この日は元国鉄足尾線、現わたらせ渓谷鐵道主催で今年('03年)2月26日に他界された紀行作家、宮脇俊三氏の追悼イベントが行われるという事で出掛けてきました。今までの徘徊旅行は仕事でどこかに行く必要があって、主にその帰りにうろうろするという物だけで、言ってみれば高い場所に持ち上げられて位置エネルギーを与えられた状態から後はどう地面に落ちるか、というような旅行ばかりだったのが、今回初めて全行程を自分の都合のみで決めるという形になりました。

何故今回わたらせ渓谷鐵道がこのイベントを主催するという事になったかと言うと、'77年5月28日に当時中央公論社の取締役として働いていた氏がその激務の間を縫って国鉄全線完乗を成し遂げたのがこのわたらせ渓谷鐵道、当時の国鉄足尾線の終着駅、間藤だったという事から、氏の死後にわたらせ渓谷鐵道の社員の方がまず間藤駅に訪問者の記帳用ノートを置き、氏の作品の表紙を集めたカラーコピー等の展示を始め、それが発展して今回のイベントの開催に至ったという事です。開催にあたっては会社側との折衝、氏の未亡人、まちさんからの展示品の借用等、たった1人でかなりの作業をされていたようで、本当にお疲れ様でしたと言いたいです。

それでは今回の旅程です。

駅 名
時 刻
列 車
線区名
西船橋
05:20発
516E
武蔵野線
新松戸
05:35着
05:55発
567S
常磐線
06:03着
06:09発
637H
取手
06:21着
06:33発
15
関東鉄道
常総線
水海道
07:05着
07:07発
15
下館
08:00着
08:14発
1734M
水戸線
小山
08:37着
09:09発
442M
両毛線
桐生
10:06着
10:39発
721D
宮脇先生追悼号
わたらせ渓谷鐵道
間藤
12:17着
12:50発
726D
通洞
12:58着
通洞ー足尾間徒歩移動
足尾
14:22発
9728レ
トロッコわたらせ渓谷号
わたらせ渓谷鐵道
大間々
15:41着
15:49発
9760D
桐生
16:04着
桐生ー西桐生間徒歩移動
西桐生
16:46発
50
上毛電気鉄道
中央前橋
17:38着
中央前橋ー前橋間徒歩移動
前橋
18:44発
970M
両毛線
新前橋
18:49発
上越線
高崎
18:57着
19:02発
406C
とき406号
上越新幹線
大宮
19:34発
東北新幹線
東京
20:00着

実際はこの表の最初と最後に地下鉄にも乗っているので、それも含めると実に16本もの列車を乗り継いだ事になり(実は更に1本乗っています)、3月に行った出雲市の時の数を更新してしまいました。関東鉄道常総線の列車番号が重複していますが、これは途中駅の水海道で列車を乗り換えているのに色々調べても同じ番号しか出て来なかったのでこうなっています。

本編に入る前に、一応僕と宮脇作品との関わりを書いておきます。

初めて読んだ宮脇作品は「最長片道切符の旅」で、小学生だった頃に当時新刊で出たのを叔父から貰った物でした。無論僕は氏の2作目にあたるこの本の虜になり、以後数年に渡って何度も何度も読み返しました。そして数年前、叔父に貰った本が何故か手許にない事が判り、古本屋で文庫版を購入して現在の時刻表に載っている路線図と当時の路線図を見比べながらやはり何度か読み返していました。

今年に入ってまたこの本を読み返していた時、ふと、そう言えばこの人の他の作品って読んだ事がなかった(それどころかデビュー作である「時刻表2万キロ」しか知りませんでした)な、と思い、じゃあ明日大阪行くから向こうで買おうと思ったのが2月26日、氏が亡くなった日でした。翌日、新大阪駅構内の書店で文庫本を3冊買い、大阪での滞在中にあらかた読み終え、3月1日夜大阪発の寝台急行「銀河」で東京に戻ってみたら氏が亡くなった事が発表されていて(それまで氏の遺言により伏せられていたそうです)愕然としました。

単純に偶然なのでしょうけど、こういう事もあるのだなあと思い、以来、氏の著作を買い漁っては読み耽る日々を送っています。

元々はもう少し遅く家を出るつもりだったのですが、2日に納品するデータベースの改修をしていたら朝方になったので、始発の地下鉄で西船橋に出て最初に乗ったJRの列車がこの武蔵野線516E。車両は昔懐かしい103系です。都内ではめっきり出会う事は無くなりましたが、このあたりではまだまだ現役のようです。この日は四国と中国地方に上陸した台風4号の影響が懸念されましたが、この時点では非常にいい天気でした。

武蔵野線というのは不思議な路線で、外を見ているとトンネルが近いのかな、と思わせておいて切り通し、またトンネルかな、と思わせておいて今度は橋が上を跨ぐというフェイントに次ぐフェイントで、新松戸までの間、飽きませんでした。結局トンネルはなかった様な気がします。

新松戸から柏までは営団地下鉄千代田線からの乗り入れ列車、柏から取手まではこの103系に乗りました。上の写真のとは違って、低運転台タイプです。車内に入った途端、寝台車で特に強い国鉄の匂いが充満していました。あの匂いはクーラーから出ているんでしょうか? この匂いを嗅ぐと色々な事を思い出します。向こう側に写っているのは土浦発上野行き特急「フレッシュひたち2号」です。関東鉄道のホームにいたら通り掛かったので撮りました。

こちらがここから乗る関東鉄道常総線の15。LEDが表示している通り、水海道(みつかいどう)で乗り換えての下館行きです。右側に見えていますが、立ち食いそば屋や売店、多数の自動販売機があるホームでした。しかも更に↓

TVまでありました。ビールも売っています。何と言うか、摩訶不思議な空間です。

この路線は水海道を境とする北側と南側で全然雰囲気が違いました。取手を出てからの南側では30Km/h位の非常に遅い速度まで加速してはすぐ停まり、また加速してはすぐ駅という感じでひっきりなしに停車していたのですが、水海道から先の北側では駅の間隔がずっと長くなり、速度もかなり速く(それでも60Km/h程度でしょうけど)出していました。線路自体も取手ー水海道間は意外な事に複線、水海道から先は単線でした。多分北側と南側で線路を敷設した会社が違って、紆余曲折の果てに1つの会社になったのではないかと思います。

乗換駅の水海道の手前に「信号場」という名の信号場があり、そこに車両区がありました。そしてこんな可愛いディーゼル機関車もいました。足回りをよく見ると、車輪同士を蒸気機関車のようにロッドで接続してあるロッド式です。国鉄型のディーゼルカーもいっぱいいて眼福でした。本当はああいう車両に乗りたかったのですが。

水海道に着きました。擦れ違う取手方面の列車は旧型の車両が多いし、ここで乗り換えるのだから運が良けりゃ古いのがいるかも、と思っていたのですが、ここでも新型車両でした。左側が取手から乗って来た2両編成の列車、右側がこれから乗る単行の列車です。客は僕を入れて4人で出発しました。

途中駅の黒子(くろご)です。無人駅ですが、凄い迫力というか、風情がある駅でした。この手前の騰波ノ江(とばのえ)という駅も似たような感じでした。関東鉄道の名誉のために書いておきますが、半分位の数の駅は最近建てられたと思われる新しい駅で、こういう駅ばかりではありませんでした。

4人で水海道を出発したこの列車も、各駅で客を拾ってこの辺りでは15人近く乗っていました。

下館に到着。運転士さんがそのまま改札に入っていました。大忙しです。右奥に見えるのは同じ関東鉄道のバスだと思われます。

で、そのまま跨線橋を渡って水戸線のホームから撮ったのがこの写真。すんなり来れてしまってこの時点では全然気付いてませんでしたが、間に改札がありませんでした。

これが水戸線の小山行き1734M。ホームの番線表示看板と列車の屋根の間を鳩が一羽行ったり来たりしていました(前から2枚目のドア上部に小さく写っています)。水戸線は単線で交流電化されているらしく、小山の手前にデッドセクション(直流電化区間と交流電化区間の間の電流が供給されない区間)があって車内の照明が消えました。列車に乗っていて暗くなると丸ノ内線を思い出します。

ここまでは当初の予定を変更して家を早く出た分前倒しで移動出来ていたのですが、結局は次の両毛線の接続がなくて桐生到着は元の予定と同じになってしまう事を知ったのはこの列車の中で時刻表を開いた時でした。

小山でぽっかり空いてしまった時間の間にホームで天玉うどんを食し、両毛線のホームへと向かいます。歩きながらなんか変な所に連れて行かれているような気がするな、と思っていたら両毛線のホームは新幹線の高架下の殺風景な場所でした。なんとも陰々滅々とした場所です。この右奥には貨物ヤードと思しき大操車場がありましたが、止まっている車両はほぼゼロでした。

両毛線の高崎行き442Mは上の写真に写っている列車の逆側のホームに入って来ました。この辺りまで来ると目的が同じらしい人の姿が少しづつ目に付き始めます。桐生までの間に段々と天気が悪くなり、途中から雨になってしまいました。

10時6分、ようやく桐生に到着。1日フリー乗車券を買ってホームに上がると、わたらせ渓谷鐵道の721D「宮脇先生追悼号」は既に入線していて、先着していたファンの人達が写真を撮っていました。僕もその中に混じって写真を撮ります。この富士重工製の車両は通常のディーゼルカーではなく、バスの部品を多数流用して作られたレールバスと言われる種類に分類されるそうで、'89年の第3セクター移管時に導入したそうです。

この列車は3両編成で来ましたが、乗客数が思った程には伸びなかったらしく途中の大間々で最後尾の1両が切り離されました。集客、運用コスト、損益分岐点と言った厳しい現実が垣間見えます。とは言え、大体5〜60名程の乗客はありました。

これが今回わたらせ渓谷鐵道が制作したヘッドマークです。車内で入った案内によると、氏が国鉄全線完乗をした当時の国鉄足尾線の車両、当時の間藤駅舎、足尾銅山精練所の煙害で禿山となった山々(今は地元自治体等の努力により、かなり緑化が進んでいます)をあしらったそうです。

本来の予定では'00年に都電荒川線を走った特別列車「俊ちゃん号」のヘッドマークを付ける予定で、自宅に飾ってあった物をまち夫人の快諾を得て借りていましたが、そのヘッドマークのデザイナーである板谷成雄氏からの無断使用であるとの抗議を受け、急遽このヘッドマークを製作したという経緯がありました。確かに事前の根回しが足りなかったとは思いますが、この列車にそのヘッドマークが掲げられれば作った側としても誇らしいと思うのですが、使用を認めないというのはいまいち理解出来ません。

車内です。シートは転換クロスシートと言うのか、背もたれの部分が進行方向にばたんと倒れるタイプでした。窓枠には氏の取材旅行に幾度も同行したカメラマンの櫻井寛氏の協力により世界各地での氏の写真が額縁入りで飾られていました。櫻井氏はこの日も乗車されていました。

ぐずつく空模様の下、11時41分に神戸に到着。「こうべ」ではなく「ごうど」と読みます。足尾線時代は「こうべ」との混同を避ける為か「神土」と表記されていましたが、'89年の第3セクター移管に伴い自治体の名称に合わせた、とどこかで読みました。ここでは少し停車時間があったので車外に出てみました。古びた駅舎がいかにも駅、という感じで良かったです。

神戸には東武特急「けごん」の車両を使ったレストラン「清流」があります。左側に見えるのがそれです。何故か中間車だけを使っていたのが不思議でした。普通は先頭車両を使わないかな、と思いますが、置ける席の数や出入りのし易さ、整備や清掃の手間等の都合でこういう形になったのかも知れません。

神戸を出て次の沢入(そおり)までの間の5,200mにも及ぶ長大な草木トンネルに入ると「清流」製のトロッコ弁当の販売が始まりました。桐生を出た所で予約を取っていて名前も控えられていたのですが、この段になって無差別に売っていました。

で、この弁当(¥900でした)を買う時に細かいのが無くて、大きくてすいませんと言いつつ1万円札を出したら、販売員の方は細かくてすいませんと言いつつ千円札6枚と、ごく当たり前に伊藤博文の千円札1枚、岩倉具視の五百円札4枚を出して来ました。あまりに予想外の出来事にいいんですか?と訊くと、あ、他の方がいいですかと半分不思議がるような表情でした。

弁当自体は非常に素朴な物で、まだ暖かい舞茸の天麩羅が美味しかったです。けれども、トンカツ用のソースはあるのに天麩羅には何もなし。トンカツを醤油で食べる(ソースを掛けるとソースの味しかしなくなので)僕としては両方用として醤油を付けてくれればいいのに、と思いました。

この時点で持っていた切符類。左上はわたらせ渓谷鐵道1日フリーきっぷ。これとは別に織物を使った物もあるようです。左下は帰りに乗るトロッコわたらせ渓谷号の整理券。結構早い時期にみどりの窓口で買ってありました。そして右側が大間々を過ぎた所で配られたこの列車に乗った人に対する特典、間藤駅の硬券入場券の引換券。間藤は無人駅なので元々入場券はありませんが、このイベント用に制作したとの事。しかも2つ折りでフルカラーの台紙に付けられていました。どうもこの台紙はパソコンからプリンタで出力した物のようで、厳しい制約の中で最大限の努力をしているのがよく解ります。

沿線にいた結構な数の撮り鉄の人達に見守られつつ、定刻の12時17分、間藤に到着。ここは無人駅ではありますが、奥が陶芸教室になっていて「足尾焼」という足尾銅山の鉱泥を使った焼物を作っているそうです。その手前にはちょっとしたスペースがあり、そこが今回の展示会場となっています。この写真の左奥にも少し写っていますが、鉄道関連グッズの販売や信号機等の入札も行われており、あの手この手を尽くしているという感じでした。

そして入場券の引き換えに並ぶ人達の行列を捌いているスーツ姿のこの方ですが、なんとなく今回のこの追悼イベントの実行に尽力された社員さんではないかな、と勝手に思っています(僕は見逃しましたが、その方はNHKにそう紹介されて出演されたそうです)。経験則からして、その立場の人がいるポジションは車内での案内役か間藤での運営統括だろうな、と思っていて、車内の案内役の方はまず間違いなく違う感じだったので。もし人違いでしたらごめんなさい。当たっていたら本当にありがとうございました。

駅舎に併設されている陶芸教室はこんな感じです。なかなか落ち着いた雰囲気の焼物が並んでいます。手前の黄色い箱は銘菓トロッコサブレです。この写真の左側が入口なのですが、右側にもまだ続きがあって、喫茶室になっているようでした。

そして展示品の数々。まずは櫻井氏の撮影による写真の数々。「宮脇先生追悼号」の車内に展示してあった物とほぼ同じだったと思います。左下に見えるのは雑誌「旅」'03年5月号に掲載された年譜です。

未乗線区に乗って帰宅し、乗った線区を赤くなぞっていったという白地図。僕が見た限りでは大判の銀塩写真で撮影して引き伸ばしたレプリカではないかと思います。

数々の著書を集めたアクリルボックス。以前は表紙のカラーコピーを集めた物だったので、この日に合わせて持ち寄ったり買い集めたりしたのだと思います。僕がまだ読んでいない本がいっぱい入っています。

そしてこれが僕としては一番心に残った自筆原稿。こちらは本物でしょう。さすがに編集者、編集長を永く務められただけあって、非常に読み易い文字で書かれています。もしかしたら普段の字体と原稿執筆時の字体を変えていたのではないかと思われる程独特な文字でした。

他にも「時刻表2万キロ」の最終章、足尾線の部分等様々な展示がありました。

この日は氏の足跡を辿るという事で、間藤から廃線となった貨物専用線跡を見つつ、その先の砂防ダムへと行く無料マイクロバスも出ました。この時点では年配の方が数人乗っているだけで、これとは別のバスが来るのかなと思っていたらこれでした。その辺りのアナウンスが無くて判り辛かったり、あとここをこう工夫すればもっと良くなるのに、という部分が幾つかあったのは少し残念でしたが、この辺りは場数を踏まないと気が回らないので、致し方ない事でしょう。このバスはすぐ満員になり、臨時でもう1台ライトバンも来ていましたが、それにも乗れそうになかったので諦めて通洞まで2駅戻り、また別の氏の足跡を辿る事にしました。

12時50分に間藤を出た元「宮脇先生追悼号」、今は通常の726Dは途中で足尾に停車して12時58分に通洞に着きました。ざっと見た所、カメラマンの櫻井氏がいたのを除けば他にイベント目当てで来た人は見受けられず、普通の観光客や地元のおばさんたちに混じって列車を降りました。

足尾町の中心駅、通洞駅前です。こんな小ぢんまりした場所です。ここから5分ほど歩くと氏が'83年の6月15日に立ち寄った(新潮文庫「終着駅へ行ってきます」収録)足尾銅山の跡地を利用した観光施設があるのでそちらへ向かいます。

銅山観光への道すがら、ホルモン焼き屋を見付けました。とても好みな佇まいですが、さすがにこの時間では開いていませんし、いずれにしても時間がないので諦めて先に進みます。他にもちらほらと店や食堂等があるのですが、見た限りではコンビニやファミリーレストランと言ったどこにでもある店は全く無く(足利銀行の看板は見掛けましたし、ガソリンスタンドはどこかにあるのでしょうが)、全て個人商店だったのが町を独特な雰囲気にさせていました。

そしてこれが足尾銅山観光の入り口。何があるのかは良く知りませんでしたが、とにかくこの奥に進みます。ここはバスツアーで来たらしき観光客で賑わっていました。このバス客をなんとかしてわたらせ渓谷鐵道に乗せられないものかと思います。

入り口で入坑券を買って中に入ると、急坂を電動トロッコが登って来ました。みんなこれに乗り込みます。

先頭に連結されたアプト式機関車(2本のレールの間にラックレールと呼ばれる歯車付きレールがあり、機関車側の歯車と噛み合わせる方式の機関車。急坂の登り下りに適する)に先導されて急坂を下りると、すぐに一旦停車して機関車を切り離します。アプト区間は急坂の所だけらしく、2本ある3両編成のトロッコを1台の機関車で登り下りさせていました。奥に見える黄色いのがその機関車なのですが、どういう仕掛けか無人でポイントの先まで勝手に行って、ポイントが切り替わったら勝手に引き返して来ました。

これは後で撮った写真ですが、機関車を切り離してトロッコだけになった編成はトロッコ自体の動力でこのように坑内に進入して行きます。この坑道は3本ある足尾銅山の主坑道の内の通洞抗と呼ばれる物だそうです。

坑内に進入して少し進むともう終点です。坂の上の駅で乗ってから10分程ですが、もっと長く乗っていたような気がします。坑道の中は外より全然涼しく、また非常に天井が低いです。身長176cmで別に背が高い訳ではない僕でもずっと中腰でいなければなりませんでした。

順路はこのまま先に進み、鉄柵に突き当たります。そこからはサーチライトで奥が見えるのですが、どこまでも続いているように見えます。実際、足尾銅山全体では深さ1Kmの所まで延べ1,000Kmもの坑道が掘られたそうで、この観光施設として公開されているのは本当に入り口の更に極一部といった感じでした。

鉄柵の所で引き返し、トロッコが停まっていた辺りから横に入ると江戸時代から始まって'73年の閉山に至るまでの時代ごとの掘削方法の展示が時系列順であります。各コーナーには説明ボタンがあり、それを押すと全部で100体位いるのではないかと思える妙にリアルな人形が動いたり説明が流れたりします。

30代中盤位の夫婦、おばあさん、5歳位の男の子と3歳位の女の子の家族連れが僕と同じペースでずっと歩いていたのですが、下の子は恐怖のあまり泣きじゃくり、上の子もギリギリで泣きはしないものの、ほんのちょっとのきっかけで恐慌状態に陥ってしまいそうな危ういバランスの上で見学をしていました。

坑道をしばらく歩くと普通の建物の中に出て、色々とパネルやらジオラマやら展示があります。そこで見付けた足尾銅山観光最大の収穫。本気で知りませんでした。子供の頃、母親に緑青の付いた物や十円玉を触ったらすぐに手を洗え、と厳しく言われて以来ずっと緑青は毒だと思っていました。

建物を出ると中庭のような場所に出ます。ここではトロッコの機関車の付け外しをしていて、周りにはこのように坑内で使用されていた車両やジオラマ、掘削機体験コーナー(掘削機が石壁に先を突っ込んだ形で固定されていて、ボタンを押すと大音量の掘削音と共に掘削機が震動するという物)等色々と展示がありました。右上にちょっと写っているのはまたも妙にリアルな、けどサイズは小さい人形を使っての江戸時代の銅貨の製造方法の展示他がある建物です。奥に見える赤いベルト状の部分に線路があって、トロッコはここを右から左へと走って行きます。4枚上の写真はこの線路の向こう側で撮りました。

上の写真の所から階段を登り、土産物屋や喫茶店等が入った建物の2階部分から外に出るとそろそろ出口です。ふと見上げると大きな絵画の説明文を顔に手を当ててじっと読んでいる老婦人がいました。

足尾銅山観光を出て通洞の駅まで戻りましたが、丁度いい列車もないし、次に乗る9728レ「トロッコわたらせ渓谷号」は1つ間藤寄りの足尾始発なので線路沿いの道を歩く事にしました。そこで見付けたのがこの踏切。遮断機も何もありませんが、この右側には短い鉄橋を挟んで黄色と黒の警告色すらない踏切がありました。

線路沿いの道路には何故かこんなレトロな電柱が。写りが悪く、Photoshopで修正してもこの程度なのですが、何故かこの線路沿いの道にだけこんな木製の電柱が立っていました。町中の方は普通のコンクリート製でした。

約15分程歩くとようやく足尾駅が見えてきました。既に「トロッコわたらせ渓谷号」の発車準備は済んでいるようです。

ようやく足尾に着きました。ここも昔ながらの駅、という佇まいです。でも全体からするとこういう駅は少数派で、最近建て直されたらしい新しめの駅が多いです。

「トロッコわたらせ渓谷号」の牽引機、DE10の1678番機。わたらせ渓谷鐵道には2両在籍しています。このDE10という形式はローカル線区での旅客/貨物輸送や操車場での入れ替え作業用の機関車なのですが、片方にのみエンジンを積んでいるため前後でボンネットの長さが違います。

この足尾駅の間藤寄りには国鉄時代にここを走っていたと思われるキハ35が留置されていました。朝に関東鉄道で見掛けた中にもこれの兄弟車がいました。このまま朽ち果てていくのでしょうか。トタン板の小屋に隠れていますが、奥にもう1両います。

「トロッコわたらせ渓谷号」の後端部です。この列車は先頭からDE10ースハフ12(国鉄時代の急行型客車で、今は別の形式名です)ートロッコ車両2両ースハフ12という編成で、中間のトロッコ車両はなんと京王線の電車を改造した物だそうです。

発車時間が近付いて来たので車内に入ります。他の人達はみんなトロッコ車両の方に乗っていましたが、僕はこっちが目当てだったので後端部のスハフ12へ。最近よくよく考えてみたら、今まで国内ではブルートレイン以外の客車に乗った記憶がほとんどない(海外ではロスアンゼルスからアルバカーキまでのAmtrak、パリからバルセロナまでのバルセロナ・タルゴ、他にもイギリスやフランスでも少々乗った事はありましたが)僕としてはこのスハフ12はずっと楽しみでした。窓が開く客車というのは初めてかも知れません。少々興奮気味に席に座り、窓を全開にしました。

間藤行きの下り列車との交換を済ませ、14時22分に発車しました。この下り列車は725Dという列車番号で14時25分に間藤に着きます。これは'77年に氏が国鉄全線完乗を成し遂げたのと同じ時刻で、敢えてこの列車に乗ったと思われる人達の姿も車内に見えました。隣の原向(はらむこう)という駅では幼い兄妹がこの列車に向かって笑顔で手を振っていました。他にも沿線のあちこちで列車に手を振るおばさんや子供を見掛けました。やはり地元の人達にとってもこの「トロッコわたらせ渓谷号」は特別なのでしょうか。

車内ではブルートレインで使われているこの曲(曲名が判らないので採譜しました。ギターで起こしたので主旋律のみです)

 
が時折流れ、雰囲気を盛り上げてくれます。

開け放った窓から時折見える機関車。これです。これぞ列車です。そして途中で駅に停車した時に驚きました。空調を切っていた事もあって、停車すると車両が発する音が止み、風が渡る音や鳥の声だけが開け放たれた窓から耳に届くのです。それと同時に遥か昔の体験がフラッシュバックして来ました。いつ、どこでなのかは全く思い出せませんが、確かにこの雰囲気は子供時代に体験した事があるはずです。

この12系という客車は車掌室が付いている緩急車という形の車両(この編成の両端がそう)にディーゼル発電機が付いていて、そこから空調や照明の電源供給をするのですが、この時は先頭側の車両の発電機だけが動いていてこちら側のは動いていませんでした。お陰で停止すると上記の通り静かになり、走っている間もレールと車輪が擦れる音や台車が回転する音がするだけです。

折角だからという事でトロッコ車両にも行ってみます。

このわたらせ渓谷鐵道はほぼ全線を渡良瀬川に沿って走り、桐生側から見て桐生から神戸までは進行方向右側、神戸と沢入の間の草木トンネルを抜けると左側に峡谷が見渡せます。川には渓流釣りの釣り人が大勢いて、ようやく鉱山からの毒の影響が無くなった事を伺わせます。天気はこの頃には快晴になっていました。

途中に水沼という駅舎に温泉が併設されている駅があるのですが、そこと桐生側の隣接駅、本宿(もとじゅく)という駅の間で5月22日の夕方、トレーラーの転落事故がありました。この事故でトレーラーの運転手が亡くなり、わたらせ渓谷鐵道も大間々ー水沼間が終日運休となりました。事故の数分前には桐生行き上り列車が現場を通過していて、更に大惨事になる可能性も孕んでいた事故でした。この写真はその転落現場と思われる場所です。

草木トンネルからはずっとスハフ12の左車窓から外を眺めていました。窓から入る風も適度に涼しく、満たされた気分で15時41分、大間々着。ここには車両区があり、やはり12系の改造車「サロン・ド・わたらせ」が3両編成で留置されていました。

大間々からは「トロッコわたらせ渓谷号」運転日に運転されるシャトル列車9760Dで桐生へ。その途中、両毛線と合流した辺りについこの間まで営団地下鉄東西線に乗り入れていてこの5月に引退したばかりの103系1500番台と思しき車両がいました。行きの時にも見掛けたのですが、逆側に座っていたのと不意を突かれたので撮り逃しました。多分廃車回送で来たのでしょうが、この辺に車両工場でもあるのでしょうか。

桐生に着くと両毛線の高崎行きが来ていました。107系とか言う車両らしいのですが、この色は一体何なんでしょう。この写真では割とはっきりした色合いですが、現物はもっとぼやっとした色で、まるで揖保ノ糸です。

桐生で食事をしようと思っていたので、改札へ向かいます。桐生駅の改札はJRとわたらせ渓谷鐵道が共用しているのですが、わたらせ渓谷鐵道の切符が自動改札に対応しないため、こんな貼り紙というかポスターがあります。大きさからして当然手書きなのですが、一日フリーきっぷの絵の部分などいかにも、という感じです。

桐生ではひもかわという幅広のうどんを食べようと思っていましたが、目星をつけていた店が休憩中だったので断念し、西桐生の駅へと向かいます。

途中、食事が出来る所を探して駅前商店街を少し歩いてみましたが、御多分に漏れず商店街は殆どの店が閉店していて壊滅状態になっていました。大店法が通って以来、全国の地方都市でこういう状況は共通のようです。それに追い撃ちを掛ける出口の無い不況。それでも政権を代える気がないどころか高額な税金と引き換えに手にしている参政権を平気で捨てる国民。この国は一体何処へ行くのでしょうか。

西桐生駅前で見掛けたどう考えても問題のある屋号の店。先程の旧札の件といい、どうもこの辺りは時空が歪んでいて、世の中と20年位のズレが出ているような気がします。

4月の金沢に続き、ここでも井の頭線の車両と再会。やはり可愛いです。全国各地にまだまだこの車両が走っている所があるようなので、それらを制覇するのもいいかなあ、と阿呆な事も頭を過りました。上毛電鉄のコーポレートカラーはミントグリーンらしく、どの車両もマスクの部分はこの色に塗られていました。

考えてみると、井の頭線は氏の自宅がある世田谷区松原を通る路線で、もしかしたら氏もこの車両に乗った事があるのかも知れません。それと、あまり関係はありませんが、僕の母親は松原の出身だったので氏とは同じ町内になります。氏が松原に引っ越したのが何年なのか判らないので、同じ時期に2人共松原に住んでいた事があるのかは不明ですが。

やはりここでもワンマン化改造がなされていて、井の頭線時代の座ったままかぶり付きは出来なくなっていました。上毛電鉄は平凡な風景の中を走る平凡な地方私鉄、という感じであまり盛り上がりも盛り下がりもないままでした。さすがにこの辺りで睡魔が襲って来て、中間の半分程度の区間を夢現つの状態で過ごしました。

そうこうしている内に中央前橋に到着。ここでも北陸電鉄の内灘と同じく、ミラーに映る井の頭線車両の写真が撮れました。しかも今度はダブルです。

中央前橋の駅前。右側のガラス張りの建物が駅舎です。JRの前橋駅までは少しあるので、その間を無料のシャトルバスが走っています。左側にいるレトロ調のがそうです。でも僕は食事を摂れる所を探したいのと、前橋には以前ゴルフのシニアツアー絡みの仕事で2回来た事があるので、久し振りに見て回りたいのとで歩く事にしました。

結局中央前橋から前橋の間で営業中の店が無く、前橋駅の逆側でようやくラーメン屋を見付けたのでそこで食事にしました。両毛線は各駅にこういう写真入り駅名標が立てられていたり(しかも1枚1枚写真が違う)、「めん街道両毛線」と銘打って沿線に麺類が美味しい場所が多い事をアピールするキャンペーンを行ったりと色々やっているようでした。

奥に見えるのが前橋発上野行き970Mです。この時点ではこれに最後まで乗って帰るつもりでしたが、車内で時刻表を見ていたら2時間も乗りっ放しなのが辛くなってきてしまい、高崎から新幹線に乗る事にしました。

高崎で飛び乗った406C「とき406号」はこれも今となっては貴重な200系でした。色もオリジナルのままで、車内にもLED表示板等の装備が無かったので殆ど国鉄当時のままの状態なのではないかと思います。

東京着は20時きっかり。妙に疲れた1日でしたが、非常に楽しめました。最後にもう一度、わたらせ渓谷鐵道の社員の皆さん、関係者各位に謝意を表して終わりたいと思います。

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