博多での仕事を終え、中洲川端で一泊してからの本格的徘徊旅行。この日の旅程は非常に複雑なので、一覧にします。着時刻に「頃」が多いのは駅によっては時刻表に発時刻しか記載がないため、「サンライズ出雲」の岡山発が曖昧なのは上り「あさかぜ」が遅れた影響で遅れたためです。

駅 名
時 刻
列 車
線区名
中洲川端
06:20頃発
 
福岡市営地下鉄
空港線
博多
06:30頃着
06:43発
1626H
鹿児島本線
吉塚
06:45着
06:46発
篠栗線
桂川
07:18着
07:20発
筑豊本線
新飯塚
07:33着
07:36発
1539D
後藤寺線
田川後藤寺
07:57着
07:59発
934D
日田彦山線
城野
08:48頃着
08:49発
2532M
日豊本線
西小倉
08:57発
小倉
08:59着
09:13発
622A
こだま622号
山陽新幹線
厚狭
09:38頃着
10:05発
3536M
山陽本線
宇部
10:15着
10:17発
1432M
(宇部新川より1836M)
宇部線
小郡
11:17着
12:55発
1004D
スーパーおき4号
山口線
益田
14:29着
14:31発
山陰本線
出雲市
16:11着
電鉄出雲市
16:34発
 
一畑電気鉄道
北松江線
川跡
16:43着
16:45発
 
一畑電気鉄道
大社線
出雲大社前
16:56着
出雲大社
18:00発
 
一畑バス
出雲市駅
18:24着
出雲市
19:04発
4032M
(岡山より5032M)
サンライズ出雲
山陰本線
伯耆大山
通過
伯備線
岡山
22:26着
22:38頃発
山陽本線
神戸
通過
東海道本線
東京
07:08着

当初、久大本線で別府に出て船で四国に渡るルートも検討したのですが、船がなかなかいい時間になくてその日の「サンライズ瀬戸」に間に合わないのと、宮脇俊三氏の「時刻表おくのほそ道」に登場した一畑電鉄に乗ってみたいというのもあったので、こちらの出雲ルートにしました。

6時前に起床して地下鉄で博多に出て最初のJRの列車がこれです。宮脇氏の本でしかこの辺りの鉄道事情を知らない(しかも下手をすると20年以上鉄道関係の情報を仕入れていない)身としては、まず篠栗線が電化されていた事に驚きました。また、2両で走っている事(普段は10両編成が当たり前なので)、結構乗車率が高くて席が半分以上埋まっていた事にも驚きましたが、何よりこの車両の乗り心地の良さは今まで味わった事がない程でした。

写真は撮れませんでしたが、桂川の2駅手前の九郎原(「くろうばる」、と読みます。この辺りでは「原」は「はる」と読むらしく、「原田」は「はるだ」、「長者原」は「ちょうじゃばる」です。また、「桂川」は「けいせん」です)という駅は谷間に集落があり、その集落を跨ぐ鉄橋上に無人駅があるという摩訶不思議な作りでした。

新飯塚で後藤寺線に乗り換え。篠栗線の2両で驚いていたらここでは車両の両端に運転台があるキハ40系が単行で来ました。しかし、これこそ望んでいた「ローカル線」の雰囲気なので嬉しいです。

田川後藤寺でキハ40系2両編成の日田彦山線に乗り換えて1駅目、田川伊田で進行方向左手を。筑豊の山々と寂寥とした町並みをバックに信号機が働いていました。

この駅は昔、伊田という名前で呼ばれていて、直方からの伊田線、行橋への田川線の始発駅でもありました。これらの線区は第3セクター化され、今は「平成筑豊鉄道」と名を変えて走っています。写っているのはその田川線側、行橋方面へと向かう線路です。

日田彦山線に乗った最大の理由、香春岳が見えてきました。この辺りから自分が文庫本の中に迷い込んだような、妙な感覚を覚え始めます。

宮脇俊三著「時刻表2万キロ」角川文庫刊 83Pより抜粋
〜〜〜
 長いトンネルを抜けると採銅所という軽便鉄道の駅名のような駅があり、このあたりから右窓に近く突兀とした三つの峰が現れる。炭坑節の「一山、二山、三山越え」はこの香春岳三峰のことで、とくにいちばん南にある一ノ岳は標高四一〇メートルに過ぎないが、要害の地なので平安時代に早くも山城が築かれたという由緒ある山である。
 ところが、列車が香春駅に近づくにつれてその香春岳が無残な山容に変ってくる。この山の不幸は全山石灰石から成っていることで、大きなセメント工場が麓に喰いつき、南面は頂上まで削りとられているではないか。灰白色の内蔵は露出し、激痛のあまり天に向かって牙を剥いているようでもあり、復讐の機を窺っているようでもある。セメントには日頃お世話になっているから、香春岳をいじめるのはやめろとは言えないけれど、突兀とした山容に表情があるので胸が痛む。
〜〜〜
('75年12月30日 小倉発11時32分日田行きの日田彦山線にて)

宮脇俊三著「途中下車の味」新潮文庫刊 221-222Pより抜粋
〜〜〜
 右窓に香春岳の峰々が並んでいる。北から三ノ岳、ニノ岳、一ノ岳の順である。筑豊の山々の形は平凡だが、香春岳連山は際立った山容で、「香春岳から見下ろせば、伊田の竪坑が真正面」と炭坑節にも歌われている。ただし、いちばん目立つ位置にある一ノ岳の姿は無惨きわまりない。麓に日本セメントの大工場が食いつき、石灰岩から成るこの山を容赦なく削っているのだ。
 十何年か前、はじめて車窓から香春一ノ岳を見たときは、まだ南面だけが削られたにすぎなかったが、いまや頂上まで消失し、平らな山になっている。今回のルートに日田彦山線を組み入れたのは一ノ岳の現状を見、二人にも見せたかったからだが、予想以上に採掘が進んでしまったようだ。
〜〜〜
('87年5月19日 小倉発10時46分日田行きの日田彦山線にて)

先に小倉に着く日豊本線上り2532Mが城野の向かいのホームにいたので急遽乗り換えて8時59分、小倉着。お陰で小倉での乗り継ぎ時間に余裕が出来ました。この列車は満員で通路にもぎっしり人が立っていました。ここまで空いていた列車というのは日田彦山線の田川伊田から先だけで、他は全部ほぼ満席という状態でした。

小倉に着くと、すぐに向こうのホームに「さくら・はやぶさ」が滑り込んで来ました。手前に写っているのが城野から乗った2532M、奥は「はやぶさ」と「さくら」の連結部分です。やっぱり24系と14系が連結しているのは変です。で、この時間の小倉のこのホームにいると言う事は.....↓

やっぱりいました。早くも3回目の巡り合わせとなる「いそかぜ」です。当初山陰ルートを探っていた時、この列車も候補に上がっていました。なのに小郡経由にしたから怒って付き纏って来たのでしょうか。心なしか、恨めしげな眼でこちらを見ているようにも思えます。しかし、「いそかぜ」との因縁がこれで終った訳ではありませんでした.....。

新幹線ホームに上ると、東京では既に見られない0系がたったの6両編成でちんまりと佇んでいました。新幹線には毎年結構な回数乗っていますが、東京ー新大阪間ばかりなせいで新幹線は16両編成という固定観念が出来上がってしまっていて違和感を拭えません。

しかし、いつ見ても0系は可愛いです。車内設備改善等の改修を受けて妙な色に塗られていますが、この角度からの頬っぺたの曲線など最高です。レトロ・フューチャーの良さというか、狙った訳ではない可愛さがミニ・クーパー等に通じる物を感じます。

0系に見惚れている内に目的の列車、622A「こだま622号」がやって来ました。100系ですが、やはり6両編成。またも違和感を覚えます。

しかし車内に入るとびっくり。本来3列+2列のシート配列なのに、これは全車2列+2列のグリーン車と同じ配列になっていました。新幹線の普通車両は前後にはゆとりがあって非常に良いのですが、やはり横方向には狭いのが難点ですからこれはいいです。このシートは座り心地も非常に良く、東京を出て以来ずっと睡眠不足気味だったので居眠りして乗り過ごさないよう気を張っている必要がありました。

来た時と同じく、やはり関門トンネルはあっさりと終ってしまいました。ここには歩いて渡るためのトンネルもあるので、その内徒歩で渡ってみたいと思います。

厚狭駅新幹線ホームより。本来は「こだま622号」で小郡まで行くつもりで切符も買ってあったのですが、宇部出身の方(父上は20系だった頃の「あさかぜ」に専務車掌として乗務されていたそうで、宇部付近を通過する時に車掌室の窓から土産物を投げてもらったりしていたそうです)から小郡は「しーんとした所」だとの話を聞いたのと、前夜の時刻表との付き合いにより宇部線に乗っても結果は同じだとの結論が出たので、ここにて下車。10時7分発の美祢線長門市行き727Dがぽつんと止まっていますが、駅自体はホームの本数、広さ等一流の駅で、往年の栄華を偲ばせます。

中洲川端を出て以来非常に接続が良くて、と言うよりも、良過ぎて駅から出るどころか乗り継ぎの時も走らないとならない程慌ただしくここまで来ましたが、この厚狭でようやく約30分の余裕が出来ました。

厚狭駅前。地方の駅はどこも似たような物なのかも知れませんが、なんとなく中央本線の中津川駅を思い出しました。

持っている乗車券は山陽新幹線で小郡まで行く事になっていたので、窓口で差額を支払おうと思ってその旨を尋ねると、窓口氏は確認の為に一度中に引っ込んでから「選択乗車区間」に相当するのでこのままで良いと教えてくれました。宇部ー小郡間の営業キロは山陽本線を真っ直ぐ行くと25.3Km、宇部線を経由すると33.2Kmで、差し引き7.9Kmも違うのに追加の運賃を取らないとは有り難い事ではありますが、あまりに大雑把な気もします。

しかしこの窓口氏、僕の前にいたおばあさんに旅程をプリントアウトした紙を見せながら細かく説明し(どこに行くのかは判りませんでしたが、結構な回数の乗り継ぎをするようでした)、最後にはクリアフォルダに観光案内等も一緒に入れて渡していて、なかなか良いサービス振りでありました。この辺りは国鉄時代に比べて格段に良くなったのではないかと思います。

厚狭駅から見た駅前広場。朝食を求めて少し駅前を回ってみましたが、目ぼしい店がなかったので結局駅ソバで済ませてしまいました。この日の食事運のなさはここから始まったようです。

肉天うどんで腹を膨らませて構内に戻ると大好物のPFが。無論カメラに収めます。しかしこのPFもこの後また巡り合う事となります。

厚狭から2駅、宇部まで乗った山陽本線の3536M。確か4両編成で、見慣れない塗装ではあるけれど、車両自体は仕事で横浜へ行く時に乗る113系とほぼ同じに見えました。

本当は厚狭と宇部の間の小野田から小野田線に乗って、居能から宇部線に入りたかったのですが、さすがにそれだと小郡発12時55分の「スーパーおき4号」に間に合わないので仕方なく宇部線のみとしました。また、その小野田線には3月14日まで国内最古の現役電車、'33年製造のクモハ42が走っていましたがこの日は25日。たった11日の遅れでこれも逃しました。15日と16日には引退記念イベントも行われていたそうです。いずれにせよ、今回の博多行きが17日夕方に決まって19日夜に出発という慌ただしさだったので仕方ありませんが、心残りではあります。

宇部駅0番線で宇部線に乗り込む人々。クモハ123という車両(余剰となった荷物車からの改造車だそうです)が単行でいました。この頃になると単行で列車が止まっていても驚かなくなっていました。車体の両端にドアがあり、その間はずーっとロングシートになっているというこれまた首都圏では見慣れないシート配列の車両で、不思議な感じでした。

運転本数が少ないせいか車内は非常に混みあっており、宇部から小郡まで立っている人が常にいる、という状態でした。

ちょうど1時間走って小郡に着き、一息入れるクモハ123。宇部線は期待していた程には海が見えず、車内ではガムを噛んで必死に睡魔と格闘していました。

一つ不思議だったのが、途中の宇部岬駅できっちりお洒落をした20歳前後の若い女の子達が20名程大挙して降りた事。中には山陽本線の車内で見掛けた子達もいました。車内から見た限り、駅周辺に何があるという場所でもなさそうでしたが、宇部岬では一体何が行われているのでしょうか?

小郡駅前。やはり立派です。前出の宇部出身の方の言われた通り、「しーんとした所」でした。

駅前から少し歩いたらこんな合わせ鏡のような不思議な光景に出くわしました。どうも僕はシンメトリックな構図が好きなようです。

上の写真左側の道を進むと、右側には懐かしい雰囲気の刃物屋さんが。

更に進むとやはり右側に非常に不思議な構造の建物が。

枚数が多くなり過ぎるので分割写真にて。この建物の構造は1階部分中央を通路が貫き、更にその中央部分に空に向かって穴が穿ってあるという文章で説明するのが難しい物なので、図にします。

1階部分
2階部分
     
     
     
     
     
     
   =住居部分
   =通路部分
   =住居部分
   =穴部分

大体この図でお解りでしょうか。写真は

左上:1階通路部分から向こう側を見る
右上:中に入って上を伺う
左下:2階の穴部分を逆側から見る
右下:逆側から見た建物全景

という感じです。

突然'70年代の少年期に引き戻されたような錯覚を覚える商店長屋。この写真はちょっとトリミングするだけで昔のままになるなのでしょう。「レコード」と書いてはありますが、さすがに売っているのはCDでした。そしてこの場所で後を振り向くと.....↓

民家の軒下にこんな物が。そう言えば昔はこんなのがどこにでもありました。

駅の逆側へ至る跨線橋の上から見た車両区。左端には12系客車が1両だけ見えます。また、黄色いキハ40系が集まっている奥のあたりには蒸気機関車時代の転車台があり、今でもキハ40系が使っています。確かに全車に運転台と動力があり、架線なしで動けるこの形式にはうってつけです。写真も撮るには撮ったのですが、「スーパーおき」で横を通り掛かった時に気付いて慌てて撮ったので写真になりませんでした。

厚狭で見掛けたPFの1126番機とここで再会。どうも今回は列車に追い回される旅行のようです。跨線橋の金網越しに撮ったので、少し金網が写り込んでしまいました。

跨線橋を渡り、新幹線の高架をくぐるとこんな所に。在来線側が「表口」と呼ばれてはいますが、新幹線側の方がお金が掛かっているように見えます。昼飯を探して在来線側の駅前をうろついたものの、結局ラーメン屋で済ませてしまった(でも結構旨かった)ので少し悔しくもありましたが、よくよく見てみるとあまり大した店もないようでした。

車両区の端に寂しげに独りでいたスハフ12 36。「試運転」の表示が出ていました。車籍はあるのでしょうか?

小郡の駅は初のSL復活運転列車「SLやまぐち号」の始発駅でもあるので、SLに合わせたと思しきこんな看板も。後のタイル壁も雰囲気作りに一役買っています。下の喫煙コーナーの表示が惜しいです。これもレトロ調にすれば良いのに。

0/1番線ホーム端にはこんな駅名標も。これは山口線の各駅で見掛けました。それだけ「SLやまぐち号」は貴重な観光資源なのでしょう。ペンキの剥げは人工的な物(ギター等ではよくある仕上げ手法です。フェンダーが出しているスティーヴィー・レイ・ヴォーンモデルのストラトなどはその最たる例)かと思って近くで見てみましたが、本当に剥がれていました。わざとなのか、はたまた予算不足による物なのか.....。

0番線のホーム終端部。やはりこういう形のホームは良いです。

1番線に小郡発山口線経由米子行き特急「スーパーおき4号」がたったの2両編成で入って来ました。この車両、キハ187系と言うそうですが、なんか海外都市の地下鉄のような顔で特急車両には見えません。しかもカーブで車体を傾けてスピードを稼ぐという振り子式らしく(確かにこの写真でも柱に対して傾いているのが判ります)、車窓を眺めている分にはいいのですが、ちょっと時刻表でも調べようものならたちまち気分が悪くなってしまうという困った形式でした。僕は未だ乗った事がありませんが、何故元祖振り子式の381系がゲロ電と呼ばれているのかが良く解りました。

津和野にて。本当はここも色々と見て歩きたい街なのですが、それをやってしまうと前後の接続が目茶苦茶になってしまい、旅程を1日伸ばす他なくなってしまうので諦めました。慌てて撮ったこの写真は発車時に席の逆側にいた「SLやまぐち号」用C57の1番機。逆側には同じく「SLやまぐち号」用の客車も停まっていました。

益田に着きました。この駅は今年開業80周年だそうで、色々やっているようでした。で、何かを背筋に感じて左窓を振り向くと.....↓

また「いそかぜ」です。今度は下り29Dが待ち構えていました。こんな1日1往復しかない列車に4回も巡り合わせるとは思いませんでした。

「いそかぜ」に見詰められつつ山陰本線に入ると左窓に日本海が広がります。丸い形の湾にある小さな漁港の外縁部をぐるっと巻いて走ったり、色々と車窓が楽しい区間です。が、残念ながら僕の席は山側。車内が空いていればもう1つの車両の自由席に席を移して満喫したい所ですが、生憎この日の「スーパーおき4号」は結構な乗車率で、無理でした(この写真に写っている席も少しの後に次の乗客が座りました)。

出雲市に着き、コインロッカーに大きい方の鞄とPowerBook G4を入れて身軽になり、JR駅に隣接する一畑電鉄の電鉄出雲市駅へ。いかにもローカル私鉄、という風合の鄙びた駅を想像していましたが、行ってみたら非常に新しくて綺麗な高架駅でした。何故か駅の入り口は右側の暗い通路の途中の左側にあります。駅の待合室では円筒形の石油ストーブが列車を待つ人達に囲まれていて、その一角だけが真新しい駅の中で異彩を放っていました。

これが川跡まで乗る北松江線の列車。宇部線のクモハ123と同じく、両側の車端部のドアの間にロングシートというシート配列ですが、運転室の右側直後にも席があり、所謂「かぶりつき」が席に腰を下ろしたままで出来ます。この会社には追加運賃を支払って自転車を車内に持ち込む制度があり、この列車でも運転士のすぐ後の車椅子用のスペースに自転車を紐で括り付けていたおっさんがいました。

電鉄出雲市の駅はホームも非常に真新しく綺麗で、電光表示板も設置されています。

大社線への乗換駅、川跡。手前がこれから乗る出雲大社行き、真ん中が電鉄出雲市から乗って来た列車、向こうが電鉄出雲市行きの列車です。2両編成とは言え、3本も列車が揃うと壮観です。

この駅での接続は極めて良く、半ば走るようにしながら遮断機のない踏切を渡ってばたばたと乗り込むと間髪入れずに3本の列車が同時に発車します。しかも大社線の列車と北松江線の電鉄出雲市行きはこの写真の手前側に出発し、互いに横腹を見せるようにしながらどちらの列車も大きな曲率のカーブを曲がって離れていきます。これはムービーでも撮っておけば良かったのですが、あまりに凄い光景にただ我を忘れて見入るのみでした。

川跡駅の側線に留置されていたデハなんとかという車両。昔西武線で見たような顔です。

川跡から出雲大社前までは途中いくつかの緩いカーブを交えつつも、間はずっと直線です。お陰でレールが結構よれよれと歪んでいるのも判ります。途中駅の手前で警笛を鳴らしたのでどうしたのかと思ったら、線路のすぐ脇で遊んでいた5歳位の男の子がジャンプして列車を避けるのが見えました。

途中で見掛けた保存車両。架線がないのにパンタグラフが上がったままになっています。

線路側から見た出雲大社駅。右側のホームの所にちょっとだけ写っていますが、ホームに車が止まっていてどこからどこまでが駅なのかよく判らない作りでした。

駅舎の中からホームを見る。改札に人がいませんが、駅業務を委託されていると思しきおばさんがこの写真の左側のホーム上にいて、切符を回収していました。

なんとも不思議な様式の出雲大社前駅。右側にちょこっと見えるコカ・コーラの自動販売機の辺りからホームと車両が見えます。内部は吹き抜けになっていて、なかなかいい雰囲気です。お土産屋や観光案内所も入っています。宮脇俊三氏の「時刻表おくのほそ道」の一畑電鉄の章の扉にこの駅舎のイラストが載っているのもあり、この頃には完全に紀行文と現実の境界線を越えた(と言っても実際にある場所の話なんで境界線はないのかも知れませんが)気分になっていました。

奥に見えるのが出雲大社の入り口。後に聳える山々が雰囲気を盛り上げます。後を振り向くともう一つ大きな鳥居が道を跨いでいます。

ここが「時刻表おくのほそ道」で明円氏が「もう食べました、すみません」と言いながら通った道かー、と思いながら歩いていると、自転車に乗った10歳位の女の子とふと眼が合った瞬間に「こんにちわ」と言われました。なんとか返事はしたものの、不意を突かれて焦りました。子供の頃から「知らない人間は信用するな」と言われて育った東京の人間としては未だこんな場所があるのだな、と感慨が深かったです。

同じ場所で駅の方を振り返るとこんな光景が。奥に見える大鳥居は日本一の大きさだそうで、高さ23m、柱の周囲は6m、上部の額面(この写真では松の木の陰になっています)の広さは6畳もあるそうです。

入り口。この鳥居が立っている広場が一番高い部分らしく、この先は本殿までずーっと真っ直ぐ下って行く事になります。

このT字路の左側に出雲そば(割子そば)を食べさせる店が4〜5件並んでいて、その中の駅よりの店でおろしそばを食べました。この日は食事運がありませんでしたが、ようやく土地の旨い物を食べられて溜飲を下げた思いでした。このそば屋(確か「かねだ」という屋号だったと思います)ではDimage Xiのバッテリを充電させてもらったり、この辺りの観光ガイドをもらったり、JR大社駅跡(僕は大社線が廃止された事もつい数日前まで知りませんでした)の事を教えてもらったりと、にこやかで親切なおばさんに色々とお世話になりました。

入り口から本殿まで3〜400mはあると思われる参道には3本の鳥居があり、橋の奥に見えているのが中間の物です。

本殿手前にはいくつかこの手の銅像というか展示があり、これは「幸魂 奇魂(さきみたま くしみたま)」という物だそうです。この位の時間帯になってくると広くて暗い所に滅法弱いDimage Xiがちゃんとした計算ができなくなってヒイヒイ言い始めます。

上の「幸魂 奇魂」の逆側にあった「因幡の白兎」をモチーフにした物。近くで見ると兎の眼が怖いです。

ようやく本殿前に到着。これが最後の鳥居です。奥に見えているしめ縄(この太さになると、「縄」とか「綱」とかではない別の単語を用意した方が良いように思います)付きの建物は多分本体ではなく、その更に奥にあるのが出雲大社の本体なのではないかと思います。

手前の建物。入り口の奥のちょっとした広間には色々なお供え物が積まれていて、巫女さんが何やら働いていました。

多分本体だと思われる建物。中には入れず、左の道も通行禁止にされていました。山陰の山々に抱かれたその威容は宗教的畏怖を十二分に煽っています。右側に見えるのが手前の建物の後部です。

これがその通行禁止になっている道。奥の方がとても良い風情に思えます。

またシンメトリー。3枚上の写真でもお判りのように、手前の建物の2枚の屋根は高さも大きさも全く違いますが、一ヶ所だけこのように見える場所を見付けました。

葬儀の場では求められた通りにしますが、僕は宗教との一切の関わりを持たない事を信条としているので、賽銭も出さず、柏手も打たずに出雲大社を離れ、脇にあるバス乗り場へと行きました。

神の町の神々しい犬達。もうDimage Xiの好きに撮らせると全くまともな絵にならなくなっていたので、マニュアルでISOとアイリスを上げてPhotoshopでオート補正を掛けたらこんな絵になってしまいました。

丁度いい時間に便があるのと、道路からもこの土地を見たかったのでここからは電鉄ではなくバスで出雲市駅へ。これらとは別のバスがこのがらんとした雰囲気のバス乗り場にやって来ました。

道すがら、時間がなくて見られなかったJR大社駅跡をちょっとだけ見せてくれたり(静態保存されてる蒸気機関車が見えてしまったりして目の毒でした)、「自衛隊前」という停留所で街へ呑みに行くらしきどう見ても自衛隊員の青年2人(どうだろうな、と思いつつ会話に耳を傾けていると、「ひとよんまるまる」とか業界用語連発でした)を拾ったりしつつ、バスは出雲市駅前に到着。左に見えているのは出雲大社から乗ったバスです。

コインロッカーから鞄とPowerBook G4を回収し、構内の売店とコンビニが一緒になったような店で酒類とつまみ類を調達し、ホームに上がるとまだ入線していませんでした。

長いようで短かったこの旅もこれが最後の列車。さすがに1日で12本も列車を乗り継いだのは初めてだったので疲れました。

下関にも何故かいた285系。寝台電車としては581/583系以来本当に久々の形式です。なんとなく面影も残してはいますが、中身はほぼ全編成に渡って2階建て、寝台の全てが個室と全く別物になっています。

この編成での最大の欠点は喫煙車両の少なさ。7両編成の内、シングル1両分と数部屋分しか喫煙室がないために真っ先に売り切れるようで、僕は自分の部屋がある2号車前端から喫煙デッキのある6号車前端までの約80mを数往復する羽目になりました。

この列車には5種類の個室と船の2等船室のような普通車指定席(椅子はなく、カーペットに寝転がる格好になりますが、寝台料金が不要なので人気があります)が連結されていて、この日取った部屋はその中で一番数が多いシングル個室。既に写真の枚数が多過ぎるので、通り一遍の個室紹介は4分割画面にて。

左上:「はやぶさ」と違って両側にドアが並ぶ2階部分廊下
右上:手順はほぼ「はやぶさ」と同じドアロック
左下:ベッドの頭側、運良く進行方向に合っている
右下:上に向かって湾曲した窓、向こうには出雲市駅の駅標が見える

左上:ベッド頭側から進行方向を見る
右上:ベッド足許、スペース確保の為、ベッドが軽く抉れている
左下:ハンガーとドア、脇には縦長の鏡
右下:コントロールパネル、NHK-FMのみのラジオと時計が「はやぶさ」との違い

これも要するに独房ではありますが、こちらの方が新しい分良い部分と、「はやぶさ」の方がさすがにA寝台で良い部分があります。とは言え、ベッド脇の細長い板張りの部分(1つ上の写真左下)以外に荷物を置ける場所がないのにはさすがに閉口しました。NHK-FMは最初は聞けましたが、ニュースが終わったので消してしばらくしたら電波が入らなくなっていました。また、この写真左上の窓の脇にあるスピーカーから車内放送が流れる時にはミュートされるようになっていました。

出雲市駅で購入したかに寿し。ここでも食事運のなさが出ました。ただひたすら酢飯が酸っぱかったです。松江を過ぎてしばらくした頃、東京の友人から電話があったので旅行自慢などしていましたが、安来を過ぎた辺りから電波が弱くなり、米子市街まで辿り着く前に切れてしまいました。

疲れていたのか、横浜の辺りで一度起きたもののまた寝てしまい、起きたら新橋近辺でした。やはり夜が明けてからが短い夜行は楽しみが少ないです。ラッシュアワー寸前の東京駅ホームに降りて気付きましたが、着いたのは6日前に「はやぶさ」に乗り込んだホームの向かい側でした。

今回は乗り継ぎや各駅での時間の取り方が異常に上手く行き過ぎて、逆にどこにも余裕がないスケジューリングになってしまったのが反省点です。次に山陰へ行く時には是非とも余部鉄橋を下から見上げたり、松葉ガニを喰ったり、JR大社駅跡を見て来たいと思います。勿論「いそかぜ」にも乗って無念を晴らさせてやりたいと思います。キハ181系の国鉄色なんて残り時間はほとんどないでしょうから、近い内に。

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