■ 第7-8日 / 7月17-18日 ■
長かったこの旅行も遂に最終日。この日の旅程はなんというか、JR北海道全線完乗への布石みたいな路線ばかり乗っています。ただ、それだけではつまらないので、岩見沢からはバスに乗って旧幌内線の三笠駅跡にあるクロフォード公園と幌内駅跡にある三笠鉄道記念館へと足を伸ばしました。
駅 名
|
時 刻
|
列 車
|
線区名
|
札幌
|
07:04発
|
535D
|
函館本線
|
桑園
|
07:07発
|
札沼線
|
石狩当別
|
07:48着
|
07:51発
|
5423D
|
新十津川
|
09:29着
|
町役場前
|
09:37発
|
|
北海道中央バス
|
滝川BT
|
09:51着
|
滝川
|
10:03発
|
2006M
ライラック6号
|
函館本線
|
岩見沢
|
10:32着
|
岩見沢BT
|
10:40発
|
|
北海道中央バス
|
三笠BT
|
11:10着
|
11:15発
|
|
鉄道記念館前
|
11:23着
|
12:59発
|
|
クロフォード公園前
|
13:06着
|
クロフォード公園前ー三笠BT間徒歩移動
|
三笠BT
|
14:11発
|
|
北海道中央バス
|
岩見沢BT
|
14:39着
|
岩見沢
|
15:06発
|
1470D
|
室蘭本線
|
苫小牧
|
16:34着
|
17:03発
|
5013D
スーパー北斗13号
|
沼ノ端
|
通過
|
千歳線
|
白石
|
通過
|
函館本線
|
札幌
|
17:48着
|
19:27発
|
4レ
北斗星4号
|
白石
|
通過
|
千歳線
|
沼ノ端
|
通過
|
室蘭本線
|
長万部
|
22:08着
|
22:08発
|
函館本線
|
五稜郭
|
通過
|
江差線
|
木古内
|
通過
|
海峡線
|
中小国
|
通過
|
津軽線
|
青森
|
通過
|
東北本線
|
八戸
|
通過
|
青い森鉄道
|
目時
|
通過
|
IGRいわて銀河鉄道
|
盛岡
|
04:33着
|
04:35発
|
東北本線
|
上野
|
11:12着
|
|
東京への帰りは勿論「北斗星」です。ぐるりの有効期限は17日いっぱいで切れているのですが、切符の有効期限内に乗った列車は途中下車しなければ終着駅まで行けるという規則があるので、それを利用して上野まで乗ります。 |
写真は札沼線の石狩当別から始まります。この日は朝からいきなりピンチで、ホテルを出てコインロッカーに荷物を入れていたらお腹が痛くなり、トイレを経由して列車が待っているホームに駆け上がったら正に発車寸前。手近なドアに飛び込んだ直後に背後でドアが閉まりました。札沼線は石狩当別やその隣の北海道医療大学まではかなりの本数が運行されているのですが、その先は浦臼止まりが日に4往復、終点の新十津川には日に3往復しか行かないという超ローカル線区なので、この列車を逃したら1日の旅程が全て御破算になる所でした。
左にいるのがここまで乗って来た札幌発7時4分の石狩当別行き535D。キハ40系その他をなんと6両も繋いだ長大編成です。右の奥に小さく見えているのがこれから乗る5423D新十津川行きで、こちらはキハ40系の単行でした。 |
8時40分発の石狩月形で上り列車との交換の為に15分程停車したので、周囲を見て回ります。ここまでいっぱい乗っていた高校生達はみんなここで降り、ホームまで迎えに来た先生達と元気に挨拶を交わしていました。 |
「浦臼まで」という声に振り返ったら、おばさんが窓口で切符を買っていました。よくよく見るとこの駅には自動券売機がなく、切符はこの窓口で駅員さんから買うようでした。おばさんが手渡された切符は葉書半分程の用紙に手書きで書き込まれた物でした。
この場所から左を向くと待合室になっていて、そこには畳敷きの小上がりのような場所があり、下り列車で来た学生達の内の数人と先生達が交換する上り列車で来る学生達の到着を待ってから学校へと歩いて行きました。 |
石狩月形からは学生もいなくなり、おじいさんおばあさんが数人乗り降りするだけと、本当にローカル線そのものといった風情になります。考えてみると、この旅行でこんなにガラ空きの列車はこれが初めてです。数少ない乗客はみんな老人で、僕の次に若いのは旅行者風の40代のおっさんでした。
9時29分、新十津川着。この列車はこのまま折り返して始発列車として9時50分に出発します。
この札沼線は、元々札幌から桑園で分岐して留萌本線の石狩沼田までを結んでいたのですが、'72年6月に新十津川ー石狩沼田間34.9Kmが廃止され、札幌の「札」と石狩沼田の「沼」から名付けられた線名は宙に浮いた形になっています。新十津川は時刻表の概略図等では何もない所にあるような描かれ方をしていますが、実際は函館本線の滝川から2Km程の所にあるので、意外と開けた場所になっています。 |
とりあえず近くの町役場の所まで出れば滝川駅行きのバスが走っているはずなので、地図サイトで降ろした地図のプリントアウトを片手に歩きます。写真はその途中で見掛けた犬小屋です。 |
バス停に着いたら、次のバスの時間を調べようと思う間もなく滝川バスターミナル行きのバスがやって来ました。
バスは徳富川、石狩川を渡って駅へと向かいます。あまり遠くないから歩いてもいいかな、と思っていたのですが、実は結構な距離があってこのバスが来ていなかったら危ない所でした。 |
滝川では約10分程乗り継ぎ時間があったので、駅構内の立ち食いそばで朝食。何の変哲もない天麩羅うどんに見えますが、本当に何の変哲もありませんでした。 |
滝川からは781系の10時6分発2006M「ライラック6号」で岩見沢まで移動します。今では新型車両で運行される「スーパーホワイトアロー」に札幌ー旭川間の主役の座を譲りましたが、札幌ー旭川間をノンストップで走っていた電車急行「さちかぜ」、北海道初の電車特急「いしかり」からその血脈を受け継ぐ由緒正しき列車です。トレインマークが国鉄時代と違い、格好悪くなっているのがちょっと気に入りませんが。
「ライラック」と命名された当時は室蘭ー旭川間を走っていましたが、今は札幌ー旭川間になり「さちかぜ」「いしかり」と同じ運転区間に戻り、札幌ー室蘭間には「すずらん」が走っています。 |
10時21分発の美唄にて。駅前のビジネスホテルの大時計が全然違う時刻を示していますが、どうもこのホテルは倒産して閉鎖されたままになっているようです。多分この時計は送電停止された時刻を指したままになっているのでしょう。
よくクイズのネタにも使われますが、知らなければ読みようがない難読駅名を持つ駅が全国にあります。代表的な所では奥羽本線の及位(のぞき)、山陰本線の特牛(こっとい)等がありますが、元々外国であった北海道には特に多く感じます。この美唄もこの字でびばいと読むとは知りませんでした。ちなみにこの美唄からは函館本線の枝線として南美唄までの3.0Kmがありましたが、'73年の9月に廃止されています。 |
10時32分、岩見沢着。ここのホームには是非見ておきたい物があります。
宮脇俊三著「鉄道旅行のたのしみ」集英社刊 234Pより抜粋
〜〜〜
駅にもどり、山根駅長の後にくっついてホームを歩く。
2番ホームに木彫の巨大な農業用馬像が鎮座している。開拓時代をしのび、かつ市営競馬の宣伝を兼ねて三年まえに購入したものだという。
その馬像の台座に小さな観音像と賽銭箱が置かれている。観音像は、ある日、突然出現したもので、だれが置いていったかはわからない。しかし、そういうものがあると賽銭をあげる人が出てくる。それで賽銭箱を備えたところ、昭和五六年の一月から一二月までで一万五六五〇円に達した。駅ではこれに四三五〇円を加えてキリのよい二万円とし、社会福祉事業用として市に寄付したそうである。
〜〜〜
('83年3月24日 岩見沢駅構内にて)
改番したのか、現在2番線は存在せず、1番線から線路を挟んで3番線と4番線のホームになっていました。また、観音像と賽銭箱も既にありませんでしたが、馬像は今も健在でした。サラブレッドも綺麗だと思いますが、僕としては馬はこういう農耕に使われる脚が太くて身体の大きいのが逞しくて好きです。 |
架線柱が邪魔で判り辛いですが、改札へ行く途中の跨線橋の上から見えたこの煉瓦積みの立派な建物は1899年に北海道炭鉱鉄道の工場として建設された後に1906年に国鉄へ移管され、現在は古くなったレールを再生する岩見沢レールセンターとして使用されています。'82年には日本建築学会によって建築学的に貴重な全国2,000棟の建造物の内の1つとして指定されたそうです。この写真では架線柱の陰に半分隠れていますが、北炭の星マークもそのまま残っています。 |
そうこうしている内に、ホームに札幌発富良野行き臨時特急「フラノラベンダーエクスプレス5号」9045Dが入って来ました。滝川まで函館本線上を走り、根室本線に入って富良野まで行くようです。車両はニセコエクスプレスと呼ばれる新製時からリゾート列車用として製造された編成で、通常型とは全く見た目が違いますがキハ183系です。区分は5000番台となっています。 |
ここからはバス移動。まずは三笠バスターミナルまで行きます。岩見沢から三笠経由で幾春別まで行くという事は、'87年7月に廃止された旧国鉄幌内線の代替輸送という意味合いもあるのでしょう。
バスに乗って発車を待っていたら、他のバスに乗るらしき4〜5人連れのおっさん達の1人が幾春別の文字を指差してこれは何と読むんですかと運転手さんに訊いていました。周りの乗客が内地の人には読めないのかねえといった感じでひそひそ話していましたが、さすがにこれは美唄が読めなかった僕でも読めます。 |
三笠バスターミナルからは幌内行きのバスに乗り換えます。三笠で分岐して幌内と幾春別に向かうというのは旧幌内線と全く同じです。 |
左の車窓に後で行くクロフォード公園を見つつ、10分も乗らない内に旧幌内駅跡にある鉄道記念館前のバス停着。ここまでは北海道中央バスのサイトで時刻を調べられたのですが、ここから三笠への戻りのバス時刻が不明でした。バスで行くような奇特な人はまずいないと思いますが、一応載せておきます。 |
バス停の近くは遊歩道になっていて、こんなモニュメントが。一体実物の何倍の大きさなんでしょう。 |
バス停近くにはもう一つ、キシ80と旧型客車2両を使ったレストランが。しかし日曜祝祭日のみの営業なのでお休みでした。 |
これが三笠鉄道記念館の本館。ここの中だけ有料で、他の屋外展示の見学は無料です。 |
上の写真の場所から左を見ると、貨車を数両繋いだDE10がいて、その向こうにこんな見るからに愛くるしい凸型の機関車達がいます。どこから流れて来た車両なのかは不明ですが、きっとどこかの炭坑や工場の構内で働いていたのでしょう。 |
後の機関車にはこれまた可愛い貨車が2両繋いであります。レールを見ると判るように狭軌の車両なので、ここの部分だけレールが3本敷いてあります。 |
ここにはS-304という名前の工場内での作業用の小さな蒸気機関車が保存されていて、今でも土日と祝祭日に運転されています。数えてみたら多い日は30分間隔で12回も運転されているようで、その辺のローカル線区よりずっと頻繁に走っています。これはその列車用の客車。多分貨車からの改造車です。 |
2日目の手宮での反省から、今回はまず屋内展示から見て回ります。まず1階には地元の元鉄道員の方のコレクションが。実際にはこの倍以上の展示がありましたが、中にはどうして持って帰れたのだろうと不思議になる物もありました。
この写真の中央ちょっと下、岩見沢と書かれたサイドボード(列車の横腹に挿し込む行先表示板)の横に帯広ー十勝三股と書かれたのがありますが、下に小さく「糠平〜十勝三股間 国鉄代行バス」と但し書きがあります。これは士幌線の糠平ー十勝三股間が'78年12月に休線、事実上の廃止になった事によって作られた物で、'87年3月に士幌線全線が廃止されるまで使用された物です。ちなみに糠平ー十勝三股間の収支係数は'77年度で22,500という驚異の数字だったそうです。これは¥100の収入を得る為に¥22,500の経費が掛かるという事(要するにこれが100を切らないと黒字にならない)で、後に日本一の赤字路線としてその名を全国に轟かせる美幸線や筑豊の入り組んだ線区でも3,000代だった事からもその壮絶さが解るかと思います。
宮脇氏も「終着駅へ行ってきます」の中で1日4往復走っていたこの代行バスに乗っていますが、取材をした'81年10月時点で三股の集落には代行バスの運転手の一家4人と年金暮らしの御主人と郵便局の委託職員の奥さんの夫婦の2世帯のみが住んでいるという状態でした。
で、この解説を書くために色々と調べたら、作中に登場する代行バスの運転手、田中康夫さんは今でも1日1往復バスを走らせているらしく、しかもログハウスで三股山荘という喫茶店を営んでいるそうです。ただ、三股の集落に関しては、サイトによって残るは田中さん一家のみとか2世帯いるとか10人程住んでいるとか記述が食い違う上に、記事を書いた年の表記がないためによく判りません。確実なのは今も田中さんは代行バスを走らせ(全国版時刻表の2003年7月号にも載っています)、三股山荘で客をもてなしているという事だけのようです。 |
国鉄解体寸前の781系特急「ライラック」。今日乗ったのと同じ車両、同じ列車名ですが、全然イメージが違います。 |
今回は屋内展示で結構時間を取ってしまったので、急ぎ足で屋外展示を見て回ります。手宮の時もそうでしたが、結局こういう場所に来るには時間が足りないようです。これは本館に併設されている機関庫。左からC12 2番機(奥まっているので見え辛いです)、59609(9600形)、ED76 505番機、DD13 353番機。ED76は内部の通路も通れるようになっていました。 |
DD51 610番機に牽かれたオハフ33、スハフ44、スユニ50。比較的保存状態が良いので、こうやって看板のない所で写真を撮ると現役で走っているようです。
他にもディーゼルカーや除雪車、救援車等全部で20両以上の展示がされていました。中には塗装がボロボロになっているのもいましたが、見た感じでは順番に塗り直しているようなので、いずれ綺麗に化粧直しをするのでしょう。 |
三笠バスターミナル行きのバスでクロフォード公園まで移動します。結局、三笠鉄道記念館では屋内展示を見ていた時に遠くから響いて来るそれらしき男女の声を聞いただけ(姿は見ませんでした)で、他の客を見掛けませんでした。
行きは逆側の席に座っていたので気付きませんでしたが、未だ幌内線の線路が残っています。しかもただ放置してある訳ではなく、草刈りをしている人達も見たので、保存していると言って良いでしょう。現在計画は動いていないようですが、この線路を使って三笠鉄道記念館とクロフォード公園の間に蒸気機関車を走らせるという話もあるそうで、そのために最低限の保守をしているのだと思います。 |
クロフォード公園にある旧三笠駅前で。看板が幌内太となっていますが、この駅は1882年の開駅時にはこの名前で、'42年の三笠町制施行によって翌'43年に三笠駅と改称したそうです。
手前はこの近くの販売機で買った御当地Boss。Fireと同じくこれもとても甘かったです。どちらが真似したのかは知りませんが、ライバルブランドと全く同じ商品を出すというのはどうなのでしょう。 |
ここにもDD51に牽かれた貨物列車があります。編成は前から穀物や飼料用のホキ2200、砂利輸送用のホキ700、貨物列車用車掌車の最終形ヨ8000です。奥にはキハ82系が見えています。 |
ここに来た最大の理由、キハ82系の6両編成です。手宮にも2両いましたが、こちらは6両。先頭車が両端にいて、間には食堂車もグリーン車もいます。同じ形式の車両がこんなに繋がって保存されているのは全国でも珍しいのではないでしょうか。編成は駅側から先頭車のキハ82、普通車のキハ80、食堂車のキシ80、グリーン車のキロ80、普通車のキハ80、先頭車のキハ82となっています。 |
編成の逆側です。こちら側の先頭車はライトやテールランプが一部埋められていました。この線路は幾春別方面へ向っていたのですが、幌内方面と違ってこの先でふっつりと途切れていました。 |
立て看板には内部を見たい人は声を掛けて下さいと書いてありましたが、声を掛けようにも人影が全くなく、ドアも開いていたのでちょっとだけお邪魔しました。 |
運転台から駅の方を。国鉄/JRは左側通行なので、本来ならここは編成の後端に該ります。 |
先頭車を間近から。当時から好きな顔でしたが、結局僕はキハ82系を現役時代に見る事が出来ませんでした。貫通扉が妙に綺麗ですが、これを外して盗んで行った者がいたらしく、犯人が逮捕されて返還される際に綺麗にしたのでしょう。似たような話は横川で展示されているEF63の身にも降りかかっていて、貫通扉をガスバーナーで焼き切って持ち去ったそうです。こちらも目出度く犯人は逮捕され、刑事罰と100万円以上の修理費の負担を課せられるそうです。 |
三笠鉄道記念館の方からクロフォード公園の寸前まで来ている廃線跡の線路端。ここから道路を挟んだ所で逆を向くと↓ |
こんな感じになっています。ちゃんと道床は残っているので、線路を敷いて道路に踏切を付けるだけで線路として使えます。 |
上の写真の道床の先にある鉄橋跡。道を挟んで奥の左側に見えるのが三笠駅舎、右側に見える煉瓦造りの丸い建物の手前にちょっとだけ見える灰色の部分が道床です。
ここから三笠バスターミナルまではすぐなので、歩いて移動します。 |
幾春別川を渡る欄干に大きなアンモナイトの彫刻が付いた橋の上から。河川敷がパークゴルフ場になっていて、おじいさんおばあさん達が遊んでいました。コースはかなり広範囲に作られていて、30人位はいたでしょうか。この辺りは古代生物の化石が出るようで、この写真の看板にもアンモナイトコース、恐竜コースと書かれていますし、恐竜に因んだイベントも多数行われているそうです。 |
河を渡ると、小さな商店街がありました。石畳が敷かれていて、軒先に駅のホームの屋根のような大きい庇が付いている建物もあったりでどことなく日本離れした場所です。しかし、この奥に見えているカーブの辺りでは商店はなくなり、普通の民家になっています。 |
この近辺で見掛けた犬達。
左上:クロフォード公園の近くで。僕の顔を見て吠えていましたが、敵意からではなく、尻尾を振りながら遊んでくれと言っている感じでした。
右上:商店街で。ただじっとこちらを見ていました。ハスキーは北海道では暮らしやすいでしょう。たまにいかにも寒さに弱そうな短毛種の犬を連れている人を見ましたが、あれは可哀想です。
左下:商店街奥の民家横にあったゴン太という表札付きの主のない犬小屋。もういないのかなと辺りを見回すと↓
右下:家の角を曲がって見てみるといました。ただ、こちらにも犬小屋があったので、これがゴン太かは不明です。 |
三笠バスターミナルからはまた30分程バスに揺られて岩見沢へ。岩見沢の駅前は広場が広く、周りの建物の背も低いので解放感があります。
次の列車までまだ少し時間があるので、駅前をぶらぶらします。そこで入った古本屋で宮脇氏の「平安鎌倉史紀行」を購入。宮脇氏の作品には大きく分けて紀行、廃線跡探訪、歴史紀行の3つのジャンルがあり(例外的に「殺意の風景」というミステリー短編集も1冊だけあります)、歴史に関する知識が全くない僕は歴史紀行は一番後回しにしようと思っていましたが、とりあえず押さえておきます。レジで支払いをしていると、店の御主人がレジ前に転がっている中古CDが入った段ボール箱を指差し、お好きなの持って行って下さいと言いました。僕が好きな'80年代のCDが結構入っていそうでじっくり見たかったのですが、この時点で結構時間がなくなっていたので後ろ髪を引かれる思いながらも辞去しました。 |
岩見沢からは室蘭本線を走る1470Dで苫小牧へ。向こうのホームには馬像が見えています。素直に札幌に帰ればいいのですが、完乗の為にはチャンスがある時に乗り潰しておきたい線区です。考えてみると、今日は滝川で胃に流し込んだ天麩羅うどん以外に何も食べていないので売店でおむすびを2つ買いました。以前はこの岩見沢にも駅弁があり、非常に安くておいしかったそうなのですが、札幌に近過ぎてなかなか客が付かず撤退してしまったようです。
この列車も僕を入れても10人も乗っていない状態で発車しました。朝の札沼線も含め、最終日でようやくローカル線らしい雰囲気の列車に乗れました。
が、途中駅から乗り込んできた物凄く派手な格好をした女の子4人組がそのムードをぶち壊します。渋谷に行ってもかなり目立つ(流行から外れている点も含めて)この4人は、大声で話す程度ならまだ良いのですが、車内で煙草を吸うわ吸殻を窓から投げ捨てるわ携帯の着メロを大音量で流し続けるわで最悪でした。しかも、最初僕は風俗関係の仕事をしていて苫小牧の店に出勤するのかな、と思っていたら、話の内容からしてどうも高校生のようでした。今まで旅行をしていて気分を害するという事はなかったと思うのですが、さすがに今回は腹が立ちました。 |
苫小牧ではこの煙突がまず目に入りました。先程の車内にいた高校生達でこちらもそういう眼になっているのか、駅構内で何をするでもなくしゃがみ込んでいる若い子達がとても気になります。そういう眼で見なくてもその数は他の街に比べてずっと多いようだったので、やはり工業地帯というのは民度が落ちる物なのかなとも思います。
そんなこんなで色々と印象が悪く、もう行きたくないとも思った苫小牧ですが、調べてみるとここの市立科学館には耐用年数を大幅に過ぎて軌道を離れ、地球上に落着した時には一部好事家達からリアルコロニー落としだと騒がれたロシアの宇宙ステーション「ミール」と実験モジュールの予備機が展示されているそうで、宇宙開発関係の物に目がない僕としては再訪せざるを得ないようです。
苫小牧からはこの5013D「スーパー北斗13号」で札幌まで引き返します。車両はライトが運転台の上下のみにあるキハ281系でした。 |
後方に巨大な煙突を見ながら(2.4MB / 35秒間)
やはりこれはお約束で。もくもくと立ち昇る煙が凄いです。 |
野寒布岬の所でも書きましたが、北海道で数回見掛けた不思議な現象。太陽やその周りは大して光が強くないのに、少し離れた場所の雲は強烈な光を発しています。僕は雲を見るのが好きで、歩く時にも結構空を見ている事が多いのですが、この現象には北海道に来て初めて出会いました。 |
札幌では物凄く無理をすれば市電に乗る事も出来そうではありましたが、それは次回に繰り延べて駅周辺を散策します。この写真右側の大きな建物はJRタワー。札幌駅は去年の7月に来た時と全く変わっていて面食らいましたが、昨夜すすきのから乗ったタクシーの運転手さんによると、JRタワーが落成したのは今年の3月だそうです。 |
上の写真右側にはビックカメラ、左側には大丸があります。これは大丸のエレベーターから内部を見下ろした様子。地下の食料品街で色々と買い込みました。昨夜のタクシーの運転手さんによると、この大丸によって西武その他のデパートは大打撃を受けているそうです。 |
そして遂に最後の列車、4レ「北斗星4号」に乗ります。機関車は北斗星カラーのDD51の重連ですが、編成が長くて先頭がホームの端から出てしまうのでヘッドマークは見られませんでした。 |
この上野行きの幕を見ると、夜汽車のムードが一気に盛り上がります。「北斗星」は1号と2号がJR北海道の車両、3号と4号がJR東日本の車両で運用されていて、JR北海道の車両の方がB個室寝台が多いなど色々と仕様が違います。
今回僕が乗ったのは5号車のロビーカー寄りの端から2番目のコンパートメント下段でした。「旅の終りは個室寝台車」とはなりませんでしたが、隣はロビーカー、その向こうは食堂車とB開放寝台だとは思えない程いい場所です。僕の寝台と背中合わせの一番端は空席なのかと思っていたら、食堂車の営業終了後にウエイトレスさん達がやって来て素早くベッドを作り、何の物音も立てずに就寝していました。 |
帰路のお供は駅構内で仕入れた「旅」8月号臨時増刊「宮脇俊三の旅」です。7月15日発売なので一昨日旭川の大きな書店で訊いたら、東京の発売日の2日遅れで入ると言われ、大都市ではあるけどこういう部分ではやはり遠い場所なのだな、と感じました。 |
ハイケンスのセレナーデと車内放送(2.4MB / 35秒間)
遂に札幌を出発します。ムービーを撮っていたらたまたま車内放送が入ったので載せておきます。客車列車の車内放送で使われるこの曲
ですが、この譜面を鉄道関係のアップローダに曝して曲名を教えて下さいと言ったら、即ジョニー・ハイケンスのセレナーデ(曲名なし)であると返答をもらいました。しかも原曲のMIDIファイルを置いてある所を教えてくれた方もいて非常に助かりました。
この譜面はまた別のサイトにあったMIDIファイルを素にギターで採譜してAppleWorksのドロー+Encore Fontで清書した(まともとは言えないやり方です)物で、そのファイルではキーがDメジャー、一方原曲のファイルはDbメジャーだったので車内放送ではどっちなのかな、と思っていましたが、携帯に打ち込んでおいたDメジャーキーの着メロをこの時流してみたらそれで正解でした。 |
本来なら19時27分の発車直後の19時半からディナーの時間だったのですが、準備に時間が掛かるとの事なのでとりあえずは大丸の地下で仕入れたビールで腹を誤魔化します。今日はロクな食事をしていないのでディナーが待ち遠しいです。 |
20時を結構回った頃、ようやくディナーの準備が出来たと放送が入ったので最後の晩餐へと向かいます。「北斗星」関係のサイトを見ていると、このサシ481改造の食堂車「グランシャリオ」はガラガラだったという話が多く、今日もそうなのかな、と思って行ったらびっくり。全28席中21席が埋まるという大盛況振りでした。奥に写っているとても愛想のいい2人のウエイトレスさん達もフル回転で働いています。普段は1人しか乗っていないという事なので、予約の数を見て増員しているのでしょう。
考えてみると、国内の列車の食堂車なんて小学生時代に上野から東能代まで乗った「いなほ」以来です。確かその時は田端だか尾久だかの操車場でDD13に乗って車両の入れ替えをしている運転士さん達と席が隣り合わせで、足で運転しているとか道中色々と面白い話を聞かせてもらった覚えがあります。食堂車自体は高校3年になる春休みにロサンゼルスのユニオンステーションからニューメキシコのアルバカーキまで乗ったAmtrakでステーキを食べたのが最後ではないでしょうか。その後パリからバルセロナまで乗った「カタラン・タルゴ」では食堂車に行った覚えがありません。
この「グランシャリオ」の車内ではヒット曲をインストバージョンにアレンジしたBGM(要するにスーパーとかでよく掛かっているあれです)が流れているのですが、どの曲もリアルタイムで聴いていた良く知っている曲ばかり。思い出せる限り羅列すると、
Glenn Frey / The Heat is on
Madonna / Who's That Girl
Huey Lewis & The News / The Power of Love
Duran Duran / A View to a Kill
Stevie Wonder / I Just Called to Say I Love You
John Parr / St. Elmo's Fire (Man in Motion)
Irene Cara / Flashdance... What a Feeling
Joe Cocker & Jennifer Warnes / Up Where We Belong
Limahl / The Neverending Story
Paul McCartney / No More Lonely Nights
The Beach Boys / Kokomo
Cyndi Lauper / Goonies 'R' Good Enough
Lionel Richie / Say You, Say Me
こんな'80年代丸出しの選曲でした。Gazeboの「I Like Chopin」とかあと数曲あったようにも思えます。「北斗星」が誕生したのは青函トンネル開通と時を同じくした'88年、これらの曲もその時代のヒット曲ばかりです。もしかしたらこのBGMはその頃から全く変わっていないのかも知れません。 |
さて、遂に料理がやって来ます。この「グランシャリオ」の夕食には¥7,800のフランス料理のコースと¥5,500の懐石御膳があり、僕はどうせならという事でコースを予約していました。
左上:全席予約席なので、各々の席にこのように用意が済んでいます。ナプキンに立て掛けられているメニューは貰って帰り、これを見ながらこの文章を書いています。
右上:卓上のランプ。初日のページで紹介した通り、このランプシェードがJR東日本の車両は透明、JR北海道の車両は赤になります。
左下:オードブルの「雲丹風味のクレープ包み海の幸サラダ仕立て」。クレープにウニのムース、海老、蟹が挟まっています。
右下:「胚芽パン」。見た目よりずっとしっとりしていて美味しかったです。もう1〜2個欲しかった(と書いたら、ぐるりスレッドの住人さんがおかわり出来ますよ、と教えてくれました。頼めば良かったです)。 |
周りの人達はみんな普通に食べていたのですが、僕が料理の写真を撮ってから手を付けているのを見てみんな写真を撮り始めました。中には自分の寝台までカメラを取りに戻った人もいました。
左上:「真鯛とアスパラのクリームスープ」。濃厚な冷製スープでとても美味しかったです。けど、ここで後々まで尾を引く失敗をしました。上に写っているスプーンをスープ用だと思って使ったのですが、実際は右側にあった大きいのがこのスープ用だったようです。
右上:メインディッシュ、「牛フィレ肉のソテー 野菜のメロディー 赤ワインソース」。柔らかくて美味しかったのですが、付け合わせの野菜が冷凍ミックスベジタブルにしか見えませんでした。
左下:デザートの「ココナッツミルクのスープ仕立て 小豆のアイスクリーム添え」。笑うと眼が線になる丸顔のウエイトレスさんが、本当は上には何々が乗るのですが、食材の都合で何々になってしまい申し訳ありませんと言っていましたが、何々が何だったか思い出せません。ここでスープに間違ったスプーンを使った影響が出て(スープ用の大きいのは下げられてしまいました)、妙に小さいスプーンで食べざるを得ませんでした。
右下:そして食後のコーヒー。ゆったりと車窓を眺めながらの1杯は格別でした。
これで全部になります。実はこのディナー、皿と皿の間に結構待ちが長くて、写真の作成時刻を見ると最初のメニューが20時15分、最後のコーヒーが21時48分と約1時間半程掛かりました。懐石御膳の人達は大きい弁当箱みたいなのだけなので比較的早く食べ終って席を立ち、コースの人達が取り残されるという状況になっていました。ただ、半調理済みの物とは言えあの狭い厨房の中で料理を作っているので仕方ない部分もありますし、とにかくゆったりと時間を過ごすのがこの列車では一番大切なので別に問題だとも思いません。 |
食事が済み、丸顔のウエイトレスさんに朝食の時間を訊いてから隣のロビーカーへ。隣のおっさん達が無政府主義に関して激論を交わしていたのが面白かったです。
右側の人だかりは車掌さんのグッズ販売。キーホルダーやオレンジカードのセット等を売っています。僕がこの席に座った時には車掌さんが1人でぽつんと座っているだけでしたが、2人連れのおばさんが見に来たのをきっかけにあれよあれよという間に結構な人数の人垣になり、各種グッズも飛ぶように売れていました。人波が引いて一段落した後、しばらく車掌さんとその隣のおっさんが何やら話していましたが、漏れ聞こえてきた車掌さんの「いやあ、うちはJR東日本さんみたいにお金がある会社ではありませんので.....」という言葉が妙に耳に残っています。
車掌さんが引き上げて少し経った頃、何故かみんな一斉に席を立って各々の寝台へと戻って行きました。残ったのは車掌さんと話していたおっさんだけで、この人は結局ここで寝てしまったようでした。 |
大丸の地下で仕入れた安くて量が多いつまみ類。左上がスモークサーモン、左下がスモーク帆立、右が粗挽きウインナー。さすがに食べ切れないだろうと思いつつ買った物でしたが、やはり少ししか食べませんでした。結局翌日家で食べたのですが、ウインナーは電子レンジで加熱して食べたら飛び上がる程美味でした。 |
食堂車はディナー終了後から23時までパブタイムとして予約なしで呑めるようになっていて、ディナー、パブタイム、朝食と食堂車を最大利用する事を好事家達は「3段活用」と呼び、僕もやるつもりでいたのですが、さすがに今回は断念。次回の課題とします。
そのパブタイムも終了した後の23時42分、函館着。ここまでは編成のこの写真側にDD51の重連が付いて引っ張って来ましたが、ここから青森までは方向転換して青函トンネル専用機のED79が逆側を引っ張ります。1週間の滞在をした北海道ともここでお別れです。 |
函館を出てすぐに寝たのですが、0時50分頃に目が覚めて撮ったのがこの写真。時間からすると青函トンネルに2つある観光用海底駅の北海道側、吉岡海底駅だと思います。 |
朝、おばさん達の大きな話し声で目が覚めました。どうもパックツアーの客らしく、6時47分着の仙台で大挙して降りて行きました。少ししてから食堂車に行くと、なんと順番待ちになっているらしく、背が高い細身のウエイトレスさんに8番目なのでロビーカーでお待ち下さい、呼びに行きますと言われて暫く待ちます。この日もウエイトレスさん達は大忙しで、時折車内販売のお姉さんの手も借りていました。
これが朝食。朝食は洋食と和食があり、和食は日に20食限定なので既に売り切れていました。どちらも食後のホットコーヒー又は紅茶付きで¥1,600と少し高いとも思いますが、既に金の事などどうでも良くなっている僕は全然気にしません。昨晩と同じ'80年代丸出しのBGMが流れる中、朝食を食べていると郡山に着いて隣のホームの通勤列車の中のサラリーマンと眼が合います。向こうは見慣れているのでしょうが、僕はパンを口にしつつ言い様のない優越感に浸りました。 |
自分の寝台に戻り、車窓を眺めます。見慣れた列車が見え始めてどんどん現実に引き戻されて行きます。この写真は10時49分着の大宮を出た辺りで。遂に京浜東北線まで出て来ました。大宮まででかなりの乗客が降り、上段も結構埋まっていて満員に近かった車内も閑散としています。 |
11時12分、遂に上野に着いてしまいました。先頭には青森からここまで牽いて来た北斗星カラーのEF81がいました。長い旅行の終着点にはこの上野駅地上ホームが相応しいです。他の駅には絶対に真似の出来ない雰囲気がここにはあります。 |
昼食を摂ってから帰ろうと駅舎を出ると、最近出来たばかりの「あゝ上野駅」のモニュメントがあり、色んな人が入れ替わり立ち替わり眺めて行っていました。この上野駅に集団就職で夜汽車に揺られて上京して来た人達も多く、僕の父親も大学進学の為に上野に降り立った人間です。もしかしたらこの人もその中の1人なのかも知れません。
ともあれ、実に5,000Km以上移動した初の長期旅行は無事終了しました。最果て巡りも出来たし、手宮や三笠の記念館にも行けました。完乗に向けても北海道ちほく高原鉄道を入れても残り7線区となかなかの成果であったと思います(この7線区が難しいのですが)。撮った写真は1,261枚、ムービーが20本、総容量は実に1.01GBにもなりました。
ぐるりはとても安くて使い勝手の良い切符なので、次はこれで冬の北海道へ行こうと思います。相当寒さや雪が厳しいでしょうが、宮脇氏も言っていた通り、過ごし易い季節だけを見てもその土地の事は解らないし、流氷も見たいので。それに、今回食べられなかった稚内のタラバガニは冬が旬です。今年の冬は父親の実家がある能代を拠点に五能線や津軽鉄道に乗りに行こうかとか考えているので判りませんが、そう遠くない内に必ず。
戻る |