:47発
3844M
仙山16号
羽前千歳
通過
仙山線
仙台
17:02着
21:24発
3030B
はやて30号
東北新幹線
東京
23:08着

実はこの日の旅程の山形から先は違う形で組んでいました。山形で急遽予定を変更してこの形になったのですが、それに関しては本文中にて。

ここ数日ずっと降り続けている雨の中、始発の地下鉄で東京駅へ。最初の列車はこの東北新幹線始発の41B「やまびこ41号」です。もう少し遅い列車でも福島から先は同じなのですが、考えてみると福島には降りた事がなかったのでこれにしました。車両は100系の顔をした200系2000番台。本来200系は0系のような丸顔なのですが、この2000番台は100系タイプの顔になっています。

奥に見えるのはやはり始発の1A「のぞみ1号」。6時きっかりに発車して、10時53分に博多に着きます。

この列車には普通車と合造になっているビュッフェ車両が付いていました。しかし、既に営業はなくなっていて、車内販売の荷物置き場になっていました。

この写真を撮ってから自分の席に移動したのですが、そこには我が目を疑う光景が。進行方向左側の2列席は普通に前向きなのですが、右側の3列席は前半分が前向き、後半分が後ろ向きになっていました。何の冗談だろうと思いながら席を回転させようとそれらしいペダルを探したのですが、どこにもありません。他の乗客は別に不思議に思う様子もなく、大人しく後ろ向きに座っています。おかしいな、と思いつつ他の車両も見てみましたが、やはり同じ作り。どうもこの形式はこういう物らしいです。仕方がないので福島まで後ろ向きで行きましたが、妙に疲れました。

福島までの間、雨はずっと降り続け、空はどんよりと曇ったままです。まるで夜行列車で明け方を迎えたような雰囲気でした。

福島に着き、小雨のそぼ降る駅前を少し歩きます。でも開いている店はドトールしかなかったので駅へ引き返し、阿武隈急行と福島交通のホームを見物しに行くと、ちょうど槻木行き907Mが発車する所でした。ここは左がJR東日本のホーム、列車がいるのが阿武隈急行のホーム、その向かいの右奥に福島交通のホームと3社のホームが一箇所に集まっています。

駅の周辺には開いている店もなさそうだったので構内のそば屋で朝定食を。鮭だか鱒だかの切り身が意外と美味しかったです。

福島から米沢まではこの431Mに乗ります。ぱっと見ても判るように、レールの間隔が広いです。奥羽本線の福島ー新庄間は山形新幹線として東北新幹線からの直通列車を通すために国鉄/JR在来線の標準である狭軌(レール間隔1067mm)を新幹線の規格である標準軌(レール間隔1435mm)に改軌したのでこうなっています。

ただ、改軌したからといって新幹線の車両がそのまま走れるかというとまた違って、今度は車両限界と言って、駅のホームや架線柱、トンネルといった車両と干渉する物との兼ね合いが問題になります。山形新幹線や秋田新幹線(実はこれらは路線の愛称であって、正式な路線名は今でも奥羽本線と田沢湖線です)といったフル規格ではない新幹線の車両が妙に小さいのは、この車両限界が在来線の規格で出来ているためです。

この車両は在来線の車両ですが、無論普通の仕様ではこの路線を走れないので台車が標準軌用になっています。普通列車はここ専用の車両を仕立てれば済むのですが、直通列車はこの改軌のあおりを受けて通れなくなり、奥羽本線経由で上野ー青森を走っていた「あけぼの」は新潟経由になってしまいました。

同じホームの逆側には福島ー仙台間の快速「仙台シティラビット」がいました。こちらは普通の狭軌です。

どうも米沢と聞くと「ヨネザアド」「サンダンス・キッド」「なでら山」「リロコトヒ」といった単語が脳内を駆け巡ります(解る人は相当.....です)が、その米沢までの間には板谷峠越えがあります。今は新幹線車両も在来線車両もすいすいと越えてしまいますが、以前は専用の機関車で後押ししたり、4連続でスイッチバック駅があったりで大変な難所でした。また、途中の峠という駅には「峠の力餅」の駅売りがいるので買いたかったのですが、殆どの窓が開かない上に半自動ドアを開けると警報音がけたたましく鳴ってしまうので諦めました。

米沢では2分間の接続で左に見えている433M山形行きに乗り継ぎ、赤湯で降ります。山形鉄道のホームへ行こうとすると、臨時の8182M「つばさ182号」が入って来ました。お盆真っ只中だからか、車内は完全に席が埋まっていました。

赤湯からは山形鉄道207Dに乗ります。山形鉄道は元々は国鉄長井線だったのですが、やはり赤字路線として廃止指定され、'88年10月に第3セクターに移管した路線です。車両はどこでも見掛けるレールバスタイプです。

今泉へ行くには米沢から米坂線か、赤湯からこの山形鉄道で行けるのですが、米坂線の接続があまりに悪いので山形鉄道で一度終点の荒砥まで行き、すぐに今泉まで引き返すという旅程を組みました。

山形鉄道のホームから見た山形方面。左側が狭軌の山形鉄道、右が標準軌の奥羽本線で、この写真でもその差がはっきりと判ると思います。また、レールそのものも違うようです。レールにも規格があって、1mあたりの重さで30kgレールとか50kgレールとか色々あります。無論重い方が太さや高さが大きく、高速走行が可能な高規格路線という事になります。

今回の旅行ではこの「小さな旅ホリデー・パス」を使いました。元々は普通に乗車券を買うか、周遊きっぷの福島・蔵王ゾーン又は山寺・松島ゾーンを買おうかと思っていたのですが、11日に今泉へ行かれた方から掲示板で仙台支社が発売しているこの切符の存在を教えていただき、これにしました。

朝の時点で「やまびこ41号」の指定券しか持っていなかったので。東京駅で往復の切符を買った時に窓口氏に福島から仙台の切符はどうしますか?と訊ねられたのでこの切符を福島で買います、と言ったらやはり存在を知りませんでした。JR各社間どころか、同じ会社の支社が違うだけでこんななのはどうかとも思います。

田園地帯の中を約50分間揺られ、荒砥に10時37分着。なんとあんなに降っていた雨が小止みになっています。

ここの1つ手前の鮎貝という駅のホームには、地元の小学生達が描いた鉄橋を渡る2両編成の列車の大きな絵があり、「フラワー長井線10周年おめでとう 10年後はきみが主役、それまでがんばって!」と大書してありました。

荒砥には車両区もありました。これの他にも6両位停まっていて、どんどん車庫から表に出していました。

荒砥からはそのまま引き返すのですが、切符を買って驚きました。ちゃんと券面に「荒砥から今泉ゆき」と書かれた硬券で、鋏まで入れてくれました。

10時43分に荒砥を出た212Dは今泉まで約30分で着きます。雨はなんとかなりそうです。

11時12分、今泉着。ここに来るのは初めてのはずなのですが、あまりに想像通りの駅で驚きました。

駅前に出ると、新潟始発の米沢行き3822D快速「べにばな2号」がやって来ました。2両編成で、1両はどこでも見掛けるキハ40系でしたが、もう1両がこのキハ52系でした。これも相当車齢を重ねているはずです。

正午まではまだ時間があるので、駅近くを歩きます。奥の方に駅があるのですが、そこへ至る道路には旅館が2軒あるだけで、他には右手前の衣料品店しかありませんでした。この通りには妙に新しい建物が多いです。

上の写真の背後にはこんな藁葺き屋根の家が。多分保存目的もあってそのままの姿を保っているのでしょう。

暫く徘徊していると、正午が迫って来たので駅前へ戻りました。他にも3人、同じ目的と思しき人達がいます。

駅前にはこんな立て看板が。山形新幹線の改軌工事の間は列車が走れませんから、代行バスが出ていました。その時に米沢駅前で使われていたのが今泉へ流れて来たのだと思います。

間もなく、正午です。
宮脇俊三著「増補版 時刻表昭和史」角川書店刊 248-250Pより抜粋
〜〜〜
 今泉駅前の広場は真夏の太陽が照り返してまぶしかった。中央には机が置かれ、その上にはラジオがのっていて、長いコードが駅舎から伸びていた。
 正午が近づくと、人びとが黙々と集まってきて、ラジオを半円形に囲んだ。父がまた、「いいか、どんな放送であっても黙っているのだぞ」と耳もとでささやき、私の腕をぐっと握った。
 この日も朝から艦載機が来襲していた。ラジオからは絶えず軍管区情報が流れた。一一時五五分を過ぎても「敵機は鹿島灘上空にあり」といった放送がつづくので、はたして本当に正午から天皇の放送があるのだろうかと私は思った。

 けれども、正午直前になると、「しばらく軍管区情報を中断します」との放送があり、つづいて時報が鳴った。私たちは姿勢を正し、頭を垂れた。
 固唾を呑んでいると、雑音のなかから「君が代」が流れてきた。こののんびりした曲が一段と間延びして聞え、まだるこしかった。
 天皇の放送がはじまった。雑音がひどいうえにレコードの針の音がザアザアしていて、聞きとりにくかった。生まの放送かと思っていた私は意外の感を受けた。しかも、ふつうの話し言葉ではなく、宣戦の詔勅とおなじ文語文を独特の抑揚で読み出したのも意外だった。
 聞きとりにくく、難解であった。けれども「敵は残虐なる爆弾を使用して」とか「忍び難きを忍び」という生きた言葉は生ま生ましく伝わってきた。「万世の為に太平を拓かんと欲す」という言葉も、よくわからないながら滲透してくるものがあった。
 放送が終っても、人びとは黙ったまま棒のように立っていた。ラジオの前を離れてよいかどうか迷っているようでもあった。目まいがするような真夏の蝉しぐれの正午であった。

 時は止っていたが汽車は走っていた。
 まもなく女子の改札係が坂町行が来ると告げた。父と私は今泉駅のホームに立って、米沢発坂町行の米沢線(注:原文のまま)の列車が入って来るのを待った。こんなときでも汽車が走るのか、私は信じられない思いがしていた。
 けれども、坂町行109列車は入ってきた。
 いつもと同じ蒸気機関車が、動輪の間からホームに蒸気を吹きつけながら、何事もなかったのように進入してきた。機関士も助士も、たしかに乗っていて、いつものように助役からタブレットの輪を受けとっていた。機関士たちは天皇の放送を聞かなかったのだろうか、あの放送は全国民が聞かねばならなかったはずだが、と私は思った。
 昭和二〇年八月一五日正午という、予告された歴史的時刻を無視して、日本の汽車は時刻表通りに走っていたのである。

 汽車が平然と走っていることで、私のなかで止っていた時間が、ふたたび動きはじめた。
〜〜〜
('45年8月15日 米坂線/長井線 今泉駅頭にて)

とりあえず今日の1つ目の目的は果たしたので、もう少し駅近くを探検します。駅前の道を突き当たりまで進み、4枚上の写真のT字路を右に進むといくつか店があります。その近くの神社ではお盆だからでしょうか、お祭りをやっているようです。

上の写真の場所からもう少し進むと、またT字路のようになっていて、真っ直ぐ進むと踏切、左に進むとこの写真の右側の道に出ます。歩道橋の上から見ると、米坂線と長井線の線路をまとめて跨ぐバイパスがありました。

バイパスの陸橋から見た踏切。左側が米坂線、右側が長井線の線路で、奥が坂町と荒砥方面、手前が米沢と赤湯方面になります。2枚上の写真の道の先のT字路を真っ直ぐ進むとこの踏切の右側に出ます。

踏切へ向かう道とバイパスへ向かう道のT字路をバイパス側へ曲がってすぐのこの店に入りました。福島で朝食を摂りはしましたが、既にお腹が空いています。他に何かを食べられる場所もなかったので、ここで山形名物玉こんにゃくを食べる事にしました。

御主人に玉こんにゃくを頼むと、暖め直してくれました。地元以外の人間が来るのは珍しいらしく、何処から来たのかと訊ねられたので、東京からと答えると、それでもまだ納得が行かないらしく、理由まで訊かれてしまいました。仕方がないので白状し、他にも何人か駅にいますよと言うと、心底意外そうな顔をしていました。

こんにゃくを1玉食べてしまって元の姿ではありませんが、これが山形名物玉こんにゃくです。御覧の通り、ラムネとお団子も食べました。

食べながら御主人に色々とお話を伺います。文章に仕立てると凄い事になるので箇条書きにします。

昨日と今日、今泉ではお祭りをやっている。
御主人のお店はこの店と長井に1軒、更に他に1軒あり、ここはお祭りに合わせて年間2日間しか開かない。
長井線は学生ばかりで乗客が少ない。けれども米坂線は新潟との連絡線として結構乗客がいる。
昔も今泉駅は大きさはあの程度だったが、2線区が合流する事もあり、売店も備えた立派な駅だった。
駅前の直線道路の両脇にはずらっと商店街があった。今は旅館2軒と衣料品店、農協各1軒のみ。
バイパスが出来るまでは店の前の道は車だらけだった。その頃はこの辺りにももっと店があった。

お話を伺っている内に、うちのカレーようかんが山形新聞に載ったんだよ、と軒先に貼ってあった切り抜きを見せてくれました。5月頃に記事になったそうですが、その直後から山形や米沢、遠くは寒河江や左沢(あてらざわ)からも注文が入っているそうです。やっぱり宣伝ってのは凄いねえ、と感心していました。この記事によると、カレーようかんの他にも数種類変わり種ようかんを作っているそうで、そちらばかり売れて普通のようかんが売れなくなってしまったので普通のを止めてしまったそうです。

こちらが御主人の鈴木文雄さん(御本人の許可を受けて載せています)。お店は山形県長井市本町2丁目、屋号は「鈴木製菓」です。カレーようかんに興味のある方は是非。変わりようかん各種、全種類1本¥700だそうです。

もう少し色々とお話を聞きたかったのですが、ここで次の列車の時間が来てしまいました。慌てて駅へ向かったので、肝心のカレーようかんを買い忘れてしまいました。何をやっているのだか。

急ぎ足で今泉の駅に戻ると、目的の山形鉄道214Dは既にこのホームの左側に入っていました。発車を待っていると、米坂線のホームには坂町行き1127Dが入って来ました。キハ40系とキハ52の混結です。

米坂線のダイヤは今日の旅程とはとことん相性が悪く、行きも帰りもちょうどいい時間に逆方面の列車が着くという事になっていました。逆に坂町から来るには都合の良いダイヤで、現に同じ目的で来た人達の中にはこの列車に乗って行った人もいるようでした。

赤湯では3分の接続でまた標準軌の列車、439Mに乗ります。あんなに降っていた雨は、荒砥に着いた辺りからずっと止んでくれています。

山形に着いてふと列車案内を見ると、意外な事が判りました。この左沢線の山形発14時3分は平日は1337Dとして走っていて、途中の寒河江止まりなのですが、この日は左沢でお祭りがあるらしく、11日から15日までは臨時で337Dとして左沢まで運行されるとの事です。この列車が寒河江止まりだから左沢線はまた今度、と思っていましたが、左沢まで行くのなら話は違います。予定を変更してこの列車に乗る事にしました。

発車まではまだ15分程時間があるので同じホームの立ち食いそば屋で天ぷらうどんを。何の変哲もなく見えますが、天ぷらに青海苔が入っていてとても美味しかったです(食後暫く青海苔の香りが鼻に残るのは仕方ないとして)。ここは生そばを売りにしているようで、色々工夫しているのが伺えます。つゆも一味違う感じでした。

長井線とあまり代り映えのしない風景の中を40分程揺られて左沢へ。駅の入り口横には玉こんにゃくの屋台が出ていました。また、この写真の左右ではフリーマーケットが開かれていて、駅前は賑わっていました。

駅前の商店街にも提灯飾りが下げられていて、お祭りの雰囲気を盛り上げています。駅の中に貼ってあったポスターによると、10日のオープニングセレモニーを皮切りに16日まで様々な催し物が行われ、その中でもこの日がクライマックスなようでした。「水郷大江 夏まつり 光と音と水の饗宴」と銘打たれたそのポスターの下には「伝統花火大会・名物灯ろう流し・東北花火競技大会」とありました。

左沢線は愛称をフルーツライン左沢線といい、沿線の主な駅には果物を模った駅名標がありました。左沢は洋梨で、他にもリンゴやサクランボなど数種類ありました。

ちょうどお祭りの日に来たのでどうせなら見物して行きたかったのですが、今日はこの後人と会う約束があるので乗って来た車両に乗って山形へ引き返しました。

これまた本来は土曜と休日のみ運行の340Dで山形へ戻り、6分間の接続で仙山線の3844M快速「仙山16号」15時47分発に乗り継ぎます。左側の車両がそうです。

この列車に乗ろうとしている時、この後仙台で会う「えりさま」から電話が入りました。彼女は大手プロバイダのサポートを数社渡り歩いた経歴の持ち主で、別に何も教えていないけど一応教え子の範疇に入る子です。ずっと東京にいたのですが、少し前に仙台に帰って来たそうで、最近久し振りにメールのやり取りをした流れで会う事にしました。

今日は向こうも用事があるので、お互い時間が見えたら待ち合わせ、という形にしていたのですが、向こうが予想外に早く出て来れるようだったので、この「仙山16号」が仙台に着いたらすぐ会う事にしました。

本来の腹積もりでは、仙台で東北本線の仙台ー利府間と仙石線の仙台ーあおば通間という距離の短い盲腸線を乗り潰してから待ち合わせるつもりだったのですが、えりさまと会うのも随分久し振りなのでまた今度に持ち越す事にします。

仙山線には普通列車以外にこの快速「仙山」が結構頻繁に走っているのですが、そのダイヤは全線快速運転するのと山形と作並の間で各駅停車するのの2種類があります。この日に乗ったのは半分各駅停車タイプでした。

写真は途中の面白山高原の駅。奥に凄い断崖絶壁が見えています。この日も時間調整に失敗して殆ど寝ていなかったので、この辺りから先は夢現つで過ごしました。

仙台駅のステンドグラス前でえりさまと合流。仙台と言えばやっぱり牛タンでしょうという事で連れて来られたのがこの利休。若い人を中心に流行っていて、最近急激に店舗数を伸ばしているそうです。この店は駅から10分程歩いた場所にあるのですが、ここと駅の間にあるもう1軒は混んでいて入れませんでした。

去年の7月に札幌ー仙台というツアー仕事で仙台の牛タンを食べてはいましたが、非常に肉厚なここの牛タン焼もやはり旨かったです。何より、初めて食べた牛タンのたたき、要するに刺し身が印象に残っています。

牛タンを堪能して店を出てもまだ時間に余裕があったので、近くのホテルのレストランでお茶を飲んでからえりさまと別れ、まだ少し時間があったので近所のブックオフへ。ここで宮脇氏唯一のミステリー短編集「殺意の風景」を発見、即購入しました。

ゆったりと新幹線のホームへ上がると、自動販売機にはやてりんごジュースがあったので購入。なかなか美味しかったです。

3030B「はやて30号」がホームに滑り込んで来ました。車内はやはりほぼ満席でしたが、大宮でかなりの人が降りて行きました。

今回は今までになく予定変更が多かったですが、なんとか無事に終わりました。宮脇氏の追悼旅行としては12月20日の指宿枕崎線の枕崎が残っていますが、その日に合わせられるかはまだ未定です。

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